すいせい

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このブログはデザイナー樋口賢太郎が綴る日々のことです
2019.12.10

セザンヌの秘密

いまさらながらと突っ込まれそうだが、ここ数年印象派の画家セザンヌにだいぶ魅せられている。

もともと印象派は、油絵を描いていた高校時代にのめり込んでいた時期があり、
そのころはモネやボナールが描く世界になるべく近づこうとしていた。
色の鮮やかさを追い求める印象派は高校生にもわかりやすかったのだろう、
それまで写実的に描くことを追求していた価値観ががらりと変わり、
どういう色と色を隣り合わせると鮮やかに発色するか、当時そんなことばかりを考えていた。


その後の自分の興味は、絵画史と同じ道を辿り、抽象画、現代美術、コンセプチャルアートなどを経て、
最終的にはデザインに行き着きつくことになり、絵画を制作することへの熱意はなくなってしまうが、
とにかく高校のときはモネを筆頭とする印象派に心を奪われていたのだ。

ただそんな印象派にどっぷりと浸かっていたときでさえ、セザンヌの存在はどう受け止めていいのかわからなかった。
全体的に輪郭がボヤッとしていて筆致も定まらないし、
安定しているはずのテーブルに置かれた果物はいまにも床に落下しそうである。
中間色が画面の多くを占めているので、印象派の命とも言うべき色彩の鮮やかさにも欠けている。
まったくひどい言いようだが、デッサンが狂っている鈍い色合いの絵だとしか当時は認識していなかった。
もしかして実物を見たことがないからかとも思い、
上野に来ていたバーンズ・コレクションで初めて対面したが、その印象は変わることはなかった。

それから月日が流れて2012年に国立新美術館で『リンゴとオレンジのある静物』という有名な作品を見る機会があった。

上記のように自分にとってセザンヌは評価が高いほうではなかったので、他の作品を見にいったついでだった。
しかしなにも期待せずに出会ったときの衝撃はいまだに忘れることができない。

絵は遠くからぼんやりと目の端に入ってきて、その段階でも何か美しいものがあるなと察知できた。
おや、なんだろうと思い、順路を無視して近づいていくと、美しい絵が目前にあった。
その絵には、いままで見たことがない奥深い方法で、リンゴやオレンジが描かれていた。
美しさの密度が濃く、ぎっしりと詰まっており、それらが幾重にも折り重なっていて奥が見透せない。
テーブルに置かれたリンゴの影の部分を見つめているとさまざまな色が現れては消え、点滅しているように見える。
さながら光を受けた宝石が回転しながらキラキラと輝いているようだった。
時間軸はないはずの絵画なのに、タイムラインのようなものを感じるのが不思議で、
まったく初めての体験に、いやはや、すごいものを見てしまったなと驚愕した。
いっぽうでその深遠さはどこから来るのだろうかと、魅力を言語化できないもどかしさがあった。

その後、何点か作品を見たが、質量ともに十分でなかったので言い表せずにいたが
現在、上野に来ているコートールド美術館に行き、セザンヌの秘密が少し理解できるような気がした。

『鉢植えの花と果物』という静物画を見ていたときだった。
鉢植えなどが乗せられた白い布が青色とも薄茶色ともつかない魅力的な色合いをしていた。
印象派の画家は、色が濁ることを嫌うので青に茶色を混ぜることは少ない。
しかしセザンヌはそのことにあらがうように色を混ぜていた。

画家がモチーフと長く向き合う際に、光の具合で、布が青に見える場合もあるし、薄茶色に見える場合もあるだろう。
一般的な印象派の画家はモネしかり、魅力的に見えた瞬間を捉え、例えば青のみで表現する。
しかしセザンヌは瞬間的な表現に飽き足らず、まるで長時間露光のように、
モチーフの魅力を可能な限りキャンバスに定着しようと試みたのではないだろうか。
その結果、青と茶色は混じって表現されたのだと感じた。

そう考えるとあいまいな筆致やねじ曲がった空間も納得がいく。
例えば一年という時の流れのなかで見えてくるモチーフの魅力を写し取ろうとすると
ゆらぎも必然的に定着することになるし、ある部分を集中的に描き、空間が歪むこともあると思われる。
たしかにサント・ビクトワール山を描くのだって数年かかるだろう。

