第2回 自然と美

人と美について第3回にわたって少々考えてみたいと思います。

第1回 人と美
第2回 自然と美
第3回 その自然の呼び起こし方
 

人は作為的な状況を見ると「もっと自然に」だとか「不自然だ!」とか言うことが多い。
なにげなく使っているけど、深い意味を持った言葉だと思う。
この発言を補足するとおそらく下記のようなことを言いたいのだろう。

「眼前の状況は自分が感じるところ変である。
足りないのは自然さだと思う。なので自然をもっと表出させて欲しい」と。

人は何か変だなと感覚に訴えかけることがあると無意識のうちに自然を求めるようだ。
世の名では日常的に「ナチュラル○○○○」という言葉もよく使われる。
例えば「ナチュラルメイク」という言葉からも
メイクする人工的な所作の中にも自然を呼び起こしたい人間の本能が浮かび上がってくる。
これは通常の感覚に沿うとすると「人工的な様」より
「自然な様」の方が優れていることを意味している。
なぜなのかは責任もって答えられないが
もしかすると人間も自然の一部だと暗に示していて、
それを忘れていること(忘れがちであること)への警鐘なのかもしれない。

かかる感覚の対象を意識的に自然に向けると芸術や数学などの分野が拓かれる。
元来、芸術や数学は大いなる自然の秘密を解き明かそうと発展してきた。
何かが潜んでいることはわかるがそれが何を意味しているのかわからない。
しかしつぶさに対象を観察していけば驚くべき広がりをもった世界が現る。
やがてその世界に大いなる真理や法則を発見し、画家は作品へと数学者は数式へと昇華させていく。
大事なのはあくまで観察に徹し、あるがままに定着することだとおもう。
その際に個性はかえって邪魔になる。
芸術表現というものはしばしば作家の個性や嗜好の発露のように捉えられているが、
個性や嗜好はただの方向性であり、方向性が真理をきちんと捉えない限り感動を生まない。
数学者がある数式を発見したとしても数学者の嗜好とは関係がないことと同じである。
導きだされた真理は本来的に個(自我・自己)とはパラレルなものなのだ。
個が混じらずに真理をそのまま定着することができるほど(真理の純度が高いほど)
当然ながら発見したものの価値は高くなる。
虹やオーロラみたいな自然現象をそのまま鑑賞・体験できる作品が
ひとつの芸術の理想なのではないかと個人的には思っている。

作品制作という観点から言えば個を捨て自然のみを呼び起こすのはなかなか難しい。
もともとの動機が自我と密接に結びついているので
どこからどこまでが自我で自然/真理なのか客観的に分かりにくいからかもしれない。

しかし世の中はうまくしたもので制作過程の中に個を捨てるシステムが組み込まれているものがある。
どのように個を捨てて自然を呼び起こすのだろうか。

画像
・雪の結晶
・ブロッコリー「ロマネスコ」
・からす座で衝突中の触角銀河(NASA, ESA, and the Hubble Heritage Team)

<つづく>

※なぜ画家が作品の完成を決めるかというと
 そこに自然/真理が表出したと知るからではないかと思う。
 個人的には完成したなと思う時はなぜか作品が自分の手元から離れて行く感覚になり、
 これ以上は手を入れられないと感じる。自分の作品なのに不思議なことだと思う。
 おそらく個を超えた真理が表出したためではないだろうか。

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