すいせいブログ

グラスサウンドスピーカー

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あくまでも個人的にですが、めっきりとセックスアピールを感じなくなったため
ソニー製を買うことがなくなってしまった昨今ですが、
今年初めに出たグラスサウンドスピーカーはなかなかいいプロダクトだなと感じていました。
Life Space UXと銘をうったシリーズのスピーカーで
照明とBluetoothスピーカーが融合していているのが特徴的です。
ガラス部分から音が出ます。

ちょうどBluetoothスピーカーが欲しいと思っていたタイミングだったので
検討した結果購入してみました。

閑話休題
だいぶ調べてみましたが、いまのところ10万円以内で買える
Bluetoothスピーカーってロクなものがないですね。
性能、価格、デザインのバランスが悪く、各メーカーとも適当にやっちゃってる気がします。
ハイレゾが今後どうなるのかわからない移行期だからでしょうか。

でグラスサウンドスピーカーですが
これはずばりスピーカーと照明を一体にしたコンセプトがいいですね。
最初はその組み合わせに違和感があるのではと思いましたが、
実際に使ってみるとそんなこともなく、「照明×スピーカー」の掛け算の面白さを感じました。

ちょうど無印良品のCDプレーヤーに似た面白さがあると思います。
ぶら下がっている紐を引っ張ると音が出てくる有名なアレです。

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このCDプレーヤーは、デザイン業界では「アフォーダンス」という
難しい言葉の象徴としてよく使われるのですが、要するに換気扇のような形をしていると、
紐を引っ張ってスイッチをいれる行為が誘発されるということです。
人々は既に換気扇を使ったことがあり知っているので
教えられなくても身体が紐を引っ張ることを自然と促すのです。
そして風のメタファーとして音が出ます。
風の代わりに音が出るのがこのスピーカーのキモですね。

実際に光を発するので、グラスサウンドスピーカーの音はメタファーではないですが
光と音が重なっている感覚といいますか、まるで音を可視化してるように感じます。
顔の光があたってる部分には、音が当たってるんだなとか、
暗闇の中心にスピーカーをおくと、光の輪の広がりと同じように
音が広がっているように思えるのは、一種のアフォーダンスの効果でしょうか。

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下部の突起がウーファー

肝心の音質についてはまあまあですかね。
ウーファーがあるので低音はある程度出ますが、
全体的な音の厚みというか迫力みたいなものがあんまりない気がします。
なので音にはあまり期待せず、ポータブルな照明×スピーカーと思って
付き合うくらいがちょうどいいかもしれません。

食卓の真ん中やベッドサイドに置いたり、それこそアウトドアに持って行ったりと、
楽しみを自分なりに発見することがこのプロダクトの一番の魅力でしょうか。

ブランドとはなにか?2

前回はこちら
ブランドとはなにか?1

品質を超えるイメージがある
認知度がある
スタイリッシュなイメージがある
安心感がある
歴史がある
機能性がある
ビジョンがある
将来性がある

上記は、いいブランドとはなにか?という質問に対しての学生の答えの一部である。

まあ想定の範囲内であるが傾向としてイメージ戦略的な答えが多かった。
消費者にいいイメージを刷り込ませたり、
もっと言えばブランドを超えるくらいのいいイメージを
認知させている企業がいいブランドというわけである。

この感覚は世間ともそんなに離れていないような気がする。

ブランディングという局面では、とかくイメージが大事になってくるので、
スタイリッシュな広告やデザインなどをどの企業も求めるようになり、
実態とはかけ離れたいいイメージを認知させることが
あたかもブランディングの本質のように捉えられている向きがあるように思える。
もちろんスタイリッシュさを全て否定するわけではないが
それはあくまでケースバイケースで導き出された答えであって
全てに敷衍することはできない。
スタイリッシュであることは表現方法のひとつにすぎないからだ。

