2013年5月

ヤンキーは声高に叫ぶ

ヤンキーのファッション、あるいは一時期流行ったガングロのギャル・ギャル男の奇抜さは、
人間の根源的な表現欲がカタルシスの場を失い、それでも発露を求める切実な状況を示している。
彼らは伝統が衰退することの物悲しさを声高に代弁しているのだ。

かかるスタイルは一般的に奇抜であるゆえに、個性的と捉えられているが、実際はどうだろう。

個性的というのは当然ながら「個」の表現がベースとなる。
ファッションの分野ではスタイルをそのままコピーするのではなく、
差別化のためにアレンジを加えることから始まると思われる。
しかし世の中すべての人がそういうことに興味があるわけでもないし、
興味があってもセンスがなく、アレンジが上手く出来ない人もいるだろう。
興味がない人は別として、アレンジが上手くできない人々は、
雑誌などのスタイルをそのままコピーするような、コスプレに近い表現を選ぶと思われる。

ヤンキー、ガングロのギャル系のファッションも
「個」の表現を目的とするのではなく、そのようなコスプレ的表現を目指しているのではないか。
なぜなら、ファッションに本質的に由来する格好良さや美しさを表現しようとしているというよりも、
型による(奇抜さによる)パフォーマンスに見えてしまうからだ。
あるいは、服を身に纏う喜びより、
型を使ってでも表現しないといけない「業」のようなものを感じてしまう。
もちろんヤンキー・ギャル系の中にもアレンジしているという人もいるだろうし、
非ヤンキー・ギャル系でもコスプレ的傾向が強い人もいるかもしれない。
しかしマスで捉えた場合は、そのような傾向があると思っている。

ここで問題としたいのはコピーすることではなく、コピーする対象の方だ。
歴史的には、伝統の枠組みの中でコスプレすることは日常だったし、
伝統は良質の型を与えることができたので(それが伝統の役割なので)、
それぞれの人々の表現欲を満たすことができた。
センスのありなしに関わらず楽しむことができるセーフティーネットのような役割を
果たしていたのだろう。
しかし現在のように伝統が衰退すると——つまりセーフティーネットがなくなると——
そういう人々は奇抜さという方向でしか表現欲を満たすことができなくなるのではないだろうか。

着物は日本の伝統的な服飾だとされているが、
現在のところ仕事に毎日着ていくという人は、専門的な職種を除いてほとんどいない。
実際に着物を着てみると、街中がいかに着物で生活するに適していないかがよくわかる。
日本の日常は言うまでもなく、非和服に適するように出来上がっていて、
今後もそれがつくりかえられることはないと思われる。
伝統的であるが日常的ではないということは、その文化は重篤な状態であることを意味している。
このことは、絶滅危惧種の動物が、人の乱獲だけで起こるのでなく、
その動物を含んだ生態系ごと失われている状況と似ている。
口を揃えて着物の美しさを讃えてみても、
それをアフォードする環境が失われていては、今後ゆっくりと滅んでいくしかないのではと、
嫌な予感が頭をよぎってしまう。

急速なグローバル化の中で世界的に伝統が失われている状況を考えると
ヤンキー的な表現が日本以外の場所で起こっても不思議ではない。

あでやかな民族衣装に身を包んだ人々は美し過ぎるので、
伝統がもろくはかないことをいつも忘れてしまう。

 

写真(上から)
ベトナム・モン族
ペルー・ケチュア族
グアテマラ・カクチケル族
写真協力:「アフリカへ行こう」
 

Dear Photograph

最近ちょくちょく見ているDear Photograph
明快なコンセプトなので、投稿頻度高し。

不思議なのは、全く知らない風景と写真のはずなのになぜかキュンとしてしまうこと。
映画やドラマなどは詳細がわかっているから感情移入しますが
こちらは写真一枚ですからね。
逆にバックグラウンドがあまりわからないから想像がふくらみやすいのでしょうか。

こういうプロジェクトはいいですね。

課題

下記からひとつ選んで進行のこと。

◎偏愛
自分自身はとても好きだか、
世の中にいまいちその良さが伝わっていない食べ物のプロモーションをしなさい。

◎妄想
最近、新潟と長野の県境付近の山奥で、未知の人が住んでいるエリアが発見され、
新たに県に認定されることとなった。名称は「奥山県」と決まった。
その県のシンボルマーク、ロゴタイプ、観光誘致ツールをデザインしなさい。

◎正統
DESIGN MUSEUM TOKYOが2014年にオープンする。(仮定)
そのロゴタイプ、シンボルマーク、ピクトグラム、カードなどをデザインしなさい。
 
 
偏愛、妄想、正統の3つのテーマで家政大の前期の課題を考えました。

それぞれのテーマはデザインをする際に必要な要素から導き出したものです。
要素は造形力だったり、想像力だったり、客観性だったりと
いくつかあると思うのですが
僕が担当する2年生はデザインにファーストタッチする学年なので
なるべく楽しくデザインに入っていける方が望ましいと思いました。

そこで考えたのは要素の源に一回立ち返ることです。

いきなり想像力や責任感や客観性を養うのではなくそれぞれの原点から入ります。

想像力→妄想
責任感→偏愛
客観性→正統

あらゆる想像力の源は妄想することから始まるのだと思います。
その妄想にストーリー性があれば小説家になるでしょうし、
視覚的であればデザイナーや画家になるかもしれません。

何かを偏って好きということはそれだけで十分なエネルギーですし、
好きであればあるほど責任を伴います。
そしてどんな仕事でも責任感がないことにはいい結果には結びつかないと思います。
もとから「責任感をもっている=偏愛している」ものだと
デザインに入りやすいのではないでしょうか。

生み出したデザインの善し悪しは社会に決定されます。
デザインに社会性がないと成立しないのは言うまでもありません。
メジャーなものをデザインすることで
客観性を考えるきっかけになると思います。

今回課題を考えてみて改めてデザインに対して意識的になりました。
「課題を考えなさい」って課題もありなんでは。ややこしいか。

タネの伝統

オレガノ
パクチー
ロズマリー
バジル
ディル

土って必ずしもいい匂いとは思えないですが、
気持ちの奥底まで染み渡っていく強さがありますね。
まるでそういうものが足りてないと身体が反応しているかのようです。

春になり雑草もだいぶ生い茂ってきたので、
草むしりをかねて庭(狭いです)をいじり、ハーブ類を植えてみました。

肥料は与えずなるべく自然に近い状態で育てたいと思い、固定種のタネを取り寄せました。
理想は手をほとんど加えない自然農法。
まあ自然農法と言えば聞こえはいいですがただ単に世話をするのが面倒なだけです。
それに土地に適してずっと育っていって欲しいと思っています。

現在ホームセンターなどで出回っている交配種(F1)は一代目はちゃんと立派に育ちます。
しかし農薬や肥料を与えることが前提ですし、
自家採種したタネを翌年に蒔いても安定した育ち方はしません。
一回目だけが良ければいいとコントロールされた交配種に比べ、
固定種の方は今後もずっと蒔くことができますし、
肥料を与えない自然農法や土地に少しずつ馴染んでいきます。

固定種には伝統があり、交配種には伝統がないということでしょうか。
なんでも自分の文脈に近づけるなと言われそうですが…。

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