美についてのアーカイブ

第3回 その自然の呼び起こし方

少し間が空いてしまいましたが
人と美の最終話です。

前回は「もっと自然に」という何気ない言葉を例に挙げて
人間は本質的に「自然」な状態を欲しているのだ、という内容でした。
今回は自然の表出をシステムとして利用しているという話です。

第1回 人と美
第2回 自然と美
第3回 その自然の呼び起こし方
 

写真の「器」は高温で焼かれることで、
また「金属」は錆びることで自然が美しく表出している。

行程の最終段階に窯で焼いて完成する作陶は
「人間の手でつくられたもの=個」を窯に入れて「自然」を定着させる。
高温で熱するというひとつの自然現象が
自我を超え、うまくいけば器に真理を定着する機会を与えてくれる。
いわば自然定着装置とも言うべきシステムをつくりあげることで
自然とうまく付き合うことが可能になった。

版画も同じように自然と付き合い発展してきた分野だ。
刷られた版画の表面には様々なテクスチャーが存在している。
木版画の場合、木のテクスチャーはもちろんのこと、
偶然に生じたインクのカスレ、にじみ、たまり、つぶれなどが定着している。
刷ってみるまでどのような仕上がりになるかわからないし、
完全に同じものを再現するのは不可能である。
その非再現性と言うべきコントロールできない状態が「自然」なのだ。

近年にわかに注目を集めている
「廃墟ブーム」(軍艦島などを鑑賞する)も自然と関係していると思われる。
外壁は劣化し、手すりは錆び付き、柱は朽ち果て、植物がまばらに自生しはじめた建物。
むしろこれらの建物は「自然が表出している」というよりは
「自然に戻っていく」という表現の方が適切かもしれない。
しかしその魅力は対象が変わっただけで上記の器や版画と同じものだと思う。
人工物に現れる自然を愛でることに他ならないからだ。
貫入、かいらぎ、ゆがみ、灰かぶりなどの陶芸の表現方法と
廃墟の経年変化で起こる現象がよく似ている点も興味深い。

もしかしたら廃墟が特に日本で人気があるのは
「侘び寂び」の美意識が下地にあるからかもしれない。
顔が映るほどピカピカに磨かれた金属よりも、
錆びてにぶく光る方が価値があるという「侘び寂びの文化」は
経年変化による自然表出を楽しむものである。
もっと変化が進んだ状態を望むならば
テクスチャーが変わってしまうほど待つことも可能である。
廃墟ブームはそのような文化に花ひらいた
新しい日本的鑑賞方法のひとつかもしれない。

上記以外の表現ではどのように個を超え、自然を定着しているのだろう。

意識するかしないかは別にして
人間の心の中にはブラックボックスとも言うべき深層心理が存在している。
日常生活ではおいそれと深層心理へ足を踏み入れることはないが
シャーマンや巫女などの役割を担っている人々はしばしばこの境界をまたぐことになる。

そこがどのような世界なのかある程度想像できる。
未分化でまだプロセスされていないあらゆる要素が浮かんでいるとても大きな浴槽。
学者ではないのでアカデミックな整合性はないと思うけれど
いち表現者としてはそのよう捉えている。
もともと自然の中から生まれた人間は脳を飛躍的に発達させることで
理性的な方向に進み——あるいは人間の中の自然を追いやり——
地球上での繁栄を手にすることができた。
そういう意味で潜在意識とは人間に残された原始の自然のようなものではないだろうか。

潜在意識下の情報はプロセスされてない、という点がとても重要である。
シャーマンや巫女らにとっては加工された情報では役に立たないからだ。
そのため自ら潜在意識へとダイブし、一次情報をつかみ取ってくる。
彼らが超越性を身につけるのはこの潜在意識へ足を踏み入れるからであり、
神懸かり的なお告げを得られるのも「個」を超えることが出来るからだ思う。

表現者も同様なのだろう。
彼らもまたプロセスされていない情報に飢えている。
自意識というフィルターを通りプロセスされた情報だけではオリジナルの表現はできない。
よく「降りてくる」と言われる状態は
潜在意識の中で何かを得ようとしている瞬間のことかもしれない。

システムを利用する方法と潜在意識にダイブする方法。
どちらにせよ重要なのは「自然」にアクセスすることだと思う。
アクセスして自然をつかみ取ることに成功しなければ感動は生まれないし、
真理を得ることもできない。
だとすると「なぜ自然に美を見出すのか」という疑問が当然のように湧いてくる。
残念ながらいまの所、この問いへの答えは持ち合わせていない。
理由などなく人間のスタートに立返ろうとする帰巣本能みたいなものだろうか、
あるいはそもそも理性や自我など持たない方がいいという哲学的、宗教学的問題なのだろうか。

この大きすぎる問いに関しては機が熟したらあらためて再考したいと思う。

<完>
 
 

※人工の対義語は芸術?

