デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです
引っ越しました
年始にお伝えしていましたように、鎌倉に移りました。
工期が遅れていたのと、内装を部分的にDIYでやっている関係で、予定よりも時間がかかってしまいましたが、
今月のはじめ頃に引っ越しました。
まだまだ未完成を残していますが、住みながら少しづつ完成させていこうと考えています。
今回の家づくりで意識したのは、日本的な建物にしたいということ。
◎素材コンシャス
◎シンプル
◎地域性
これらの3つの要素を日本的と捉え、指標としました。
素材コンシャスとは茶の湯から続く、日本人独特の素材に対する感性で、もともとは千利休が見出したと考えています。
自然が豊かな環境で育った日本人のDNAには素材を尊ぶ感覚が刻まれているのではないでしょうか。
例えばそのことは、寿司屋のカウンターが、白木の一枚板でつくられていることに象徴的に表れています。
諸外国であればペンキを塗ってしまうところを、あえてそのままを楽しむ。
今回建てるにあたって、RC造を選んだのですが、それはコンクリートという素材を最大限に活かそうと考えたから。
木材の素材を活かす在来工法の選択肢も考えましたが、高気密・高断熱の面からRC造となりました。
なるべくたくさんの素材を使うことも意識しました。
コンクリート、石、木、紙、金属など素材が豊富な切り口も日本的だと考えています。
そして大事なポイントとしては塗装をしないということ。
塗装してしまっては素材感が活きません。
黒色が欲しいと思ったら、黒の石材を使う、茶色が欲しいと思ったら木材を使う、など
色を塗装で表現しない建物としました。
(木材などを保護するためにオイルやウレタンを塗布することなどは例外です)
シンプルとは素材感を活かすということ。
せっかく素材を活かそうと思っても、白木のカウンターが
レリーフでびっしりと埋め尽くされていると、素材の良さを享受しにくくなります。
桂離宮をはじめとする日本の伝統建築がなぜシンプルなのか、その答えも素材を活かす必然と考えると見えてこないでしょうか。
シンプルさと素材感は表裏一体の関係にあると考えています。
居住する地域にはそれぞれの気候風土や文化があります。
沖縄と北海道では当然求められる機能が異なるため、同じ建物を建てることはできないでしょう。
あるいは無理やり建ててしまっても快適ではないと思います。
その地域での快適さを素直に追い求めていくと自ずと地域性が出てくると思います。
以上ひとつでなく、3つを掛け合わせることで、日本的な建物が出現すると考えています。
そして総合的には、新聞社が年末にくれるようなカレンダーを壁に貼っても成立する建物を、ひとつの理想としていました。
カバーを付けない剥き出しのティッシュをそのまま置くということでもいいですが、
調和を求めすぎず、雑多に暮らしても受け入れてくれる懐の深さがあるという意味合いです。
どうやったらそういう建物をつくれるのか建築家に相談したところ、
構造を見せられる建物になっているか、そしてその構造を見せているかではないかと解答いただきました。
例えば合掌造りの家は新聞社のカレンダーを貼ってもビクともしないでしょう。
なぜならば構造を見せる前提で手を抜かずつくられているからです。
逆にいま現在量産されている経済性を優先した家は、プレカット材をボルトやネジで締めるだけだったり、
接着剤やタッカーなども使われており、躯体をあらわにはできません。
やみくもに構造を見せればいいということでもないと思いますが、機能美である梁や柱が露出しているほうが、建物として魅力的に見え、
そのことが懐の深さに繋がるのではないでしょうか。
構造をそのまま見せることができるからというのもRC造にしたひとつの理由です。
未完成なので全体をお見せできないですが、できあがったらまたアップしたいと思います。
※和火やってます。
※作家活動のインスタやってます。
Anselm Kiefer SORALIS
苔むすお札
日本のお札を見ていると、そのイメージの基本となるものが、苔から来ているのではと感じるのは僕だけだろうか。
それは色合いでもあるし、意匠でもあるし、紙の質感でもあるのだけど、
なんというか全体として苔むした岩のようなものを目指してデザインしているように思える。
