2010年6月

究極の「ふつう」とは? 2

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民藝の条件
柳宗悦が生み出した民藝の条件とはなんでしょうか?

1)世代を超えて受け継がれるもの。
2)デザイナーが関わっていないもの。
3)大量に生産されるもの。
順不同ですがざっと挙げると上記の様になります。

1)の条件は言うまでもないでしょう。
何百年もの間、人から人へ受け継がれることで最良の形に自然とおさまることができます。
民藝の一番のポイントです。

2)が意味するのは近代化以前はデザイナーは存在していなかったということです。
様々な物が分業化・細分化されるようになって初めて
グラフィクデザイナーやファッションデザイナーや建築家という職業が誕生しました。

またデザイナーがデザインしない方がいいものが出来ることがあります。
なぜならばデザイナーであることで陥ってしまう危険性があるからです。
その危険性とは物事の判断がデザイナーの美意識に依存しすぎるところです。
デザインする上で重要な機能、歴史的背景などではなく
美意識を優先することでかえって美から遠く機能的ではない物が生まれます。
デザイナーは個人の嗜好ではなくもっと客観的な事実を優先すべきだと思います。
その点デザイナーでない場合は美意識を働かせるという意識がそもそも希薄なので
本質をずばりついたものができあがります。

僕自身もデザイナーを続ければ続けるほど美意識からは遠ざかったところで
デザインをしたいと思うようになりました。

3)大量生産されるメリット。
一般的に美術品と呼ばれるものは最も価値が高いと思われています。
時の為政者がお金と権力にモノを言わせてつくらせた作品の多くは
いまだに美術館や博物館に並んでいます。
現代ではブランド物なども同じような位置にあるのでしょうか。
しかし世の中で言われているような美術品やブランド物に圧倒的な価値があるかは疑問です。
なぜならワンアンドオンリーをつくるには手間もひまもお金もかかるので、
通常の生活者(もちろんマジョリティ)が入手することは困難だからです。
どんなに使い易く、美しいものでも少量では意味がありません。
多くの人が手にすることはできなければ世の中が良くなる方向には向かいません。

そういう意味で現代社会ではユニクロや無印良品はとても価値があると思ってます。
民藝とは一見無縁のようですが
大量で安い良品質のモノを供給することは民藝的な価値観と合致します。

また手工芸に関して言えば大量に手でつくることは別の意味を持つようになります。
素早い動作を何度も繰り返すことで個人の美意識から逃れられると柳は考えていました。
無我の境地というのか、無意識の意識というのか
自我を超越する方法論として大量生産は機能すると考えました。

以上がざっくりとですが柳が提唱した民藝です。とてもすぐれた非の打ち所がない論理だと思います。
なにしろ普通の日常(言葉変かな?)に美を見いだすという発想がラディカルです。
現代でもそのまま有効そうな素晴らしい哲学ですが
今後の未来に役立てようと考えると少しアップデートを行わないといけないでしょう。

「機械生産も可」と「デザイナーによるデザインも可」。
上記2項目を加えると生きた哲学になると思います。
柳は機械による大量生産を嫌っていました。
元々の立ち上がりが機械生産の批判から始まっているだけに
容認できないのは心情的によくわかります。
しかし現代社会において機械生産は必要不可欠です。
安価な機械大量生産に可能性を見いだすことが重要だと思います。

それと現代社会ではデザイナーによるデザインも避けられません。
個人の美意識だけでない、客観的な判断力を持ったデザイナーならば
優れたデザインを生み出せると思います。

<つづく>

究極の「ふつう」とは? 1
究極の「ふつう」とは? 3

発見!!