僕は常々「ブランド」と「人」は似ていると感じている。
ブランドは人の集合が作り出すものであって、表向きは多種多様だが、
奥には人がいて成り立っている。

つまり「人と人との関係性」でなにが大事かを考えると
「ブランドと人との関係性」も見えて来るのではないだろうか。

人と人との関係性で一番大事なのは、言うまでもなく「信頼」である。

信頼がなければそもそもの関係性を築くことができず、物事は前には進まない。
家族や友人との近しい関係性も、ビジネスでの広い関係性も、
領域と規模さえ違うが、全て信頼をベースとしている。
もろくはかないものなので嘘をついたり、約束を破ったりするとすぐに壊れてしまう。

ブランドも同じで、消費者との信頼関係がなければ前には進まない。
誇大広告で実態よりも良く見せようとすると、
一時的には収益は上がるかもしれないが、結局はブランドを毀損することになる。
実態を超えたスタイリッシュなイメージも長い目で見ればプラスには働かないことが多いだろう。

前回「人はなぜブランド品を買うのか?」という質問をしたのは
ブランドの本質を問いたかったからだ。
人は商品が優れているという理由だけで買っているのではなく、
消費行動の奥底では「信頼」という意識が働いている。
iPhoneが世界中で10億台も売れたのも、優れたデザインに加えて、
期待以上のものをいつも提供していたからだ。
もっと正確に言えば、期待以上のものを提供できるという信頼関係を
消費者と結んでいたからである。
ブランド展開としては、高まった期待に応えていけるのは最も理想的であるが、リスクがともなう。
そのことは、appleの業績が現在低迷しつつあることからもご理解いただけるであろう。

質問の答えをまとめると「消費者と信頼関係を結ぶことができるブランド」が
いいブランドということになる。
もちろん前回書いたようにブランド自体にオリジナリティがあることは前提である。
オリジナリティがなければただの商売になってしまうし、
ただの商売は今後、この猖獗を極めている資本主義社会の中では生き残っていけないだろう。
オリジナリティがなくても生き残っていけるのは最大手だけである。

信頼関係を築く際に大事なのはブランドのスケールにあったコミュニケーションを選ぶということだ。
上げた期待値を回収できなければ信頼関係を壊す。
とても当たり前のことであるが、周りを見渡してみると、よりよく見せようとすることで
うまく行っていない例があまりにも多いと思われる。

今後ますます加速化していくグローバル経済、高度化していく資本主義の中で、
中小規模で展開しているところほど、このブランドという概念が有効なのではないだろうか。
規模に関係なく、考え抜いたアイディアを武器に大手とも戦って行けるからである。

その際には根本的なところを疑う視点が大事になってくる。
なぜその製品をつくらなければいけないのか?、なぜそのサービスを行わないといけないのか?
あるいは存在自体が世の中にとって必要なのか?
根本的なことを疑うことは苦痛がともなうが、問題点が見えてくることは悪いことではない。
見えてくればあとは徐々に改善していけばいいからだ。
そういった視点を持てない、問題点が見えない場合の方が危機的状況だと思われる。
 
<終>

ブランドとはなにか?1

ちょうどいま大学でブランド・アイデンティティについての授業があり、
ブランドとはなにか改めて考えている。

人に教える機会があると、普段あいまいに捉えていることを、再確認させられる。

あいまいなままだと学生には伝わらないし、
本などの受け売りなら自分が授業をもっている意味がないからだ。
デザイナーとしてのいままでの経験から、物を言うのは大事なことだと思う。

さて表題であるが、ブランドと言えば一般的にはappleやSTARBUCKS、
日本だったらSonyなどの企業が思い浮かぶだろう。

もちろんその認識で間違いないのだが、現在では様々な局面で使われることが多い。
数十年前までは主にファッションブランドを指していたその言葉は
いまではだいぶ裾野が広がり、なにをやるにしてもつきまとってくるようになった。
きちんとブランディングができていないと、ラーメン屋を開くにしても、
お笑い芸人を始めるにしても、上手く行かないような気がする。

ではそもそもブランドとは一体なんなのか。
授業にあたって改めて考えたことをまとめてみたい。

問いの立て方として

ブランドの定義とは?
いいブランドとは何か?

