2016年7月

身体性の書 1

書物と活字

おそらく誰にでも、手放すことができずに
いつもそばに置いておきたい本があるだろう。

読み込むうちに血肉化していわば自分の身体の一部になったとでも言うのか。
「身体性の書」ではそんな本たちについて語ってみたい。

第1回目 ヤン・チヒョルト『書物と活字』

この本を買ったのは大学生の頃なので、もう15年以上も前の話である。

よく覚えているのは、そのとき金銭的に窮していて、
これを買うと今月分の食費がなくなるなあと、買おうかどうか迷っていたことだ。

大学でタイポグラフィの授業はあるにはあったが、満足いくものでなく、
漠然と書体とその扱いについて勉強したいと思っていたタイミングだった。
著者のヤン・チヒョルトって人が誰なのか知らないけれど、
とにかく掲載されている書体がまばゆいばかりに美しく、
これをおかずにご飯を食べればいいかと諦められるくらいに、目と心が満足する本だった。
実際にはそんなことはしなかったが、酒のアテの代わりに、
深夜にウィスキーを飲みながら、よくページをめくった。

書物と活字2

これを読むと、タイポグラフィを学ぶには
まずは文字の美しさを享受することから始まるということがよく分かる。
世の中にはこんなにも美しい書体があるんだとうっとりすることなしに
タイポグラフィの上達はないだろう。
そういう意味で、古くはローマ時代から、
天才チヒョルトの目によって選び抜かれた書体は理想の状態に置かれている。

僕はこの書物で初めてGill Sansに出会い、
無機質だと思っていたゴシック体にも温かみがあることを知った。
Garamondに遭遇し、古いローマン体には独特のかぐわしさがあることを知った。

なんでもそうだけれど、世の中にはこんなにも高い頂があると知ったうえで表現するのと、
そうでないのとでは、自ずと表現の質が変わってくる。
貧相な書体ばかりを見ていたわけではないが、
この本を手に取ったことで世界の山の高さを知ることができた。

書物と活字3

書物と活字4

以来自分にとって一番のタイポグラフィの教科書となり、
迷ったとき、わからなくなったとき、アイディアを探すとき、
あるいは欧文でロゴをつくらないといけないときには必ず開く。

目を通したからといって、問題解決に直結するわけではないが
気持ちを整えてくれる精神安定剤みたいな効き目があるのかいつもページをめくってしまう。
そしてめくるたびに新しい発見があり、学び尽くすということがない。

いい書物には、変わっていく自分に合わせて内容も変わる
時間軸のようなものが存在するのだ。

そういった本との邂逅は、長く付き合える友達に出会えるのと同じくらい
価値があることではないだろうか。
  
 

『書物と活字』
著者 ヤン・チヒョルト
発行 朗文堂
日本語版翻訳 菅井暢子
日本語版デザイン 白井敬尚
発行日 1998年3月26日
 

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