※ダリに代表されるシュルレアリスト達は潜在意識に眠る財産に気付いていたので
 陶芸と同じく自動筆記と呼ばれるシステムを利用した。

※天然と呼ばれる人々に表現者が多いのも、意識の中にコントロールできない部分が多いからか。

第2回 自然と美

人と美について第3回にわたって少々考えてみたいと思います。

第1回 人と美
第2回 自然と美
第3回 その自然の呼び起こし方
 

人は作為的な状況を見ると「もっと自然に」だとか「不自然だ!」とか言うことが多い。
なにげなく使っているけど、深い意味を持った言葉だと思う。
この発言を補足するとおそらく下記のようなことを言いたいのだろう。

「眼前の状況は自分が感じるところ変である。
足りないのは自然さだと思う。なので自然をもっと表出させて欲しい」と。

人は何か変だなと感覚に訴えかけることがあると無意識のうちに自然を求めるようだ。
世の名では日常的に「ナチュラル○○○○」という言葉もよく使われる。
例えば「ナチュラルメイク」という言葉からも
メイクする人工的な所作の中にも自然を呼び起こしたい人間の本能が浮かび上がってくる。
これは通常の感覚に沿うとすると「人工的な様」より
「自然な様」の方が優れていることを意味している。
なぜなのかは責任もって答えられないが
もしかすると人間も自然の一部だと暗に示していて、
それを忘れていること(忘れがちであること)への警鐘なのかもしれない。

かかる感覚の対象を意識的に自然に向けると芸術や数学などの分野が拓かれる。
元来、芸術や数学は大いなる自然の秘密を解き明かそうと発展してきた。
何かが潜んでいることはわかるがそれが何を意味しているのかわからない。
しかしつぶさに対象を観察していけば驚くべき広がりをもった世界が現る。
やがてその世界に大いなる真理や法則を発見し、画家は作品へと数学者は数式へと昇華させていく。
大事なのはあくまで観察に徹し、あるがままに定着することだとおもう。
その際に個性はかえって邪魔になる。
芸術表現というものはしばしば作家の個性や嗜好の発露のように捉えられているが、
個性や嗜好はただの方向性であり、方向性が真理をきちんと捉えない限り感動を生まない。
数学者がある数式を発見したとしても数学者の嗜好とは関係がないことと同じである。
導きだされた真理は本来的に個(自我・自己)とはパラレルなものなのだ。
個が混じらずに真理をそのまま定着することができるほど(真理の純度が高いほど)
当然ながら発見したものの価値は高くなる。
虹やオーロラみたいな自然現象をそのまま鑑賞・体験できる作品が
ひとつの芸術の理想なのではないかと個人的には思っている。

作品制作という観点から言えば個を捨て自然のみを呼び起こすのはなかなか難しい。
もともとの動機が自我と密接に結びついているので
どこからどこまでが自我で自然/真理なのか客観的に分かりにくいからかもしれない。

しかし世の中はうまくしたもので制作過程の中に個を捨てるシステムが組み込まれているものがある。
どのように個を捨てて自然を呼び起こすのだろうか。

画像
・雪の結晶
・ブロッコリー「ロマネスコ」
・からす座で衝突中の触角銀河(NASA, ESA, and the Hubble Heritage Team)

<つづく>

※なぜ画家が作品の完成を決めるかというと
 そこに自然/真理が表出したと知るからではないかと思う。
 個人的には完成したなと思う時はなぜか作品が自分の手元から離れて行く感覚になり、
 これ以上は手を入れられないと感じる。自分の作品なのに不思議なことだと思う。
 おそらく個を超えた真理が表出したためではないだろうか。

第1回 人と美


トリミングすることで美という概念が浮かび上がる
 

人と美について第3回にわたって少々考えてみたいと思います。
異論、反論お待ちしています。

第1回 人と美
第2回 自然と美
第3回 その自然の呼び起こし方
 

第1回 人と美

世の中に美は存在しない。

この逆説的とも言うべきテーゼから人と美の関係性——なぜ人は美しいと感じるか——が
垣間見えるように思える。

そもそも美しさとは何であろうか?

