デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです
苔むすお札
日本のお札を見ていると、そのイメージの基本となるものが、苔から来ているのではと感じるのは僕だけだろうか。
それは色合いでもあるし、意匠でもあるし、紙の質感でもあるのだけど、
なんというか全体として苔むした岩のようなものを目指してデザインしているように思える。
国家として、ある意味では一番信用を得ないといけない局面で、苔的なものが表出する不思議さを考えてみたい。
日本の中にいる分には苔っぽいと感じることはあまりなくて、海外旅行などで、オレンジ系や派手なお札を目にした時に、
「派手だとありがたみがないなあ」とか「もっと色調を抑えた方がお札っぽいのでは」と意識することから始まる。
見慣れたものが変わることでの違和感は差し引いても、日本人としては、
彩度が高かったり、色の組み合せが派手だと、お札としてはふさわしくないと感じるのだろう。
識別性という観点では、似た色調でない方が望ましいが、日本のお札はくすんだ色調の中からのみ選ばれていると思われる。
彩度が高い色を好まない傾向が日本にはあるかもしれないが、原色をそのまま用いるような伝統的な表現も少なくなく、
漁師が使う大漁旗などは気持ち良いくらいに原色で構成されているし、日光東照宮や伊藤若冲の絵などにもなんのためらいもなく使われてきた。
ド派手な色を好まない大和的意識の傍らで、南方系の原色を使う文化も脈々と受け継がれてきたのだ。
つまりパレットには様々な絵の具が出ているが、渋い色しか使っていないと思われる。
もちろん渋いだけでは苔っぽくはない。赤系や茶系でも緑系ベースの色調を保持していること、
その赤や茶が全体にではなく部分的に分布し、あたかも岩肌に自生する苔の様にみえることなどが主な要因だと思う。
面白いのは緑系ベースのみでまとめられている千円札よりも、一万円札などの緑系×赤系のミックスの方がより苔感が出ている点だ。
緑だけの色調だと、他の植物も想起するが 赤や茶色が混ざることで石を覆っている苔という状態が明確になるからかもしれない。
君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて 苔のむすまで
この歌の解釈はいろいろとあるだろう。
しかしいずれにせよ誰かの未来永劫の繁栄を願うことは共通していて、その比喩として苔が用いられている。
古来より苔は、日本人にとって「得難いもの」「かけがえがないもの」の象徴とされてきた。
苔を見るとき、人はいろいろなことを想像する。
その生育の遅さを考え、目の前に広がる面積を埋め尽くすには どれだけの時間がかかるのだろうかと。
その不可逆性を思い、どれだけ長く踏み荒らされていないのだろうと。
京都の苔で有名な西芳寺、いわゆる苔寺も、その面積を埋め尽くすのにどれだけの時間と労力を費やすかを
見る人に想像させて完結する部分があるだろう。
苔は特別な植物なのだ。
現在において手にすることができない最も象徴的なものがお金だとしたら、
苔を尊ぶ民族は、国歌や庭だけではあきたらず、紙幣にまで苔を生やしてしまったのだろうか。
◎写真協力
大漁旗の写真:女川みなと祭り|マイノートblogより
※この記事は2013年12月に投稿した記事の再掲載です。過去のデータベースにアクセスできなくなったので一部加筆修正して掲載しています。
※和火やってます。
※作家活動やってます。
京都
一瞬は永遠
その画家は言った。
一瞬は永遠だと。
一瞬が永遠になりうるのだと。
たかだか数十年しか生きていない人間の絵が何百年もの間、
人々を魅了し続けるのは不思議じゃないかい?