国家として、ある意味では一番信用を得ないといけない局面で、苔的なものが表出する不思議さを考えてみたい。
日本の中にいる分には苔っぽいと感じることはあまりなくて、海外旅行などで、オレンジ系や派手なお札を目にした時に、
「派手だとありがたみがないなあ」とか「もっと色調を抑えた方がお札っぽいのでは」と意識することから始まる。
見慣れたものが変わることでの違和感は差し引いても、日本人としては、
彩度が高かったり、色の組み合せが派手だと、お札としてはふさわしくないと感じるのだろう。
識別性という観点では、似た色調でない方が望ましいが、日本のお札はくすんだ色調の中からのみ選ばれていると思われる。
彩度が高い色を好まない傾向が日本にはあるかもしれないが、原色をそのまま用いるような伝統的な表現も少なくなく、
漁師が使う大漁旗などは気持ち良いくらいに原色で構成されているし、日光東照宮や伊藤若冲の絵などにもなんのためらいもなく使われてきた。
ド派手な色を好まない大和的意識の傍らで、南方系の原色を使う文化も脈々と受け継がれてきたのだ。
つまりパレットには様々な絵の具が出ているが、渋い色しか使っていないと思われる。
もちろん渋いだけでは苔っぽくはない。赤系や茶系でも緑系ベースの色調を保持していること、
その赤や茶が全体にではなく部分的に分布し、あたかも岩肌に自生する苔の様にみえることなどが主な要因だと思う。
面白いのは緑系ベースのみでまとめられている千円札よりも、一万円札などの緑系×赤系のミックスの方がより苔感が出ている点だ。
緑だけの色調だと、他の植物も想起するが 赤や茶色が混ざることで石を覆っている苔という状態が明確になるからかもしれない。
君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて 苔のむすまで
この歌の解釈はいろいろとあるだろう。
しかしいずれにせよ誰かの未来永劫の繁栄を願うことは共通していて、その比喩として苔が用いられている。
古来より苔は、日本人にとって「得難いもの」「かけがえがないもの」の象徴とされてきた。
苔を見るとき、人はいろいろなことを想像する。
その生育の遅さを考え、目の前に広がる面積を埋め尽くすには どれだけの時間がかかるのだろうかと。
その不可逆性を思い、どれだけ長く踏み荒らされていないのだろうと。
京都の苔で有名な西芳寺、いわゆる苔寺も、その面積を埋め尽くすのにどれだけの時間と労力を費やすかを
見る人に想像させて完結する部分があるだろう。
苔は特別な植物なのだ。
現在において手にすることができない最も象徴的なものがお金だとしたら、
苔を尊ぶ民族は、国歌や庭だけではあきたらず、紙幣にまで苔を生やしてしまったのだろうか。
◎写真協力
大漁旗の写真:女川みなと祭り|マイノートblogより
※この記事は2013年12月に投稿した記事の再掲載です。過去のデータベースにアクセスできなくなったので一部加筆修正して掲載しています。
※和火やってます。
※作家活動やってます。
京都
一瞬は永遠
その画家は言った。
一瞬は永遠だと。
一瞬が永遠になりうるのだと。
たかだか数十年しか生きていない人間の絵が何百年もの間、
人々を魅了し続けるのは不思議じゃないかい?
万物のエネルギーの法則からすれば、
費やした年数と消費される年数は同じになるはずなんだよ。
海に臨むアトリエは絵筆や描きかけの作品などで散らかっていた。
窓の外では狂ったように草木が揺れ、横殴りの雨が降っている。
黙って聞いていると画家はさらに話を続けた。
絵筆を走らせていると、自分の能力以上の表現が出てくることがある。
時代を超越した普遍的な魅力とでも言うべきか。
その瞬間に起こるのは、生きてきた年数を遥かに超えた
永遠とも言える時間の定着なんだ。
つまり一瞬のうちに永遠を定着することができる。
だから寿命以上に絵が残ることはなんら不思議ではないんだよ。
話はぷつりとそこで終わった。
嵐が近づこうとしているのか、風雨はさらに激しくなり、
舞い上げられた砂が窓ガラスにあたるパラパラという音が聞こえてくる。
ビデオの早回しのようなスピードで移動していく暗雲を見ながら、
画家が再び口を開くのを待った。
※この記事は2016年9月に投稿した記事の再掲載です。
過去のデータベースにアクセスできなくなったので一部加筆修正して掲載しています。
※和火やってます。
※作家活動やってます。