という流れで進んでいきます。

前述のように、現在ではひとくくりにブランドと言っても、その意味は広範囲に及んでいる。
企業はもちろんのこと、商品やサービス、建物、空間、個人の活動などもブランド化している。
範囲が広がり過ぎたため実態がつかみずらくなり、ブランドやブランディングという言葉に
胡散臭さを感じる人も多いのではないだろうか。

しかしブランドやブランディングの本質は
マーケットで生き残っていくための知恵のようなものであり、けっして表層的なものではない。
範囲が広がっているのはどんな分野でも有効だからだ。

例えば地方都市にある小さなネジ工場(こうば)はブランドと言えるだろうか。
あるいは商店街にある家族経営のお豆腐屋さんはどうだろう。

ブランドとは言えないケースが多いだろうが、必ずしもそうとは言い切れない。

圧倒的な技術力により、世界でもトップクラスの精度のネジを生み出す工場であれば
ブランドとして成立する。
中毒になってしまうくらい美味しい豆腐をつくっているのならばブランドになり得る。

ではブランドになるネジ屋とそうでないネジ屋を隔てているのはなんであろうか。

ひとことで言ってしまえば、オリジナリティである。

マーケットにおいて他社と「カブらない価値」が
ブランドになるかどうかを分けることになる。

なのでどんなにアクセスが悪い場所にネジ屋があったとしても、
世界中でそこでしか手に入らない製品を生み出すのであればビジネスとして成立する。
(もちろん交通の便がいいに越したことはないが)

つまり他の人がやろうとしない、あるいはできないポジションをマーケットに見つけて、
そのポジションが世間的に有用であればブランドになるのだ。
そしてそのポジションを見つけることをブランディングと呼ぶ。

そういう意味で「カブらない価値」を見つけることは普遍的に求められることかもしれない。
例えば商売ではなく、絵を描いたり、小説を書いたりする仕事でも
カブりが少なければ少ないほど活動がしやすいからだ。
もっとも作家にとってブランドの確立は古来より意識されてきた。
「オリジナリティがある」という一番の褒め言葉は
ブランディングがきちんとなされているという意味に他ならない。

ではブランドの定義はわかったとして、いいブランドとはなんだろうか?
どんなブランドを人はいいブランドだと認識するのだろうか?

こういう質問でもいいかもしれない。

例えば家電量販店に行ってデジカメを買おうとする。
聞いたことがないメーカーのデジカメとCanon製のデジカメが並んでいる。
同じ価格、同じスペックの製品である。

その場合にはどちらを選ぶであろうか。

ほとんどの人はCanon製を選ぶだろう。僕だってむろんそうである。

なぜ人はブランド品の方を選ぶのだろうか?
普段無意識のうちに取っている行動を分析すると答えが見えてくる。

続く

一瞬は永遠

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その画家は言った。

一瞬は永遠だと。
一瞬が永遠になりうるのだと。

たかだか数十年しか生きていない人間の絵が何百年もの間、
人々を魅了し続けるのは不思議じゃないかい?
万有のエネルギー法則からすれば、
費やした年数と消費される年数は同じになるはずなんだよ。

海に臨むアトリエは絵筆や描きかけの作品などで散らかっている。

黙って聞いていると画家はさらに話を続けた。
窓の外では狂ったように草木が揺れ、横殴りの雨が降っている。

描いていると、自分の能力以上の表現が出てくることがある。

時代を超越した普遍的な魅力とでも言うべきか。
その瞬間に起こるのは、生きてきた年数を遥かに超えた
永遠とも言える時間の定着なんだ。
つまり一瞬のうちに永遠を定着することができる。

