2014年1月

民藝の構造主義|モロッコ・スペイン編


緑釉染分平皿(アンティーク)|タムグルート焼|モロッコ 
 

緑釉平鉢|タムグルート焼|モロッコ 
 


黄釉小鉢|タムグルート焼|モロッコ 


パン籠|フェズ|モロッコ 
 

モロッコのイタヤ馬+イタヤ駱駝|トドラ渓谷|モロッコ
  

スパニッシュタイル(アンティーク)|グラナダ|スペイン


乳白釉深皿|グラナダ焼|スペイン
 

今回の旅行で買ってきた民藝をいくつかご紹介。
名前は便宜上、勝手に命名。

写真のタムグルート焼とは、緑釉がメインのモロッコ南部の砂漠で焼かれる素朴な陶器で、
ほとんどは緑釉だが写真の様な黄釉もあり、なかなか滋味深い。
今回このタムグルート焼に出会えたのは一番の収穫だった。
現在でこれほどのレベルのものを探そうと思うと、かなり時代をさかのぼらないといけないだろう。

器好きが概して古い物に行くのは、古い物が好きなわけでなく、古い物の方がいいからだ。
ここで記したように人間の感覚は過去の方が鋭敏だったので
日常で使っていた品々もそれに合わせて優れていたと考えている。
むかしの方が鋭敏だったのは、現在では人間が本来持っている感覚を
様々なテクノロジーに委ねてしまっているからだと思う。
初めての場所に行く際に、スマートフォンとグーグルマップによって迷わなくなったが、
このまま使い続ければ地理的感覚は当然退化して行くのだろう。
便利さと引き換えに、その他さまざまな感覚を外部に依存している状況を考えると、
南宋の青磁や朝鮮の井戸茶碗の水準を現在の陶工がどうやっても超えられないのは
つくり方がわからないだけではないと思っている。

タイルなどは別としてこれらの民藝の品々を眺めていると不思議と侘び寂びというか、
和的なものを感じないだろうか。
自分好みで選んでいるので偏りはあるかもしれないが、
出自を隠せばアフリカやヨーロッパの物とはあまり思わないだろう。

「緑釉染分平皿」は、柳宗理がディレクションした中井窯のものによく似ている。
染分(そめわけ)という半分だけ釉薬にひたす技法が用いられ、
高台やリムが中井窯のものよりも大きく、緑釉も青っぽいが、
この窯のバリエーションと言う気もしないでもない。
クスクスなどを盛りつけるとその黄色が映えて美しいと思う。

緑釉平鉢は織部焼を、黄釉小鉢は黄瀬戸焼をそれぞれ想起させる。
緑釉の色味がちょっと強いが、敷紙を乗せて、
天ぷらでも盛りつけるといいバランスかもしれない。
黄釉小鉢は、黄瀬戸さながら芹のお浸しなどを合わせたくなる。

イタヤ馬はトドラ渓谷をまわっていた際に購入した。
渓谷近くの村の少年が小遣い稼ぎなのか自らつくって売っていたもので、
似たような細工が日本では秋田の角館にもある。
モロッコの地域性を反映した「イタヤ駱駝」の造形は愛らしい。

グラナダ焼はホテルの中庭のテーブルの上に置かれていたものを頂いた。
いい器だったので、同じものを買いたいとホテルのオーナーに申し出たところ、
気前よくプレゼントしてくれたのだ。
これも、厚めにかけられた白い釉薬や柚肌の出かたなどが志野焼によく似ている。

これらのシンクロニシティが何を意味するかという問いには
レヴィ=ストロースの構造主義が答えてくれるだろう。
文化人類学者のレヴィ=ストロースは、異なった地域、時代、文化間でも
人間の行いには共通する普遍の構造があると提唱した。
離れた地域の神話が似ているのもこの構造が関係していることが多い。

有名なところではオーストラリアの原住民の「婚姻のルール」と
当時ヨーロッパで最先端だった代数学の「クラインの四元群」に同じ構造を見出した。
関係性がないように見える文化にも共通する構造があり、
原始的な社会と現代社会は同じようなルールや考え方で動いていると
レヴィ=ストロースは考えたのだ。
この思想はそれまでの西洋中心主義だった流れを大きく変えることになる。