絵画。金銀。宝石。夕日。オーロラ。虹。花。写真。書画。海。
寺院。神社。教会。月。空。人。動物。湖。仏像。地球。川。映像。
山。銀河。星雲。肉体。映画。漫画。城。砂漠。器。日本刀。池。
衣服。庭園。黄金比。料理。デザイン。森。朝日。日食。月食。苔。
植物。魚。文字。アニメーション。車。飛行機。雪。雲。夜景。

美しさと関係する言葉がすぐにこれくらい挙げられることからも
美とはなんでも修飾することが可能で、とても融通無碍なものであることがわかると思う。
時代、文化、地域、人種によっても判断するモノサシはコロコロと変わり、
ひとつの様式に定まるかのように見えても(狩野派、ロココ調など)
すぐ別のものに移り変わって行く。
美人の基準すら定まっていないことからも、人が普遍的に美しさを感じることの難しさがわかる。
しかしその曖昧で移ろげな様子こそ美の本質である。

なぜならそもそも世の中には美しさというものは存在しないからだ。
(デザイナーとしてなかなか大胆な意見だと思われるかもしれない)

美とは「物の見方」のことであり、「意識の方向性」である。
この部分をこういう風に眺めれば美しいですよ、という限定的な方法論が美の本質だと思う。
例えば美しい写真を撮るカメラマンは美の実在を写すのではなく、
物の美しい見方を提示しているだけある。
世界を美しく見る方法を知っているからこそ美しく撮ることができるのだ。

世界を緻密に編まれたタペストリーのようなものと仮定してみると分かりやすいかもしれない。
混沌のように見えるタペストリーは一見ただのタペストリーであるが
一部をトリミングしてみると美しい形や美しい色を見つけることができるかもしれない。
そのトリミングそのものが「物の見方」であり「美」である。(図参照)


人によっては美に見えない

他の視覚に関係する職業——例えば画家など——も
美そのものを提示するわけではなく物の見方を提示しているということになる。
どれだけ豊かで美しい世界を見ているかが画家にとっては重要で、
優れた画家は自分が見ているその視線と鑑賞者の視線を限りなく近づけられる人のことだと思う。
画家の表現力とはプレゼンテーション能力を意味するのだろう。
またしばしば芸術についてまわる難解さは、
この物の見方の難解さと同義であることが原因なのだとわかる。

目利きと呼ばれる仕事はさらに関係性がはっきりしているかもしれない。
一般的にその仕事はただ蒐集しているだけと思われがちだが
本質は画家やカメラマンとなんら変わらないとても創造的な行為である。
なぜなら目利きとはオリジナルの見方ができる人のことだからだ。
その行為の目的は対象物から全く新しいオリジナルな美を発見、創出することであり、
優れた目利きは美しいと思われていなかったものの中からでも新しい美を世の中に提示できる。
新しい価値観をつくりだすという意味において
他のクリエイティブな職種(こういう言い方は冷や汗がでるな)と同じである。
オリジナルの見方を体系的に表現するには
ある程度まとまった数量が必要になる為に蒐集しているだけなのだ。
純粋に見ることをのみを提示する目利きの表現は現代的で示唆に富んでいてとても興味深い。
あるいは能書きや知識のみをありがたがって、
頭でしか物を見れない人がいるかも知れないが目利き本来の姿勢からは大きく逸脱している。
何にものにも縛られずに直感で自由に物を見ることができる人が本当の目利きであり、
またそのことが目利きの一番のダイナミズムであり醍醐味だと思う。

ではかかる曖昧な美というものは何に依拠しているのだろうか。
何が人の心を打つのであろうか。
僕は大いなる自然こそが美の本質であると考えている。

<続く>
 

※wikipediaではに関して
 存在論的把握 (絶対美)と認識論的把握(相対美)の二つの認識が述べられている。
 前者の代表がプラトン、アリストテレス、後者がカントのようで僕はやはり後者のシンパになる。

※このブログによくご登場いただく民藝主導者の柳宗悦も美についての研究を重ねることで
 最終的には「無有好醜(むうこうしゅ)」という境地に達し、その思想は仏教的色彩を帯びてくる。
 無有好醜の意味をとても簡単に言うと世の中には醜いも美しいもないということであり、
 日常から美を発見した柳にとってはとても自然な結論だったに違いない。
 漠然とした日常から民藝の美を見出した柳の目力にはあらためて感心してしまう。

※まあしかし世の中の価値観なんてほとんど認識論的把握であり
 例えば美味しさなんてものも、自分で味を探して見つかることが多いと思う。
 なのでどこかの異国の料理をはじめて食べる際には排他的になるのではなく、
「なるほど、この部分をこういう風に楽しむのか」と余裕を持って味わわないといけないのである。
 しかし認識論的把握だけでも寂しいので
 宗教のような存在論的で絶対的価値観をもとめるのが人の心なのでしょうね。

最近のコメント