だから寿命以上に絵が残ることはなんら不思議ではないんだよ。

話はぷつりとそこで終わった。

嵐が近づこうとしているのか、
風雨はさらに激しくなり、舞い上げられた砂が窓ガラスにあたる
パラパラという音が聞こえる。

猛烈な勢いで移動していく暗雲を見ながら、
画家が再び口を開くのを待った。

身体性の書 1

書物と活字

おそらく誰にでも、手放すことができずに
いつもそばに置いておきたい本があるだろう。

読み込むうちに血肉化していわば自分の身体の一部になったとでも言うのか。
「身体性の書」ではそんな本たちについて語ってみたい。

第1回目 ヤン・チヒョルト『書物と活字』

この本を買ったのは大学生の頃なので、もう15年以上も前の話である。

よく覚えているのは、そのとき金銭的に窮していて、
これを買うと今月分の食費がなくなるなあと、買おうかどうか迷っていたことだ。

大学でタイポグラフィの授業はあるにはあったが、満足いくものでなく、
漠然と書体とその扱いについて勉強したいと思っていたタイミングだった。
著者のヤン・チヒョルトって人が誰なのか知らないけれど、
とにかく掲載されている書体がまばゆいばかりに美しく、
これをおかずにご飯を食べればいいかと諦められるくらいに、目と心が満足する本だった。
実際にはそんなことはしなかったが、酒のアテの代わりに、
深夜にウィスキーを飲みながら、よくページをめくった。

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これを読むと、タイポグラフィを学ぶには
まずは文字の美しさを享受することから始まるということがよく分かる。
世の中にはこんなにも美しい書体があるんだとうっとりすることなしに
タイポグラフィの上達はないだろう。
そういう意味で、古くはローマ時代から、
天才チヒョルトの目によって選び抜かれた書体は理想の状態に置かれている。

僕はこの書物で初めてGill Sansに出会い、
無機質だと思っていたゴシック体にも温かみがあることを知った。
Garamondに遭遇し、古いローマン体には独特のかぐわしさがあることを知った。

なんでもそうだけれど、世の中にはこんなにも高い頂があると知ったうえで表現するのと、
そうでないのとでは、自ずと表現の質が変わってくる。
貧相な書体ばかりを見ていたわけではないが、
この本を手に取ったことで世界の山の高さを知ることができた。

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以来自分にとって一番のタイポグラフィの教科書となり、
迷ったとき、わからなくなったとき、アイディアを探すとき、
あるいは欧文でロゴをつくらないといけないときには必ず開く。

目を通したからといって、問題解決に直結するわけではないが
気持ちを整えてくれる精神安定剤みたいな効き目があるのかいつもページをめくってしまう。
そしてめくるたびに新しい発見があり、学び尽くすということがない。

いい書物には、変わっていく自分に合わせて内容も変わる
時間軸のようなものが存在するのだ。

そういった本との邂逅は、長く付き合える友達に出会えるのと同じくらい
価値があることではないだろうか。
  
 

『書物と活字』
著者 ヤン・チヒョルト
発行 朗文堂
日本語版翻訳 菅井暢子
日本語版デザイン 白井敬尚
発行日 1998年3月26日
 

高級と上質

最近「高級」と「上質」という言葉が気になっている。
似ているようでだいぶ違う。

高級は「高い階級」みたいなことなので、classについての言葉だろう。
端的に言うとお金を払うことによって得られる
ステイタスのようなものが高級なんだと思う。
高級ブランド、高級車、高級マンション。
お金を使えば使うほど「高い」classが得られることが多い。

いっぽうの上質は「質が上」なだけにqualityについての言葉だ。
上質な音響、上質な睡眠など品質が良いものを表す。
高級な音響とか高級な睡眠とはあまり言わない。 
こちらはお金を出したからと言って必ずしも上質なものが得られるわけでない。
なぜなら上質とは何かという情報が必要だからだ。
何が上質なのか知らなければ、たどり着けないことが多い。
例えばデザイナーとして上質な紙を求める際には、風合いだけでなく、
印刷適正や加工のしやすさなどの知識が必要になってくる。

世の中には

・高級で上質なもの
・高級だが上質でないもの
・上質だが高級でないもの
・高級でも上質でもないもの

が存在する。

自分自身はこれまで上質さを志向してきたが
高級という方向を目指すことはあまりなかった。
実体がよくわからないし、ただお金を払えさえすれば手に入るものには
価値がないと思っていたからだ。
もっと言えば高級という言葉を心のどこかで軽蔑していた。

