2011年3月

繊細さと強さ

すいせいブログもそろそろ通常営業です。

今回は表現をする場合に大切なことについて。
僕は最近何かを表現する際に「繊細さと強さ」ってのが重要な気がしています。

繊細さとは感受性のこと。
ものを表現するってのはだいたいどの分野でも
他人が気付かない差異に敏感に反応するところからスタートするのだと思います。
それは料理人だって音楽家だって美容師だってデザイナーだって同じでしょう。
世の中をセンシティブに受けとめる個人的な感覚が作家の価値を決めるのだと思います。
そしてその道で仕事をしていくには、この繊細な感覚を研ぎすませていく必要があります。

個人的な話になりますが、デザイン科学生時の一番細い線の基準って0.5ptくらいでした。
しかしプロとして仕事をするようになると0.3ptと細くなります。
これは線に対しての感覚だけが鋭くなったのではなくて
より繊細な視点で世の中を眺めている結果だと考えます。
順序としては、繊細になったのでより細い線が認識できるようになったと…。

しかしここで難しいのは繊細になるってのは同時に弱くなるってことでもあるんですね。
なぜなら繊細な領域が広がると必然的に要らない情報にまで反応するようになるからです。
繊細後の世界では今までは何ともなかった細かいことが気になるようになり、
デザイナーなら「車内刷り広告のケバケバしい色が疲れるなあ」とか、
「変な書体使ってて嫌だなあ」とかまえより神経質な日常をおくらなければなりません。
長く健康的にものをつくっていこうと思うと
繊細さを受け止めるだけの精神的な強さも同時に獲得しないといけないのだと思います。

しかし精神的に強くなるってのはそんなに簡単ではないですよね。
「はい、あなた、明日から強くなってください」って言われても困ってしまいます。
ではてっとりばやく解決するのはどうすればいいのでしょう?

おそらく一番現実的で有効な方法は

・自分が嫌だと思う環境や状況にはなるべく近づかない。
・近づかないといけない場合は見ないようにする、考えないようにする。

ってことではないでしょうか。

自分が心地よいと感じる空間をつくり、なるべくそこから出ないようにし、
もし出る場合は嫌なものからは目を背ける。これが秘訣です。

ただこれだとプチ引きこもりみたいですけどね。
しかしモノをつくる人ってのは本質的に引きこもりです。
引きこもりじゃないといい作品はつくれません。
いままで外に出るのがすごい好きって言う作家はあまり聞いた事ないし、
好きな人は冒険家とかサッカー選手とかになるのだと思います。

そう考えていくと弱さってのは才能だし、
自分の弱さに意味を見出せる人が表現者ってことになるのかな。
日本に160万人いるヒッキーは表現者予備軍なのか??
(実際その可能性はあるでしょう。)

以上繊細さの傾向と対策でした。
 
 
※大きい声で言えないですが、世の中で強いって言われる人は往々にして鈍感な人が多いですね。
 耳障りな音の中でも問題なく作業することができる人は強いかもしれないですが
 優れた音楽家にはなれない気がします。
 つまり痛みに強い人ってのはそもそもはじめから痛みを感じてない場合が多いのでは…。
 もちろん世の中は多様性の海なので様々な人がいて成り立っているし、
 比較論として弱い⇔強い、繊細⇔鈍感ってことだと思いますが。

ガンバレ日本!!

今回の地震で被災・被害にあわれた方々、心からお見舞い申し上げます。
とてもおつらい心境だと思いますが
まずはまわりにいる人々と連携して生命の確保、維持を第一にお考えください。
いまは大変だと思いますが、あなたの顔を見て喜ぶ方がきっといらっしゃいます。
けっして希望は捨てないでください。

僕もちょうど新潟に出張に行く新幹線の中で地震にあいました。
緊急停止した列車の横揺れが段々と大きくなっていき、
エンジントラブルかと思ったのもつかの間、
高架が激しく揺れ始めて、いまが地震であることがわかりました。
すぐに阪神淡路大震災の高速道路の橋桁が落ちていく様子が頭の中に浮かんできましたが
横揺れの状況を考えると、
ここから離れた場所が震源なのだと思い、過ぎて行くのを待ちました。

数分後には揺れもおさまり、幸いな事にその1時間後くらいには最寄りの高崎駅に到着しました。
新潟で予定されていた「酒の陣」が中止との連絡を受けて、
東京に戻ろうとしたのですが、バス、レンタカー、在来線、新幹線は全て使えません。
ホテルに泊まろうと思っても高崎にあるホテルは全部満室でした。
しょうがないので同じくホテルを探していた手すり販売会社の副社長と一晩飲み明かして、
翌日、在来線で東京に戻りました。

大変だったというのではなく、ただの状況報告として読んでいただければ幸いです。
無事に怪我ひとつせずに東京に戻ることができました。

この文章を書いているいまも刻一刻と状況が変化していて
全ての事象に於いて楽観視できないのは間違いありません。
しかしこのような被災が起こると人はネガティブになりやすいと思います。
暗雲がいつまで続くかわからないので仕方がないかもしれませんが
いまを乗り切るには希望を強く想うことが必要です。

かつて有名な歌手が歌った言葉を思い出します。

Imagine all the people living life in peace.

こういう状況だからこそありったけの想像力を使って
家族や大切な人と笑い合ってる姿を想像したいと思います。
楽しいこと、嬉しいこと、おかしいこと、くだらないこと、温かい気持ちになったこと
馬鹿馬鹿しいこと、美味しいものを食べたこと、なんでもいいです。
一緒にいて共有できた最上級の楽しいことを想像してみてください。

もちろん僕もありったけの想像力を使って想像しています。

資格

みなさんはどれくらいの頻度で日本酒って飲んでますか?

