2010年11月

to die is to live

決して推奨はしないですが、いいなと思った動画。

「死」について考えることがいちばん「生」について考えることだよね。
若いってことは生きてるってことを実感したいのかな。

もう若くないけど、この動画を見るとみずみずしい「生」を自分の中に感じる。

こういうデザインを目指したい。

グットデザイン賞

グットデザイン賞/GOOT DESIGN AWARDは
僕が最近見た物の中でグットくるものに、一方的に賞を与えようという有意義な試みです。
えー、かなりの偏ったセレクトになるでしょう。某デザイン賞とは何も関係ないです。
 

第3位 近所の公園の長椅子

携帯で撮ったので見にくくてすみません。
すごく普通の椅子ですが、いい形してます。
散歩で疲れてちょっとひと休みするには最適です。なぜか置いてあった靴が渋い。

とてもシンプルな構造です。中央の一番負荷がかかる部分の解決の仕方がうまい。
丈夫だし、板部分が劣化してもあたらしい板をつければ長く使えますね。
好きだなあこういうの。
教会の椅子やシェーカーの椅子を思い出しますね。

英国教会の椅子


シェーカーがつくる椅子

シェーカーについて|wikipedia(英語版しかなかった)
シェーカー村旅行記

 

第2位 某ショップの傘立て

「切り株にこういう利用法があったなんて」と膝を打ちました。
一般的に味気ない傘立てが多いのでこういう牧歌的なのがあると和みますね。
難点は窪みにたまった水でしょうか。
きちんとつくるとしたら窪みに達する穴を下部からくり抜いて、
そこにバケツみたいな水を受ける容器を入れればいいのかな。
 
 

第1位 待ち時間がわかる信号

少し前から普及しているLED式の信号です。
単純にLEDにしたのではなくて待ち時間がわかるようになってます。
今までも別モニターみたいなのが
くっついていたのはあると思いますが
同一の信号機内でその問題を解決したのはとてもスマートでした。

受賞した方々おめでとうございます。

カプセルホテルから桂離宮まで まとめ

総括

誰に頼まれたわけでもないですが、今回の京都旅行をまとめてみたいと思います。
(まあ、もちろんこのブログはそもそも誰にも依頼されていないんですが)

一番印象に残ったのはやはり桂離宮でした。
今後恐らく桂離宮を超える庭園芸術は出てこないでしょう。
と言うのは現代人が失った感覚を、当時の人々は確実に有していたと思うからです。

社会が近代化されるにつれてそれまで勘や経験に頼っていた感覚を
機械やコンピューターなどにゆだねるようになりました。
レントゲンやMRIが出現することで身体の目に見えない部分までも
可視化できるようになりましたが、
たぶん同じようなレベルのイメージを昔の人間は勘や想像力で知覚していたと思われます。
もしかしたら携帯電話も無かった時代の方が遠方の情報をより多く得ていたかもしれません。
虫の知らせという言葉もありますので。

ゆだねて便利さを享受すると同時に人間の繊細な知覚領域までも預けてしまった現代人と比べると、
昔の人々の方が感覚器官も鋭く、今とは違った感覚世界で生きていたと思います。
例えば桂離宮は月を基準として建てられたことでも有名で、
月を見るためだけの月見台と呼ばれる場所があります。
それだけ当時の人々の生活の中で月という存在が大きく、価値を置いていたと言うことです。
鋭い感覚のもとでは「月」は最高のエンターテイメントだったのでしょう。

宮内に入ると桂離宮をつくった人の感覚をなぞることができます。
なぞって追体験すると石の置き方、木材の選び方、空間の作り方などの必然性がよくわかり、
当時の人々の自然に対する感覚の鋭さを実感できます。
理屈でなく「ああ、なるほどそういうことか」と腑に落ちる箇所がいくつもあります。

古来よりの器を見ることで似たような体験をすることがあります。
優れた器も忘れていた感覚を呼び覚ましてくれるからです。

体験として面白いのは器を鑑賞することで
「器で表現されているような感覚を自分は確かに持っているな」と発見し、
と同時にそういう感覚にいかに渇望していたかということに気付かされる点です。
そして次の瞬間、渇望していた感覚までも一瞬にして満たしてくれます。

器を見る → 感覚の発見 → 渇望の確認 → カタルシス

上記のことが衝撃波のように一瞬にして起こります。
(器とは価値観を変化させる可能性がギッシリ詰まっている
一触即発のダイナマイトみたいなものだと思います。少なくとも僕には)
以前はなぜそのようなカタルシス(浄化)を持つのか不思議だったのですが、
今回の旅行で糸口が見つかりました。
桂離宮と同じように、優れた感覚を持っていた先人が器をつくっていただけだったのです。
個人レベルの感覚ではなくその時代では多くの人が同じように感じていました。
器はそういう世界から来たいわば感覚のタイムカプセルだったのです。※

では、昔の人々がつくった物の方が総体的に優れているのか?
という疑問が当然わいてきます。
残念ながらこの答えは基本的に「イエス」だと考えています。
もちろんおしなべて全ての分野でということはないと思いますが
感覚を十全に使う分野の表現については過去のものの方が優れていることが多いと思います。

現代の陶芸家が過去の器——例えば宋代の青磁など——をどうしても超えられないというのは
前提として感覚領域が違う世界のものだからではないでしょうか。
土を選ぶ感覚から違うでしょうし、釉薬の調合や、
もしかすると水の選び方までも現代の感覚の外にあるものかもしれません。

今回の旅行では上記のようなことを考える良いきっかけをもらいましたし、
なにより実体験として肌で感じられたことはとても貴重でした。

※大量生産品の粗悪な器が多い現代の状況では器に対する感覚が相当抑圧されているので
 上記のようなことが特に起こるのだと思います

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