しかし最近は高級なものも世の中に必要だよなあと思うようになってきた。

例えばいろいろとお世話になった人にお礼をしたいと贈答品を選ぶとする。
その際に上質なものは必要条件であるが十分条件ではない。
感謝の気持ちを表したい場合に、いくら上質だったとしても
日常的にありふれているものを渡すことはしない。
ちょっと特別な品(しな)を渡そうとするだろう。

あるいは記念日などに温泉にでも入ってゆっくりしようというときには
上質な宿より、高級な宿に泊まる方がしっくりくるだろう。
いくら上質だったとしても、普段と同じような時間は求めていないからだ。
そういったときには、手が込んだ料理も食べたいし、丁寧なホスピタリティも受けたい。

つまり人々の生活はハレとケで構成されているので
ハレの時間においては高級という役割が大事だと考えるようになったのだ。

デザインは日常で使うものなので、
これからも仕事として上質さを目指して行くことには変わりはないが、
高級という在り方の中に隠された非日常の意味について考えている。

上質さと同じように、きちんと情報を知っている人にしか
手にいれることができない高級というものが確かにあるのではないだろうか。

 

さよなら佐藤先生

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大学時代の恩師、グラフィックデザイナーの佐藤晃一先生が亡くなった。

佐藤先生のデザインについては、完全に理解していたわけではないが、
作品制作においてとても多くの助言をいただき、自分の人生に大きな指針を与えてくださった。

心より御冥福をお祈りいたします。

佐藤先生には在学中はもちろんアドバイスをたくさん頂いたが、
卒業後に作品を持って事務所に遊びに行った時のことを、いまでも鮮明に覚えている。

それは確か独立して間もない頃だった。

仕事もあまりなく、暇で、しかしデザイナーとしての志だけは必要以上に高く、
いいデザインとは何か、そんなことばかりを日々考えあぐねていた。
なにしろ時間だけは潤沢にあったのだ。

本郷にある事務所で作品を見ていただいた後、しばらくおいて佐藤先生はこう仰られた。

「君ね、デザインはいいと思いますよ。しかし世の中の人はデザインなんて見ないのです。
デザインを見るのはデザイナーだけです。
そのあたりのことがわかればもっと仕事が来るようになると思いますよ。」

このひとことに、頭を殴られたような衝撃を受けた。
そうか、普通の人はデザインは見てないのか…。

確かにそれまでいいデザインとは何かと一生懸命に考えていたが、
あくまでデザイナーの視点であって、受け手側がどう感じるかあまり考えることはなかった。
当たり前で簡単なことのようだが、視野が狭くなり煮詰まっていた自分を
その時ようやく、客観視することができた。

だからといって、その後すぐに仕事が増えることにはならなかったが
いだたいた言葉を胸に秘めながらデザインしていると徐々に仕事は広がりを見せ始めた。

歯に衣きせぬ物言いからか、佐藤先生は怖いという意見が周りでは多かった。
しかし自分は一度たりともそんなことを感じなかった。
カミソリのように鋭利な考えを、包み隠さず話されるので、
怖いとか厳しいなどの意見もあったのかもしれない。
けれど作品をつくる上ではこれほどありがたいことはないと僕は思っていた。
名医に病状を診断される患者のような心持ちで、いつも佐藤先生の講評を受けていた。

昨年の初めにもまた事務所に伺って作品を見ていただいた。

どんな切れ味鋭いアドバイスをいただけるのかドキドキしながら言葉を待っていたが、
「もう僕に言えることはないですね」とだけ仰られた。
なんだかちょっと悲しいような、少し嬉しいような気持ちになり「はい」と小さく返事をした。

いまや恐ろしいことに自分も教える立場にいて、学生相手に日々煩悶している。

厳しさというのは諸刃の刃で、その扱いがとても難しい。
厳しさが薬になるか毒となるかは学生次第だからだ。
最初は毒だと思っていても、のちに薬として効いてくることもあるかもしれない。

そういう意味で佐藤先生からいただいた言葉は、卒業してだいぶ時間が経ったいまでも
薬効が長い温泉に入浴したのと同じように、
じわじわと体の芯まで温め、時には間違った進路を正してくれる。