自我を逃れて無意識に物づくりを行う民藝には、
日本とアフリカに通じる何かなどというスケールを遥かに超えた、普遍的な共通項があるのだろう。
異なる地域の言語でも似た構造を持つように、土を捏ねて、ろくろを回し、釉薬をかけて、
焼き上げる結果が、似てきても不思議ではないと思う。
イタヤ馬をはじめ、身近にある藁や植物などを用いる工芸は世界中にあり、
それらに類型を見出すことは前述のように難しくない。
動物や植物などの自然が人間に働きかけて生まれるストーリーのひとつが神話だとしたら、
同じように素材としての土や植物が働きかけて生まれるストーリーが民藝なのではないだろうか。
素材の良さを最大限に引き出す行為は、素材と真摯に向きあい、
発する声に耳を傾けることから始まる。
関係性の優劣はないので、こちらが一度でも尊大な振る舞いをすると、
相手の声を聞くことができなくなる。
きちんと対話をしていく姿勢に、もはや国籍などはないのだと思う。

正統な構造主義では共通する部分をさらに抽象化して、他の分野との関連性を見出すが、
とりあえず今回のフィールドワークでは異国間でのよく似た民藝の発見にとどめておき、
今後はもっと考えを深めて行きたい。

今年の抱負

昨年下記のようなことを抱負としていました。

知識を増やし過ぎることは、理性の声だけを大きくし、
感性の声を聞こえにくくすると思います。
バランスを失することから全ての原理主義が始まるのではないでしょうか。

なので今年は(というか今後ずっとですが)仕事に関しての知識は
追求しすぎるのではなく、ある程度知らない部分——知識のノリシロ——を
意識的に残すようにしようと思います。

知識が多過ぎると頭でっかちになり、感覚的なアウトプットがうまくできなくなるので
ほどほどにとどめておこうという趣旨のものですが、
一年経った現時点では逆に「物事」はきちんと知った方がいいと考えるようになりました。

たしかに「知らないこと」から生まれる自由さは魅力的です。
のびのびとした子供の絵などは目を見張るものがありますが
本人が目的意識を持ち始めると(例えば写実的に描こうとすると)
その自由さも往々にして失われて行くものだと思います。
それは自己満足の範疇を出ることがない、かりそめの自由さなのです。

記事中の寿司というカテゴリーで考えてみるとわかりやすいかもしれません。

一度もきちんと修行したことがない職人は、独創的な寿司をにぎれるかも知れませんし、
それが素晴らしいと賞賛されることもあるでしょう。
知らないのが強みというか、本家ではタブーとされることでも平気で手を出せるので
アレンジメントの領域が広くなるからです。
しかし日本人が食べてみて「これは寿司じゃないね」と思ったら話は変わってきます。

プロフェッショナルに求められるのは、
どこから攻められても落城しない城を築ける全方位的な専門性だと僕は考えます。
いくら美味しい寿司を握れるとしても、本家を満足させられない職人が本当の職人かと聞かれたら、
首を縦に振る自信は僕にはありません。
一方きちんと修行した職人がアレンジした寿司なら認められる可能性は高くなるでしょう。
なぜなら寿司が何なのかという本質を知っているからです。
本質を知って初めて、意味のあるアレンジができるのであって、
知らなければ、子供の絵と同じくただの自己満足で、終わってしまうのだと思います。

大事なのはきちんと「本質」にたどり着くこと、そして「自由さ」も掴むということ。
中途半端な理解ではかえって動きづらいでしょうし、
知識が多くなると権威主義や保守的な傾向が強くなる危険性もあるので、
いつでも予定調和を壊せる自由さも失わないようにしたいです。
なんといっても本質を知っているからこそ大胆になれるのですから。

つまり知識とは不自由になるためではなく、自由になるためにあるんですね。

一年前と全く逆なのでブレまくってると突っ込まれそうですが、
今後は躊躇なく物事を追求して行こうと思っております。
ここだけの話、マニアックに追求していくことは大好きなんですよ。

以上、今年の抱負でした。

 
 
 

明けましておめでとうございます。

本年もよろしくお願いします。
2014年元旦

すいせい
代表 樋口賢太郎
 
 
 

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