2016年1月

今年の抱負

例によってぐずぐずしていたら、もう一月も終わろうとしています。

日々いろいろと考えたり、心にとめていることはいくつかあるのですが
現在自分の中で生活というテーマが大きくなっているので
そのことについてちょっと触れてみたいと思います。
 
 

◎デザインの中心

結論から言うと、「生活の基本」みたいなものをもっとデザインの中心にできないだろうか。

生活とは、もちろん衣食住のことを指すが、
それらを成り立たせているもの——すなわちここで言う基本——が
現代社会の中では見えにくくなっている。
お金が生活を成り立たせていると思うかもしれないが、それは違う。
生活を本質的に成り立たせているのは、もっと別の、泥臭いものである。

極端な例として、古代に人々が生活を維持するためには、狩猟や農耕を行わなければいけなかった。
直接的に食料や、衣服となる毛皮を得ようとしなければ、生活できない構造だった。

しかし文明が進むにつれて貨幣経済へと移行し、
仕事によってお金が得られるようになると、この構造が変化していく。
第一次産業のお陰で、自分で魚を獲ったり野菜を育てる必要がなくなり、
間接的で抽象的な手段で生活できるようになった。

けれども、表向きは生活が変化したように見えても、
誰かがその役割を肩代わりしてくれている限り、生活の基本は変わっていない。
見えにくくなったり、隠されているだけで、人間の生活とは泥臭いものなのである。

現在の傾向として、デザインだけでなく、政治や経済などの重要な事柄の多くが、
生活の基本から乖離し、決定されているように感じる。
合理性から言えば、抽象的な判断材料だけの方が、スピーディに決定できるが、
大事なものがこぼれ落ちていることが多いと思う。

例えば原発の問題はその最たるものではないだろうか。

ごく個人的で尊大な意見を言わせていただければ、
人間が生きて行く上で一番大事なことを忘れてしまったからこそ、
原発を受け入れることができたのだと思っている。
「忘れたらいいものをあげる」と悪魔に耳元でささやかれ、その誘惑に負けたのだ。

同じような傾向がデザインについても見受けられる。

近代化以降、広告というかたちで企業のプロモーションとデザインが結びつき、
あたかもより良く見せることがデザインの機能のように認識されている。
もちろん全てが見せかけの広告ではないが、本来的にデザインとは衣食住の質を高めるものであり、
人間が生き延びていくための知恵の結実だった。

狩猟や農耕までさかのぼらなくても、生活におけるさまざまなリアリティが
大事な局面で希薄になってしまい、そろそろ行き詰まりを見せていると思う。
テロなり戦争なりもリアリティの欠如が原因のひとつではないだろうか。
生活や暮らしを一番よく知っている女性がテロや戦争を起こしたという話を聞いたことがない。

デザインの軸をもっと生活に寄せるにはどうすればいいか、最近よく考えている。
 

申年

猿

本年もよろしくお願いいたします。

すいせい
代表
樋口賢太郎

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