2011年2月

第1回 人と美


トリミングすることで美という概念が浮かび上がる
 

人と美について第3回にわたって少々考えてみたいと思います。
異論、反論お待ちしています。

第1回 人と美
第2回 自然と美
第3回 その自然の呼び起こし方
 

第1回 人と美

世の中に美は存在しない。

この逆説的とも言うべきテーゼから人と美の関係性——なぜ人は美しいと感じるか——が
垣間見えるように思える。

そもそも美しさとは何であろうか?

絵画。金銀。宝石。夕日。オーロラ。虹。花。写真。書画。海。
寺院。神社。教会。月。空。人。動物。湖。仏像。地球。川。映像。
山。銀河。星雲。肉体。映画。漫画。城。砂漠。器。日本刀。池。
衣服。庭園。黄金比。料理。デザイン。森。朝日。日食。月食。苔。
植物。魚。文字。アニメーション。車。飛行機。雪。雲。夜景。

美しさと関係する言葉がすぐにこれくらい挙げられることからも
美とはなんでも修飾することが可能で、とても融通無碍なものであることがわかると思う。
時代、文化、地域、人種によっても判断するモノサシはコロコロと変わり、
ひとつの様式に定まるかのように見えても(狩野派、ロココ調など)
すぐ別のものに移り変わって行く。
美人の基準すら定まっていないことからも、人が普遍的に美しさを感じることの難しさがわかる。
しかしその曖昧で移ろげな様子こそ美の本質である。

なぜならそもそも世の中には美しさというものは存在しないからだ。
(デザイナーとしてなかなか大胆な意見だと思われるかもしれない)

美とは「物の見方」のことであり、「意識の方向性」である。
この部分をこういう風に眺めれば美しいですよ、という限定的な方法論が美の本質だと思う。
例えば美しい写真を撮るカメラマンは美の実在を写すのではなく、
物の美しい見方を提示しているだけある。
世界を美しく見る方法を知っているからこそ美しく撮ることができるのだ。

世界を緻密に編まれたタペストリーのようなものと仮定してみると分かりやすいかもしれない。
混沌のように見えるタペストリーは一見ただのタペストリーであるが
一部をトリミングしてみると美しい形や美しい色を見つけることができるかもしれない。
そのトリミングそのものが「物の見方」であり「美」である。(図参照)


人によっては美に見えない

他の視覚に関係する職業——例えば画家など——も
美そのものを提示するわけではなく物の見方を提示しているということになる。
どれだけ豊かで美しい世界を見ているかが画家にとっては重要で、
優れた画家は自分が見ているその視線と鑑賞者の視線を限りなく近づけられる人のことだと思う。
画家の表現力とはプレゼンテーション能力を意味するのだろう。
またしばしば芸術についてまわる難解さは、
この物の見方の難解さと同義であることが原因なのだとわかる。

目利きと呼ばれる仕事はさらに関係性がはっきりしているかもしれない。
一般的にその仕事はただ蒐集しているだけと思われがちだが
本質は画家やカメラマンとなんら変わらないとても創造的な行為である。
なぜなら目利きとはオリジナルの見方ができる人のことだからだ。
その行為の目的は対象物から全く新しいオリジナルな美を発見、創出することであり、
優れた目利きは美しいと思われていなかったものの中からでも新しい美を世の中に提示できる。
新しい価値観をつくりだすという意味において
他のクリエイティブな職種(こういう言い方は冷や汗がでるな)と同じである。
オリジナルの見方を体系的に表現するには
ある程度まとまった数量が必要になる為に蒐集しているだけなのだ。
純粋に見ることをのみを提示する目利きの表現は現代的で示唆に富んでいてとても興味深い。
あるいは能書きや知識のみをありがたがって、
頭でしか物を見れない人がいるかも知れないが目利き本来の姿勢からは大きく逸脱している。
何にものにも縛られずに直感で自由に物を見ることができる人が本当の目利きであり、
またそのことが目利きの一番のダイナミズムであり醍醐味だと思う。

ではかかる曖昧な美というものは何に依拠しているのだろうか。
何が人の心を打つのであろうか。
僕は大いなる自然こそが美の本質であると考えている。

<つづく>
 

※wikipediaではに関して
 存在論的把握 (絶対美)と認識論的把握(相対美)の二つの認識が述べられている。
 前者の代表がプラトン、アリストテレス、後者がカントのようで僕はやはり後者のシンパになる。

※このブログによくご登場いただく民藝主導者の柳宗悦も美についての研究を重ねることで
 最終的には「無有好醜(むうこうしゅ)」という境地に達し、その思想は仏教的色彩を帯びてくる。
 無有好醜の意味をとても簡単に言うと世の中には醜いも美しいもないということであり、
 日常から美を発見した柳にとってはとても自然な結論だったに違いない。
 漠然とした日常から民藝の美を見出した柳の目力にはあらためて感心してしまう。

※まあしかし世の中の価値観なんてほとんど認識論的把握であり
 例えば美味しさなんてものも、自分で味を探して見つかることが多いと思う。
 なのでどこかの異国の料理をはじめて食べる際には排他的になるのではなく、
「なるほど、この部分をこういう風に楽しむのか」と余裕を持って味わわないといけないのである。
 しかし認識論的把握だけでも寂しいので
 宗教のような存在論的で絶対的価値観をもとめるのが人の心なのでしょうね。

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