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たまたま入った近所の酒屋で自分がデザインした加茂錦のお酒発見。(中央の袋に入った商品)
こういうことがあると2、3日嬉しいです。
「無濾過酒」という種類で米処新潟のお酒なので米袋に入れてます。
濃厚ですが飲み易くフルーティなお酒です。 
特に今年はとてもよい出来だそうなのでみなさん見かけたら是非買ってみてくださいね。
東京だと世田谷の信濃屋では取り扱いを始めていただいたそうです。(まだ未確認)
目立つことは商品や広告をつくるうえで一番大事なことなんですが
きちんと売り場で目立っていて安心しました。

撮影日和

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週末は三たび長野へ。今回は金、土、日と屋外でのロケ(人物撮影)。

行く前の天気予報は雨だったので天気にそんなに期待はしていませんでした。
まあ、撮れないことはないだろうと気楽に考えていたのですが
実際に長野に着くとぽつぽつと降り始め、豪雨に変わりました。
ううむ、こんな天気ではお手上げだなと思っていたら
かろうじて撮影直前にだけ雨脚は弱くなり、撮影を終えることができました。
しかしその後も雨は景気よく降り続き、夜は豪雨へと変わり不安をかかえたまま就寝しました。

朝、恐る恐るカーテンを空けてみると、小雨程度になっていて
お昼の撮影時間にはちょうどいい天気に。
翌々日は快晴ではない少し曇りの天気がつづき、無事撮影を終えることができました。
一般的には快晴の方が撮影には適してると思われがちですが
実は少し雲があるくらいの方がいいんです。
うっすらと太陽に雲がかかっていると柔らかでとてもいい風合いの写真になります。
そういう意味では今回の天気はベストでした。

撮影にご協力いただいたみなさま誠にありがとうございました。

究極の「ふつう」とは? 1

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「究極のふつう」とは一体何なのか?
ふつうなのに究極って矛盾しているじゃないか?なぜ?と思われる方もいらっしゃるかと思います。
今回は民藝について話を進めていくことでそのことを浮かび上がらせたいと考えています。
 

民藝の誕生

ここのエントリーでも書きましたが民藝というのは
一般的にとても誤解されているんじゃないでしょうか。
残念な事にいまとなっては言葉の響き方も当時とはだいぶ変わってしまって
お土産物みたいなイメージしかないと思います。
そもそも民藝という言葉は1925年、柳宗悦を中心とし、陶芸家 河井寬次郎、
濱田庄司らによって提唱された造語であります。
よく耳にするし、さも昔からありそうですが、実は割と最近できた言葉なのです。

この言葉がつくられた背景には押し寄せる近代化の大きい波がありました。
当時、政治・経済・産業・インフラなどを始めいろいろなものが刷新されていき
それまで使っていた日用品も大量生産の対象となりました。
もちろん工業化される事で多くの人々の手に渡り便利になったものも沢山あります。
しかし味気ないものに変わってしまったものも少なくありませんでした。
そのような失われゆく日用品を憂い、守ろうとしたのが柳達だったのです。

例えば竹製のざるなどを単純にプラスチックに置き換えても
それまでのクオリティを維持することはできません。
なぜならそれまで使っていた日用品は何世代にも渡って人の手を介し改良されてきた
とても完成度が高いデザインだったからです。
日常から離れることなく少しずつ改良され、
しかも世代を経ることでより洗練され使いやすく変化してきました。
それはまるで数百年かかってわずかに成長する鍾乳洞のつららのようなもので
一介のデザイナーの才能やひらめきではなかなか到達できない世界であります。
当時の人は失うことになってはじめて、それまでありふれていた日用品の素晴らしさに
気付かされたのです。

このようなデザインを一般的にはアノニマスデザイン(anonymous design)と呼んでいます。
アノニマスというのは「作者不詳の」という意味で
デザイナーがデザインしたものではないが、
デザイナーには超えることが難しい普遍的なデザインのことです。
いまとなっては民藝の真の意味を伝えようと思うと
アノニマスデザインという言葉の方がうまく伝わるかもしれません。

柳宗悦が守ろうとしたものはまさにこのアノニマスデザインでした。
連綿と受け継がれてきたバトンを次の世代に渡すべく奔走し、
「民衆的工藝」を略して民藝という言葉を考え出しました。
当時の日本にはそのようなデザインを指す言葉はなかったので
宗悦が新しく「民藝」という言葉を作る必要があったのです。
概念すらなかった時代に民藝という言葉を作り出し、
そこに価値を見出したのは大いなる発明だと考えています。

日常の中に溶け込み、目の前から消えてしまうとどんな形であったのか思い出すこともできない
「ふつう」の日用品。しかしこの「ふつう」は究極のふつうなのです。

写真:左|龍門司焼き(鹿児島) 右|芭蕉ほうき(沖縄)

<つづく>

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