その良薬と処方の仕方はデザイナーとしての指針になるだけでなく、
先生としてのあるべき姿も示していると思う。
 
 

※冒頭の画像は佐藤先生の作品の中で一番好きなポスター「NEW MUSIC MEDIA」
 

解決策がわからないのではない

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問題解決を図る上では、何が問題なのかをきちんと捉えなくてはいけない。
そもそもの問いの立て方が間違っていると、当然解決策を正しく導くことはできない。
という怖い言葉。

デザインだけでなく、全ての仕事に言えることですね。
 

既視感があるが新しさ

アイディアを練る際に、普通のデザイナーなら
新しいデザインを目指して考えることが多いだろう。

世界が驚嘆する新しいものを、なんとか生み出したいという気持ち一心で、
多くのデザイナーは日々仕事をしているのだと思う。

ただ新しいという言葉の定義がやっかいで、世の中にはいくつかの「新しさ」が存在する。
そのことについてちょっと触れてみたいと思う。

 
1.消費される新しさ

ひとつめに挙げるのは、新しさのためだけの新しさである。
新しさが自己目的化しているケース。

車などのモデルチェンジの多くはこれに該当する。

丸まっていたフォルムを少しとがらせてみたり、色や質感を微妙に変えてみる。
何か要素を加えたり引いたりして、新しくなったように見せる。

この種の新しさはデザインの最も表層だけで語られることが多く、
いくら剥いていっても核心に辿り着かないタマネギの皮のようなものである。
全て飽きられないために行う作業なので、
デザインの本質とは関係なく、結局消費されて終わる。
コンビニに並ぶ商品も、この手のデザインが多い。

 
2.改良のための新しさ

ふたつめは改良していく新しさ。
市場に出た後、段階的に改良を加えて完成度を高める作業。

分かりやすい例としては、アプリやOSのアップデート。

1に似ているように思えるが全然違う種類のものである。
ひとつめの新しさの方向性はデタラメなので、
回り回って出発点に戻ってくるということも起こり得るが、
この新しさは改良という方向を目指している。

自分でパッケージをデザインする際にも
商品の発売後にこの作業を行うことがある。

 
3.本来の意味でクリエイティブな新しさ

世の中にはまだ存在しておらず、発表されることで世界が豊かになる新しさのこと。

掛け値なく素晴らしいもので、こういったデザインを生涯にいくつ生み出せるかで
デザイナーの値打ちが決まってくるだろう。
ゼロからイチを生み出す作業なのでむしろ発明に近く、
iPhoneのようにデザイン史だけでなく、その後の歴史まで変えてしまうこともあり得る。

しかしかかる新しさについて掘り下げてみると面白いことがわかる。

話がややこしくなるが、この新しさは実は新しくないものなのである。
なぜなら人々はこの新しさの到来を無意識の内に予感しているからだ。

これは新しい、と人々が評価するのは、
社会に潜在する問題意識にベストな解決法が提示された時だ。
奇想天外な新しさではなく、日常の中で気になっていたり、疑問に思っていることに対して
デザイナーがうまく応えられたときに、社会は新しい価値だと認めてくれる。
だからこの新しさはいつも既視感とカタルシスをともなって訪れる。

他の芸術も同様で、例えば映画や小説で感動した時、
欠けていたピースがぴたりとハマるような感覚をおぼえないだろうか。
優れた物語は、自分が精神的な欠乏状態であることに気付かされ、その穴を埋めてくれる。
初めてのはずなのに、既視感があるのは、受け手側の準備が整っているからだ。
テトリスで言えば、ブロックを全消ししてくれるピース待ちみたいな状態で
新しさの到来を、無意識の内に待ち構えているのだと思う。

既視であるが新しいという矛盾が人々を惹きつけるのだ。
 
 

日本酒のグローバル化とは?

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えーと、いきなりですが、みなさんはお酒は好きですか?

