2013年2月

普通の人生

普通についてよく考えます。

ここで言う普通は民藝的な普通ではなく、社会的な意味での普通ということです。
使い方としては「普通の会社」や「普通の人生」みたいな感じでしょうか。
一般的なという意味に近いのかもしれません。

例えば、自分の人生(或は自分という存在)が普通か?と聞かれるとみなさんはどう答えますか。
なかなか答えにくい質問ですよね。
普通の部分もあるし、そうじゃない部分もあると答える人が一番多いかもしれません。

僕自身もどう答えるかわかりません。まあでもあんまり普通ではないのかな。
自分の家族の結婚相手が僕のような人だとすると普通ではないよなと客観的に思うからです。
そうは言っても、自営業だから普通ではないのか?デザイナーだから普通ではないのか?
あるいは自営の八百屋さんは普通なのか?会社に勤めるデザイナーは普通なのか?
など考えだすと切りがなく、だんだんと基準がわからなくなってきます。

しかし自分が普通か答えられないとしても、
普通の人生モデルを挙げなさいと聞かれると割と答えられるものです。
偏差値がいくつくらいの大学を卒業して、どこかの中堅の会社に勤め、
数年後に大学時代から付き合っていた人と結婚する。
しばらくして子供が生まれて……みたいな感じです。

なぜ自分が普通かと聞かれてなかなか答えられないのに、
普通の人生のイメージをあげられるのでしょうか。

これは恐らく普通であることを望んでいる人達がどこかにいて、
イメージを作り出しているからだと僕は考えています。
なぜなら普通であるということは、消費を促すうえでとても好都合だからです。
なにしろ普通なので常軌を逸することなく、予想範囲内で操る側の思うがままに行動してくれます。
例えば銀行なら、大学を卒業して数年後に結婚し、マイホームを買いたがるのが普通である
というイメージをつくりたいのでしょう。
旅行会社なら、定年退職した団塊世代は海外旅行に行きたがるのが普通だと、
というイメージをつくりたい。
普通をイメージしやすい環境にいるので、例をあげやすいのだと思います。
しかし当然ながらマイホームや旅行が普通というのは、
そう願う人達が勝手に考えたイメージに過ぎません。

イメージをつくりだす人達が一番恐れるのは普通でなくてもいい人が増えることです。
言葉を変えれば、普通が幻想であると気付くことです。
なるべく疑問を持たせないようにするため
普通からはみ出ると社会からもドロップアウトするようなイメージも
同時に人々に植え付けてきました。
消費によって多くのことが決定される世界の中で生きていると
そのようなのイメージからはなかなか逃れることができません。
つまり普通という概念は資本主義の発達とともに始まったのでしょう。
近代化以前には普通という概念が皆無だったかはわかりませんが、
現在の様に人格さえも均質化するような圧倒的な力は持っていなかったと思われます。

昨今「多様性」という言葉をよく耳にするようになりました。
これまでの漠然と普通の概念を受け入れていた状況が少しずつ変わり、
本来の個性を取り戻す岐路に差し掛かかっているのだと思います。
多様民主制の時代の到来です。

そういう時代になったらデザイナーの働きかたも変わるのでしょうか。
あるいはデザイン自体も変わるのでしょうか。
マスを対象としていた職種は従来のように簡単に利益を生むことは難しくなり
変わらざるを得ないのが実際のところでしょう。

そう聞かれても「やるべきことをやるだけ」と
なんの躊躇なく答えられるデザイナーになりたいものです。

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