2011年4月

第3回 その自然の呼び起こし方

少し間が空いてしまいましたが
人と美の最終話です。

前回は「もっと自然に」という何気ない言葉を例に挙げて
人間は本質的に「自然」な状態を欲しているのだ、という内容でした。
今回は自然の表出をシステムとして利用しているという話です。

第1回 人と美
第2回 自然と美
第3回 その自然の呼び起こし方
 

写真の「器」は高温で焼かれることで、
また「金属」は錆びることで自然が美しく表出している。

行程の最終段階に窯で焼いて完成する作陶は
「人間の手でつくられたもの=個」を窯に入れて「自然」を定着させる。
高温で熱するというひとつの自然現象が
自我を超え、うまくいけば器に真理を定着する機会を与えてくれる。
いわば自然定着装置とも言うべきシステムをつくりあげることで
自然とうまく付き合うことが可能になった。

版画も同じように自然と付き合い発展してきた分野だ。
刷られた版画の表面には様々なテクスチャーが存在している。
木版画の場合、木のテクスチャーはもちろんのこと、
偶然に生じたインクのカスレ、にじみ、たまり、つぶれなどが定着している。
刷ってみるまでどのような仕上がりになるかわからないし、
完全に同じものを再現するのは不可能である。
その非再現性と言うべきコントロールできない状態が「自然」なのだ。

近年にわかに注目を集めている
「廃墟ブーム」(軍艦島などを鑑賞する)も自然と関係していると思われる。
外壁は劣化し、手すりは錆び付き、柱は朽ち果て、植物がまばらに自生しはじめた建物。
むしろこれらの建物は「自然が表出している」というよりは
「自然に戻っていく」という表現の方が適切かもしれない。
しかしその魅力は対象が変わっただけで上記の器や版画と同じものだと思う。
人工物に現れる自然を愛でることに他ならないからだ。
貫入、かいらぎ、ゆがみ、灰かぶりなどの陶芸の表現方法と
廃墟の経年変化で起こる現象がよく似ている点も興味深い。

もしかしたら廃墟が特に日本で人気があるのは
「侘び寂び」の美意識が下地にあるからかもしれない。
顔が映るほどピカピカに磨かれた金属よりも、
錆びてにぶく光る方が価値があるという「侘び寂びの文化」は
経年変化による自然表出を楽しむものである。
もっと変化が進んだ状態を望むならば
テクスチャーが変わってしまうほど待つことも可能である。
廃墟ブームはそのような文化に花ひらいた
新しい日本的鑑賞方法のひとつかもしれない。

上記以外の表現ではどのように個を超え、自然を定着しているのだろう。

意識するかしないかは別にして
人間の心の中にはブラックボックスとも言うべき深層心理が存在している。
日常生活ではおいそれと深層心理へ足を踏み入れることはないが
シャーマンや巫女などの役割を担っている人々はしばしばこの境界をまたぐことになる。

そこがどのような世界なのかある程度想像できる。
未分化でまだプロセスされていないあらゆる要素が浮かんでいるとても大きな浴槽。
学者ではないのでアカデミックな整合性はないと思うけれど
いち表現者としてはそのよう捉えている。
もともと自然の中から生まれた人間は脳を飛躍的に発達させることで
理性的な方向に進み——あるいは人間の中の自然を追いやり——
地球上での繁栄を手にすることができた。
そういう意味で潜在意識とは人間に残された原始の自然のようなものではないだろうか。

潜在意識下の情報はプロセスされてない、という点がとても重要である。
シャーマンや巫女らにとっては加工された情報では役に立たないからだ。
そのため自ら潜在意識へとダイブし、一次情報をつかみ取ってくる。
彼らが超越性を身につけるのはこの潜在意識へ足を踏み入れるからであり、
神懸かり的なお告げを得られるのも「個」を超えることが出来るからだ思う。

表現者も同様なのだろう。
彼らもまたプロセスされていない情報に飢えている。
自意識というフィルターを通りプロセスされた情報だけではオリジナルの表現はできない。
よく「降りてくる」と言われる状態は
潜在意識の中で何かを得ようとしている瞬間のことかもしれない。

システムを利用する方法と潜在意識にダイブする方法。
どちらにせよ重要なのは「自然」にアクセスすることだと思う。
アクセスして自然をつかみ取ることに成功しなければ感動は生まれないし、
真理を得ることもできない。
だとすると「なぜ自然に美を見出すのか」という疑問が当然のように湧いてくる。
残念ながらいまの所、この問いへの答えは持ち合わせていない。
理由などなく人間のスタートに立返ろうとする帰巣本能みたいなものだろうか、
あるいはそもそも理性や自我など持たない方がいいという哲学的、宗教学的問題なのだろうか。

この大きすぎる問いに関しては機が熟したらあらためて再考したいと思う。

<完>
 
 

※人工の対義語は芸術?

※ダリに代表されるシュルレアリスト達は潜在意識に眠る財産に気付いていたので
 陶芸と同じく自動筆記と呼ばれるシステムを利用した。

※天然と呼ばれる人々に表現者が多いのも、意識の中にコントロールできない部分が多いからか。

確かにこれは困る

以下フランス紙『レモンド』の記事から抜粋

イタリア・ローマに拠点を置く、ルネシオン総合研究所(美術業界最大のシンクタンク)は人が絶対的に感じる「美しさの基準」を発見したと発表した。従来より美しさの基準は時代・文化・環境によって異なり普遍ではないとされてきたが総研の長年の調査の結果、フィボナッチ整数の4乗に素数を掛けて得られる値が「美しさの基準」であることが判明した。1729年にはポール・フリードリッヒ・エヴァンによって予想されていたものであったが当時は理論の域を出ず、トマス・カーの複素関数論を用いることでようやく証明された。

この数値を基にすれば「モナリザの微笑み」「アルファベットや漢字の構造」「ゴッホのコンポジッション」なども解明でき、さらには美しく感じる色の組み合わせなども説明がつくと言う。しかし全てについてこの数値が関係しているとは言い切れないという専門家の意見も多く寄せられている。「そんな馬鹿げた話はない。本当であれば我々画家が長年追い求めて来たものの価値はなくってしまう」(クロード・T・シャガール/シャガールのひ孫にあたるフランス在住の画家)。「これは美術に対する冒涜であり挑戦である。できるものならフェルメールの素晴らしさを数値化してみろ」(エド・スワロフ学芸員/Witney Museum of American Art )

しかし総研ではまだ計算が追いついていないだけですべてこの値で説明できると述べ、強気な姿勢は崩さない。ゆくゆくはこの数値を用いて誰でも簡単に美しいものが生み出せ、世界中の人が芸術家になる日が来るだろうと期待を寄せている。2012年を目標に「QUICK ART β版」というフリーソフトウェアーの開発をgogleと進めていると言う。

  
 
 

なんとか間に合った今年のエイプリルフール。

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