デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです
味を理解する
子供のころは苦手だった食べ物が大人になり食べられるようになる、
あるいはむしろ好きになるということがありますね。
苦かったり、クセが強かったりするものに多いかもしれません。
その理由として、一般的には味覚の鋭敏さが大人になるにつれて衰えるからだと考えられています。
舌に並んだ味を感知する味蕾というセンサーが、30代以降になると子どもの頃の1/3くらいまで減少してしまい、
苦みがあるものや風味が強いものも食べられるようになるというわけです。
僕は、この医学的な理由の他に、理解力が影響しているのではと考えています。
味蕾が衰えるだけでは、例えば苦味を好むようになるといった変化は説明できないと思うからです。
子供のころはわかりやすい美味しさを求めます。
赤ちゃんなんかはとくにそうですが、知識や経験が少ないぶん、摂取するものを動物的に選り分けないといけません。
甘みや旨味=「安全」、苦味や酸味=「危険」という人間の本能が強く働くことで、
子供は安全な範囲のわかりやすい味を好むのだと考えられます。
大人になると身体に悪いものは識別できるようになるので、一見不味いと感じる食べ物であっても、
余裕を持って味わい、それまで気付かなかった美味しさを発見することができるのではないでしょうか。
たとえば、パクチーのような食べ物は、
子供の頃はその風味が理解できず(おそらく毒草のカテゴリーに分類されるので)、避けるのが一般的です。
しかし経験を重ねると、嫌いだった特徴的な香りを、逆に楽しむものなのかとわかるようになります。
最初は本能的に拒絶しますが、毒ではないという理解が進むことで、だんだんと好きになる変化が起こるのだと想像します。
そしてそのポジティブな変化は料理によるところが大きいと思われます。
腕の良いシェフのひと皿はパクチーをつかう必然性や意図が理解しやすいからです。
いままでは嫌いだったけど、こういう角度でこういう風に食べれば美味しいなと、
わかりやすくプレゼンされると、苦手だった食べ物が好きになる可能性が高くなると思います。
そういった意味では世の中に不味いものはなく、まだ自分が理解できていない味、
もっと言えばいつかは理解でき、好きになる味なのかもしれません。
(とはいえパクチーはカメムシの匂いがしてどうしてもダメだという人もいます。
嗅覚のレセプターは遺伝によって決まるので、ある人にとってはいい匂いでも他の人はそうでないという差が
どうしても生まれてしまいます。おそらく味覚も同じようなものなので、好き嫌いをなくすには限界があるのかもしれません)
味覚は男性のほうが保守的と言われています。
一般論になってしまいますが、女性のほうが料理をする機会が多いので、
育った家庭の味から早い段階で離れることができ、自分のあたらしい味覚を獲得するからではないでしょうか。
一方の男性は家庭料理が味覚のベースのままなので、冒険をしない保守的なタイプが多い。
パクチーが苦手な割合は男性のほうが多いというのもわかる気がします。
理解力は「味」に関してだけでなく、その他の五感についても言えることだと思っています。
年齢とともに聴覚も衰え、だんだんと高音が聴こえなくなりますし、視覚も場合によっては見えづらくなります。
ただそのぶん複雑味や奥深さなどへの理解は、トレードオフのように広がっていくのでしょう。
本能的な反応や反射を、いかに知識や経験などによってコントロールし、その先にある価値に気付けるか、
これがひとつの「大人」の基準となるのかもしれません。
写真は大人の味の代表格?と勝手に思っているカラスミです。最近購入した古染付に乗せて。
そういえば遅ればせながらすいせいのインスタグラムを始めました。
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宗教からアイドルまで
宗教とは何かと、知識もない、素人の頭で考えている。
いろいろと世間を騒がせている大きな宗教から土着的な民間信仰まで、さまざま宗教が存在しているが、
共通しているのは、合理的に説明がつかない物事について、答えを与えてくれる役割だろう。
死んだらどうなるのかとか、なぜ自分だけ難病に苦しむのかとか、
人間関係で不幸になってしまうとか、人は生きている限り、悩みがつきない。
世は不条理なので、その不条理さについて納得いく答えをどうしても求めてしまう。