僕はけっして強くはないのですが、ほぼ毎日飲むくらいのお酒好きです。
甘い甘いサワー系やカシス割りなど以外は、だいたいどんなお酒もウェルカムで、
海外に行ったら、その国でつくられるお酒を飲むことはひとつの大きな楽しみであります。

日本酒の仕事をするようになってからは、仕事と称して、
それまであまり飲んだことがなかった国酒の領域に踏み込んでいます。
この世界も飲めば飲むほど奥が深く、山廃や生酛などのつくりの違いだけでなく
二度仕込みする貴醸酒や何年も寝かせる古酒など日本酒の概念を変えるお酒にも出会いました。

日本酒の魅力はいくつかありますが
そのひとつとしてだいたいの食事と合うという懐の広さがあると思います。
和食との相性は言うまでもなく、ステーキなどの肉料理や
ガッツリとニンニクが効いたイタリアンでも衝突することがありません。
寿司から世界中の料理までをカバーできる振り幅は大きなメリットだと思います。

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西洋の食中酒ワインの場合、魚介系との組み合わせが難しいという弱点があり、
特に生の魚介類の生臭さを強める有機酸塩が含まれているので、オールマイティではありません。
守備範囲の広さから言えば日本酒に軍配が上るのは間違いないでしょう。

しかしワイン(白)は辛口が多いですが、日本酒は甘口なんですよね。
食中酒は、マリアージュを楽しむだけでなく、口の中をさっぱりさせる目的もあることを考えると、
この甘さはプラスには働かないことが多いと思います。
また甘みが強いとたくさん飲みたいという欲求を抑えるので
酒飲みの人は日本酒の中でもあまり甘くない部類を好んでいるようです。
一時期流行った淡麗辛口というジャンルもそのことをよく知ったうえで、つくられたものでした。
ただ上手につくられた日本酒は、甘口であってもさらりとしていて舌に残りません。
最近では酸味を意識した日本酒も登場していて、よりさっぱりと楽しめるようになって来ました。

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で本題なのですが、日本人は日本酒とワインのどちらが好きでしょうか。

それはやっぱり日本酒でしょうと答えたいところですが、実はワインなのです。

きちんとマーケティング調査をしたわけではないので、正確な数字は持ってませんが、
そんなことくらいスーパーなどのお酒売り場をみればわかります。
お店の大きさにもよりますが、
だいたいワインの棚の方が日本酒の棚よりも3〜10倍くらいは広いでしょうか。
もちろん「消費量=好き」ということではないと思いますが、広さに加えて
ワイン売り場に並んでいる商品の充実ぶりを見ていると、情熱というのか愛情というのか、
この国の人は、日本酒よりもワインが好きなんだなあということがひしひしと伝わってくるのです。
日本酒売り場との落差は相当なものです。

ではなぜワインがこんなにも好まれているのでしょうか。

味について語っていくとキリがなさそうので、背景を見ることにします。
ワインには8000年とも言われる長い歴史があります。
それはただ単に歴史が長いということでなく、発祥の地とされる南コーカサスから、
世界中に広まる過程で、さまざまな酒と競合し、磨かれてきた側面があると思います。
例えばひとつの国の中で8000年つくられるのと、
さまざまな風土や文化の中で8000年つくられるのとでは、
結果にかなりの開きが出てくるでしょう。
つまりワインはそうとう古い時代から世界というマーケットの中で戦い抜いてきたわけです。

かたや日本酒はというと、稲作が始まったとされる縄文後期からカウントしても
2500年くらいしか経っていませんし、マーケットは単一の国だけでした。

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今後日本酒がどのようにグローバル化していけば良いのかは、先行のワインが教えてくれます。
国策などといって製造を日本国内で制限するのではなく、
海外に向けて積極的に門戸を開いて、
いろんな国で原料からつくる試みを行うことが大事だと思います。

まずはお米文化が浸透しているアジア圏からのスタートでしょうか。
一時的には輸出の面で日本は割り食うかもしれませんが、
マーケットが拡大し、日本酒の裾野が広がることは大きなメリットになると思います。

自分が生きてるうちに、いい意味で概念を覆す外国産の日本酒が飲めると嬉しいですね。

 

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