万物のエネルギーの法則からすれば、
費やした年数と消費される年数は同じになるはずなんだよ。
海に臨むアトリエは絵筆や描きかけの作品などで散らかっていた。
窓の外では狂ったように草木が揺れ、横殴りの雨が降っている。
黙って聞いていると画家はさらに話を続けた。
絵筆を走らせていると、自分の能力以上の表現が出てくることがある。
時代を超越した普遍的な魅力とでも言うべきか。
その瞬間に起こるのは、生きてきた年数を遥かに超えた
永遠とも言える時間の定着なんだ。
つまり一瞬のうちに永遠を定着することができる。
だから寿命以上に絵が残ることはなんら不思議ではないんだよ。
話はぷつりとそこで終わった。
嵐が近づこうとしているのか、風雨はさらに激しくなり、
舞い上げられた砂が窓ガラスにあたるパラパラという音が聞こえてくる。
ビデオの早回しのようなスピードで移動していく暗雲を見ながら、
画家が再び口を開くのを待った。
※この記事は2016年9月に投稿した記事の再掲載です。
過去のデータベースにアクセスできなくなったので一部加筆修正して掲載しています。
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答えがない世界に生きて
当たり前のことかもしれないが、世の中を難しくしている根本的な原因は、
正解や正しさがないってことだなあと最近つくづく感じている。
ジェンダーギャップにしろ、SDGsにしろ、人口減少にしろ、ウクライナ戦争にしろ、
フェミニズムにしろ、核兵器にしろ、人種差別にしろ、不倫にしろ、少子高齢化にしろ、
引き籠り問題にしろ、移民政策にしろ、AIの使い方にしろ、全てのことに正解はない。
正解に近い答えはあるかもしれないが、
誰にもこれが正しいですと100%確証を持って宣言することはできない。
例えば「人を殺すことはいけないことなのか」というシンプルな問いにしてみても、
一般常識では、いけないことです、ダメですと答えるかもしれないが、
もし難病を抱えていて、病院のベッドのうえで身体を動かすこともできず、
チューブで栄養をおくられて一生を過ごさないといけない状況だったら、また答えも変わってくるだろう。
少なくとも自分だったら誰かに殺してほしいと願うと思う。
そういったいっけん白黒つきそうな問いの答えでさえ、グレーの幅のなかにたくさんに存在しているので、
より複雑でわかりにくい問いに関しては、
みんなが納得する答えを出すことはほとんど不可能ではないかと感じてしまう。
そして最近は、早急に答えを求め過ぎることで逆に反発や軋轢を生み、
ものごとを複雑化し、可能性を閉ざしてしまっていないだろうか。
SNSの影響か、そのまま放っておいてもいいような物事にも答えを急ぎ過ぎているようにみえる。
芸術の分野は昔から割り切れない感情や相反する問題などをよく扱ってきた。
文学や映画の世界では、殺人などのアンモラルなことや不健全さもそのまま描かれる。
それは犯罪や不健全さを肯定しているわけではなく、そういった状況を設定することで、
むしろ真実や大事な価値観を炙り出そうとしているからではと考える。
例えば不倫というテーマも文学のなかでよく描かれてきた。
そもそもがひとの心の動きは矛盾を孕んでおり、倫理などを超越して好意をもってしまう。
好きになることが許されない状況だとしても
心は自律しているので魅力を感じる存在のほうに、本能的に吸い寄せられていく。
ひとを好きになることは極めてナチュラルな心の動きなので止めようがない。
心を動かさないってことは死んでしまうことと同じではないのか、
などと読むひとに問題意識を突き付けるのが文学の役割で、
大事なのはあくまで最終的な判断は受け手側に委ねるところだろう。
犯罪に手を染めたり、不倫してしまうひとびとの心のうちを想像し、
状況によっては自分もそうなってしまうかもしれないと考える。
仮定を積み重ねることで、ひとは矛盾し相反する感情を持つ存在だと知ることができる。
喫緊にせまる社会問題などはすぐに答えを求められるし、曖昧さは残さないほうがいい場合も多い。
しかしいま決める必要がないことはなるべく後伸ばしにするのは悪いことではないと思うし、
それも成熟した社会の問題解決のひとつなのではないかと考える。
もっと本を読み、もっと映画を観るだけでも、だいぶ社会は変わるのかもしれない。
※和火やってます。
※作家活動やってます。