瞬間を描いた印象派の画家は枚挙にいとまがないが、時の蓄積を描こうとした画家はセザンヌをおいて他に知らない。
なぜなら基本的に具象絵画の目的は、時を止めて瞬間を定着することにあるからだ。
ここら辺はグラフィックデザイナーの職能とも重なるが、
いかに見事に時間と空間を捨象し、平面に定着できるかが画家の才能になるのではないだろうか。

しかしセザンヌはその逆で、平面だった絵画にふたたび時間と空間を取り戻そうとしているように見える。

通常であれば彫刻や映像で表現するはずのことを、なぜ絵画で表現しようとしたのか?
もしセザンヌが生きていれば、そんな根本的な質問をぜひ尋ねてみたいと展示を見ながら思っていた。


コートールド美術館展

魅惑の印象派

2019年9月10日(火)~12月15日(日)


あと数日ですがセザンヌはぜひ本物を!

和火のインスタやってます。

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2019.11.18

発送準備

ようやくという感じですが、工場の一角をお借りして和火の発送しております。
本格的に寒くなる前に発送が開始できてよかった。

同じデザインでもプロダクトデザインは専門外なので
いろいろと予想外のことが起こり、だいぶ遅れてしまいました。

今回のプロジェクトでは、商品コンセプトを決めるところから始めて、
素材などのセレクトやエンジニアリング、
プロダクトデザインやグラフィックデザイン、ブランド名の開発、写真、テキスト、
炭の調達まで全部自前でやっています。(あ、あとウェブもやらなくては…)
仕事量が多く大変でしたが、その分充実感もあり、
なんとか自分が納得するレベルに着地することができました。

あとは買っていただいたお客さんに満足して使ってもらえるか。
一番大事なことですね。

悩みは尽きませんが、最近ほんの少しだけ
メーカーの社長さんの気持ちが理解できるようになりました。
いやー、メーカーってホントすごいですよ。

当たり前のことですがメーカーあってのデザイナーだと感じ入っております。

和火のインスタやってます。

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2019.10.31

Canon Macro 100mm 2.8

必要があり、興味があったマクロレンズを購入しました。
むかし少しだけカールツァイスのマクロは触ったことがあるのですが
オートフォーカスでここまで寄れるのは初めて。

やはり独特の画角で撮ることができて面白いです。

で、マクロを入手したら撮ってみたかったのがアービング・ペンのシガレットシリーズ。
シガレットシリーズとはペンが煙草の吸殻を撮ったものなのですが、
ゴミとしか思ってなかった吸殻を、芸術まで高めることができるんだと学生時代に衝撃を受けた作品です。
ゴミが芸術になるって、問題提起としては最高レベルです。

まあもちろん本家とは雲泥の差なのですが、僕はカメラマンではないので、
その辺は趣味として大目に見ていただけると助かります。
実物はモノクロだし、こっちはカラーなのでオマージュみたいなものです。
そもそも煙草の吸殻に美を見出したペンの視点ありき。

このレンズ自体は等倍から無限大まで撮れるのでマクロ以外でも使えます。
解像もシャープでけっこう切れ味がいいし、フォーカスまでの時間も短い良いレンズです。


しかしよく考えてみたら普段はシグマばかりで純正のレンズを使うのは初めて。


違いが明確にわかるまで触ってないですがしばらくは遊べそうです。

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2019.09.30

表現はどこまで自由なのか?

美大で教えている立場として、夏季休暇中に起こった表現の不自由展の一連の事態について、
なにも触れずに後期の授業を進めることは難しいと考え、初回のひとコマを使い、ワークショップを行ってみた。

自分の教育へのスタンスはいつも「教えすぎない」ということにつきる。
学生には考える力をつけてもらいたいので、教えすぎるとそのチャンスを奪ってしまうと危惧しているからだ。
獲物を捕ってくるのではなく、獲物の捕り方を教えるのが理想の教育だと言われるのはそういうことだろうと思う。
なので今回も結論じみた自分の考えを伝えるのではなく、3つの問いを投げかけるスタイルで授業を進めていった。
また『表現の不自由展』は自分も学生も実際に見ていないので、あくまで今回の展示周辺に巻き起こった論争を題材とした。


1 表現はどこまで自由なのか?

2 芸術に政治を持ち込んでもいいのか?

3 公的資金が投入された展示の場合は公権力に従わないといけないのか?


