カプセルホテルから桂離宮まで まとめ

総括

誰に頼まれたわけでもないですが、今回の京都旅行をまとめてみたいと思います。
(まあ、もちろんこのブログはそもそも誰にも依頼されていないんですが)

一番印象に残ったのはやはり桂離宮でした。
今後恐らく桂離宮を超える庭園芸術は出てこないでしょう。
と言うのは現代人が失った感覚を、当時の人々は確実に有していたと思うからです。

社会が近代化されるにつれてそれまで勘や経験に頼っていた感覚を
機械やコンピューターなどにゆだねるようになりました。
レントゲンやMRIが出現することで身体の目に見えない部分までも
可視化できるようになりましたが、
たぶん同じようなレベルのイメージを昔の人間は勘や想像力で知覚していたと思われます。
もしかしたら携帯電話も無かった時代の方が遠方の情報をより多く得ていたかもしれません。
虫の知らせという言葉もありますので。

ゆだねて便利さを享受すると同時に人間の繊細な知覚領域までも預けてしまった現代人と比べると、
昔の人々の方が感覚器官も鋭く、今とは違った感覚世界で生きていたと思います。
例えば桂離宮は月を基準として建てられたことでも有名で、
月を見るためだけの月見台と呼ばれる場所があります。
それだけ当時の人々の生活の中で月という存在が大きく、価値を置いていたと言うことです。
鋭い感覚のもとでは「月」は最高のエンターテイメントだったのでしょう。

宮内に入ると桂離宮をつくった人の感覚をなぞることができます。
なぞって追体験すると石の置き方、木材の選び方、空間の作り方などの必然性がよくわかり、
当時の人々の自然に対する感覚の鋭さを実感できます。
理屈でなく「ああ、なるほどそういうことか」と腑に落ちる箇所がいくつもあります。

古来よりの器を見ることで似たような体験をすることがあります。
優れた器も忘れていた感覚を呼び覚ましてくれるからです。

体験として面白いのは器を鑑賞することで
「器で表現されているような感覚を自分は確かに持っているな」と発見し、
と同時にそういう感覚にいかに渇望していたかということに気付かされる点です。
そして次の瞬間、渇望していた感覚までも一瞬にして満たしてくれます。

器を見る → 感覚の発見 → 渇望の確認 → カタルシス

上記のことが衝撃波のように一瞬にして起こります。
(器とは価値観を変化させる可能性がギッシリ詰まっている
一触即発のダイナマイトみたいなものだと思います。少なくとも僕には)
以前はなぜそのようなカタルシス(浄化)を持つのか不思議だったのですが、
今回の旅行で糸口が見つかりました。
桂離宮と同じように、優れた感覚を持っていた先人が器をつくっていただけだったのです。
個人レベルの感覚ではなくその時代では多くの人が同じように感じていました。
器はそういう世界から来たいわば感覚のタイムカプセルだったのです。※

では、昔の人々がつくった物の方が総体的に優れているのか?
という疑問が当然わいてきます。
残念ながらこの答えは基本的に「イエス」だと考えています。
もちろんおしなべて全ての分野でということはないと思いますが
感覚を十全に使う分野の表現については過去のものの方が優れていることが多いと思います。

現代の陶芸家が過去の器——例えば宋代の青磁など——をどうしても超えられないというのは
前提として感覚領域が違う世界のものだからではないでしょうか。
土を選ぶ感覚から違うでしょうし、釉薬の調合や、
もしかすると水の選び方までも現代の感覚の外にあるものかもしれません。

今回の旅行では上記のようなことを考える良いきっかけをもらいましたし、
なにより実体験として肌で感じられたことはとても貴重でした。

※大量生産品の粗悪な器が多い現代の状況では器に対する感覚が相当抑圧されているので
 上記のようなことが特に起こるのだと思います

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