最近は神事やお正月くらいにしか飲まないって人も多いかもしれないですね。
ぼくもどちらかと言うと日本酒はあんまり好きではなくて
ビールやウィスキーなどを中心に飲んでいたのですが
ご縁があり加茂錦の仕事をするようになって
「そうだな、デザインをやるからには日本酒を知らないといけないな」と思い
いろいろと勉強することにしました。
毎晩きちんと勉強することを自分に課したわけです。
注:ここで言う勉強とは楽しく日本酒を飲むことです

飲みつけると敬遠していたのは
美味しい日本酒に出会ってなかっただけだとわかるようになりました。
日本の小さな酒蔵で実直につくってるお酒ってホントに美味しいんですよ。
それまでは大手メーカーのあまり良くないイメージが先行しがちだったので
洋酒に決して負けていない日本酒に出会えたことは大きな収穫でした。
だって「日本+酒」と国を代表するような重要な定義付けしているのに
ワインより劣るとなると日本人としてのアイデンティティが揺らぐ気がするじゃないですか。
胸を張って日本酒って美味しいですって言えるのは
ますますグローバル化していく経済の中ではやはりひとつの財産だと思います。
デザイナーとしても良いコンテンツだと良いパッケージになりますからね。

さらには「日本酒の検定がありますけど興味ありますか?」と
加茂錦の方に誘われて、新潟清酒達人検定という資格を取るにまでいたりました。
僕が唯一持ってる資格です。
資格といってもそんなにすごいものではなく(銅だし)
普通にテキストを読み込めば取れるものなのですが
この資格を見せた時の人の反応がすごくいいんです。なぜなんだろう?
「日本酒の資格持ってたよね」とよく確認されます。
ずっとアンチ資格主義だったのに
こういうことがあるとデザイナー検定っていいかもと思います。
ま、冗談ですが。

※今週末は新潟に出張です。
酒の陣」という新潟の酒蔵が集まる大きなイベントがあります。(達人検定も実施)
加茂錦のブースにいると思いますので来られた方は声かけてみてくださいね。

第2回 自然と美

人と美について第3回にわたって少々考えてみたいと思います。

第1回 人と美
第2回 自然と美
第3回 その自然の呼び起こし方
 

人は作為的な状況を見ると「もっと自然に」だとか「不自然だ!」とか言うことが多い。
なにげなく使っているけど、深い意味を持った言葉だと思う。
この発言を補足するとおそらく下記のようなことを言いたいのだろう。

「眼前の状況は自分が感じるところ変である。
足りないのは自然さだと思う。なので自然をもっと表出させて欲しい」と。

人は何か変だなと感覚に訴えかけることがあると無意識のうちに自然を求めるようだ。
世の名では日常的に「ナチュラル○○○○」という言葉もよく使われる。
例えば「ナチュラルメイク」という言葉からも
メイクする人工的な所作の中にも自然を呼び起こしたい人間の本能が浮かび上がってくる。
これは通常の感覚に沿うとすると「人工的な様」より
「自然な様」の方が優れていることを意味している。
なぜなのかは責任もって答えられないが
もしかすると人間も自然の一部だと暗に示していて、
それを忘れていること(忘れがちであること)への警鐘なのかもしれない。

かかる感覚の対象を意識的に自然に向けると芸術や数学などの分野が拓かれる。
元来、芸術や数学は大いなる自然の秘密を解き明かそうと発展してきた。
何かが潜んでいることはわかるがそれが何を意味しているのかわからない。
しかしつぶさに対象を観察していけば驚くべき広がりをもった世界が現る。
やがてその世界に大いなる真理や法則を発見し、画家は作品へと数学者は数式へと昇華させていく。
大事なのはあくまで観察に徹し、あるがままに定着することだとおもう。
その際に個性はかえって邪魔になる。
芸術表現というものはしばしば作家の個性や嗜好の発露のように捉えられているが、
個性や嗜好はただの方向性であり、方向性が真理をきちんと捉えない限り感動を生まない。
数学者がある数式を発見したとしても数学者の嗜好とは関係がないことと同じである。
導きだされた真理は本来的に個(自我・自己)とはパラレルなものなのだ。
個が混じらずに真理をそのまま定着することができるほど(真理の純度が高いほど)
当然ながら発見したものの価値は高くなる。
虹やオーロラみたいな自然現象をそのまま鑑賞・体験できる作品が
ひとつの芸術の理想なのではないかと個人的には思っている。

作品制作という観点から言えば個を捨て自然のみを呼び起こすのはなかなか難しい。
もともとの動機が自我と密接に結びついているので
どこからどこまでが自我で自然/真理なのか客観的に分かりにくいからかもしれない。

しかし世の中はうまくしたもので制作過程の中に個を捨てるシステムが組み込まれているものがある。
どのように個を捨てて自然を呼び起こすのだろうか。

画像
・雪の結晶
・ブロッコリー「ロマネスコ」
・からす座で衝突中の触角銀河(NASA, ESA, and the Hubble Heritage Team)

<つづく>

※なぜ画家が作品の完成を決めるかというと
 そこに自然/真理が表出したと知るからではないかと思う。
 個人的には完成したなと思う時はなぜか作品が自分の手元から離れて行く感覚になり、
 これ以上は手を入れられないと感じる。自分の作品なのに不思議なことだと思う。
 おそらく個を超えた真理が表出したためではないだろうか。

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