上記の質問をひとつずつ投げかけたあと、3人のグループに分かれて話し合ってもらい、
結論をまとめ、発表する。グループは毎回リセットするやり方で進めた。

偏った意見から、バランスがとれた意見まで発表され、多様という意味では世間の縮図に近かった。
それぞれがどういう考えを持っているかある程度客観視できたのではないだろうか。

冒頭に書いたように、このワークショップでは考える力をつけることが目的で、
必ずしも正解を出すことに重きを置いていない。
大事なのは短期的に正解を出すことではなく、正解を追い求める姿勢だと考えている。


いちおう自分なりの意見を書いておく。

表現がどこまで許されるのかという問いは、そもそも結論がでないものだと考えている。
つまりどこかで線引きして、インとアウトを決めるものではない。
歴史的に見て、過激だと言われていたものが現在ではスタンダードになっているものは枚挙にいとまがない。
例えばルネッサンス期に活躍したボッティチェリ作の『プリマベーラ』という有名な絵画があるが、
この絵画に登場する女性がヌードであったため批判が出て、後から服を描き加えたのは有名な話だ。
あるいは時代が下って、サディズムの語源にもなったマルキ・ド・サド伯爵はいくつかの小説を書いたが
それらは暴力的なポルノグラフィということで、当時フランスで(日本でも近年)発禁処分を受けている。
しかし現代の視点からみれば人間の本質的な心の動きとして加虐性を切り分けた功績は大きいだろう。
SMプレイをしたことでサド伯爵は何度も収監されているが、同意があるのであれば、
現在ではそのような楽しみは個人の自由の範疇である。
何がのちの人類にとって意味を持つことになるかわからないので、
自分としては表現について可能な限り温かい目で見ていきたいと思っている。

また芸術とは本質的に問題提起を含んでいるので、より芸術的であればあるほど、世間の反論や批判を巻き起こす。
そのことはマルセルデュシャンの『泉』という作品を見ればわかりやすい。
のちに多大な功績を残す芸術ほど、理解されにくいし、批判も多いし、すんなりと受け入れられるものではない。

プロパガンダは展示してはいけないという批判も散見されたので、次の質問を設けた。
そもそも芸術活動に限らず、日常のごくふつうの生活でさえ政治性を帯びるものだ。
キャベツをひとつ買うことも、電車に乗ることも、SNSを使うことも、選挙で投票しないことも、
どこかで政治に繋がるので、完全に切り離すことは不可能だ。そこにあるのは多寡だけ。
ピカソはスペインのゲルニカをドイツ軍に攻撃されたことに対して憤り、
有名な『ゲルニカ』を描いたが、この絵画も見かたによってはプロパガンダととれるだろう。
しかし政治性を帯びていたとしてもその芸術的価値を疑う人はいない。
むしろ政治性と不可分であることがこの作品のひとつの魅力だと思われる。

最後の質問。
税金を使っている限り、表現の自由が限定的になるのはしょうがないという意見も世間に表出していた。
あくまでも表現の自由を担保するには、自費でやらないといけないらしい。
この意見もだいぶおかしいと思う。なぜならそもそも助成金は自らが払った税金が源泉であり、
自分が支持している政党でなくても自動的に徴収されるお金が財源だとすると
なぜそこで政府におもねらないといけないのだろう。
つまり政府は国民のために存在しているのであって、江戸時代のようにお上から施しを受けているわけでない。
条件が満たされれば思想信条に関係なく誰でも受け取る権利があるはずで
助成金を受け取りながら政府を批判することは民主主義として極めて真っ当な姿勢だと思う。

今回の一連の事件に関して浮かび上がったのは世間の狭量さと、実際の作品を見ていないのに印象だけで炎上するSNSの怖さだったと思う。
持論と異なる意見は受け入れないし、排他的になる。
しかもそのソースは自分の目で確かめた事実でなく、手垢がつきまくったネット上の情報である。

8月22日に月刊誌「創」が主催したシンポジウムに参加し、そこで天皇の写真を燃やしたことで批判された大浦信行さんの話を聞きくことができた。
スライドで上映される彼の過去の作品は見事な芸術作品だった。

補助金が交付されないなど悪化の一途をたどる一連の問題は、様々な事象が絡み合い複雑化している。
意見を述べるにしても、自分の目で確認した一次情報から出発しないとボタンの掛け違いが生まれてしまう。

ちょうどこの投稿を書いている間に展示が再開されるという朗報が飛び込んできた。
残り少ない期間であるが、展示を見るという原点に立ち返られるいい機会ではないだろうか。

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