レドセとスティーブと民藝


 

もちろんスティーブ・ジョブズの波乱の生涯にも興味があったけれど、
実際にどの程度ディレクションするかで
かのappleの一連の製品群が出来上がっていたか知りたくて「伝記」を読み始めた。

伝記は極めて細かい部分までディレクションしていることを教えてくれるが
今回はその話題ではありません。

スティーブのガールフレンドにティナ・レドセという女性がいました。
仕事関係で知り合った当初はレドセにはパートナーがいたのものの、
スティーブが熱烈にアプローチし、付き合い始めます。
レドセの「純粋で自然なところ」に魅力を感じ、
数年間は関係が続いたのですが価値観の相違から結局二人は別れてしまいます。

美的感覚についても考えが違っていた。普遍的な理想の美というものが存在し、それを人々に教えるべきだと考えるジョブズに対して、美的感覚はあくまで個人的なものだとレドセは考えていた。ジョブズはバウハウスムーブメントの影響を受けすぎていると見ていたのだ。
「美とはどういうものなのか世間に教えなければならないとスティーブは考えていました。私はそのように思いません。自分の内なる声に、また、お互いの声にじっと耳をすませば、生まれながらに持つ真なるものが浮かび上がってくるはずだと思うのです」——スティーブ・ジョブズ 上巻  ウォルター・アイザックソン著

これを読むと意見がくい違っているようにもみえるけれど
よくよく考えるとほとんど同じことを言っているのではないか思えてしまう。
どちらの意見も「美」を大事にしているが、その「美」が現代社会では偏在的である故、
かみ合わないように見えるのではないだろうか。

たしかにレドセが言うように、
誰かが「美とは何か」を伝えないといけない世界は根本的に不幸だと思う。
伝統性の文脈で連綿と受け継がれる「美」のようなものをゆるやかに享受する生活と、
個人が一時代で創出した価値にまみれて生きるのとではどちらが豊かなのか明らかだろう。
伝統とは人間の叡智がぎっしりとつまったものであり、
そのアウトラインが強固であればあるほど、その中で「美」すら意識せずに
満ち足りた生活がおくれるに違いない。
極論を言ってしまえば「良質の伝統さえあれば美意識なんていらない」のだと思う。


 
 

しかし近代化を経た世界では伝統性は分断されることが多いし、
ドラスティックな変化に伝統だけでは対応することができない。
特にスティーブがいた世界は人類の歴史の中でも
一番新しい発明品を生み出していた分野だろうから享受できる伝統はとても少ないと考えられる。
そんな業界にいて誰も美に対して責任を持たないことを(おそらく)スティーブは嘆き、
自ら率先して普遍的な美を伝えようとしていたのだ。
コンピューターが今後何百年も続いて伝統文化となり、或いは民藝となり、
誰かが「美とはどういうものか」を声高に伝える必要がなくなるまで
スティーブのような優れたビジョナリーが先へと導いて行かないといけない。

つまりはレドセが求めるものをスティーブが与えることができたのだろう。

もしそのことを別れる前の二人に伝えられたら運命は変わっていただろうか。

画像
上 Macintosh 初号期
中『北欧・トナカイ遊牧民の工芸』 日本民藝館
下 ipod classic

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