現代は無宗教の時代といわれて久しいが、それはおそらく、
インフラや科学などの発達によって不条理さがある程度軽減されたからではないだろうか。
大規模な災害が起こる頻度も土木工事の発達によって減っただろうし、
難しい病気も、医学の進歩により、治療できるようになった。
いわば宗教を他のものが代替するようになった。
だがしかし世界はどこまでいっても不条理なので、災害は起こってしまうし、人は病気になってしまう。
この世から宗教がなくなることはないだろうと思う。
宗教はマイノリティや社会的弱者から発生することが多い。
キリスト教は、ユダヤ人しか救わないユダヤ教に対してのカウンターだったし、
仏教もバラモン教によるカースト制度から、最下層の不可触民を救おうとした。
オウム真理教をはじめとするカルトもその傾向が強いと思う。
あたりまえのことだが救われるひとびとがあってはじめて宗教は成立するのだ。
貧乏な家庭に生まれたり、器量が良くなかったり、持病があるひとのほうが、
生きづらさを抱え、向き合わなければならない問題が多い分、より多くの答えを持っていると考えている。
性的なマイノリティは、性について悩み苦しんで生きている分、宗教家に近いと言えるだろうし、
民族のマイノリティ、ADHDやHSPなどの悩みを抱える人々も同様だと思う。
生きづらさ自体は苦しいものなので、もちろん誰も望むことはないだろうが、
そのつらさを乗り越えて、解消することができたら、自分以外のひとびとも救える力となる。
でここからちょっと物騒な話になっていくが、人間にとって最もマイナーで、問題を抱えている存在はなにかと考えてみると、
人をあやめなければ生きていけないサイコパスが挙げられるのではないだろうか。
人間が持ちうる最も救い難い心の闇とは、人を殺すことでしか癒されない種類の欲望だと推察される。
本人はその呪われた宿命を背負い、欲望を発散したい気持ちにかられつつも、
なぜ自分だけがそのような病を有してしまったのかと、社会との軋轢に苦しんでいる側面もあるのではと想像できる。
だとすると本人がその心の闇を解決できる方法を思いついたら、
人類にとって最大なネガティブを最大なポジティブに転換でき、ひとびとを救う宗教になりうるのではないか。
サイコパスの心理は人間の本能の奥底とも繋がっており、全般的な心の問題を解決する糸口にもなるのではないかという気もする。
Apple好きなひとびとをApple信者などと表したりと、ブランドと宗教は似ていると言われている。
ミュージシャンやアイドルなども宗教家に近いかもしれない。
前述したようにそれまで宗教が担っていた役割が分散され、問題解決を他が代替するのが現代の特徴だとすると、
今後さらにその傾向は強まっていくのだろう。
不条理ささえも忘れさせてくれる熱狂的なブランドが出てきたら、宗教になりうるのだろうか。
いや、推しのアイドルを神と呼ぶファンにとっては、もうすでにそのような存在なのかもしれない。
※和火やってます。
※作家活動やってます。
北海道
先日、北海道に出張に行ってきました。
初めての北海道だったのですが、自然がとても濃く、また距離も近く感じ、
緑が少ない東京で暮らしている人間にとっては、心が洗われるような体験でした。
※和火やってます。
※作家活動やってます。
塗装することとは
最近塗装することの意味を考えている。塗装とはなにか?
例えば木材で机をつくる場合に、とてもいい材質の無垢板を入手できたとしたら、
それを塗装して仕上げようという人はあまり多くないだろう。
表面を保護するために透明なニスやウレタンなどを塗ることはあるだろうが
分厚くペンキを塗ってしまうのはもったいないと感じてしまう。
ではベニヤ板や集成材などが材料だったらどうだろう。
材質の良さを積極的に見せる必要がなくなったぶん、塗装して仕上げる割合がグッと上がる気がする。
あるいはRC造のコンクリートの打ちっぱなしの壁があったとしたら、
素材感を活かすために塗装しないひとが多いのではないだろうか。
いっぽう合板が相手だとすると、ペンキなどの塗料で仕上げることに抵抗は少ないと思われる。
つまり塗装するひとつの目的に、材質が劣っていることを見えなくする意識があると考えられる。
保護する意味もあるだろうが、色や質感に影響が少ない透明な塗料を選ぶこともできるので、
このケースでは隠してしまうことが主目的だろう。
もちろん置かれる環境とバランスを取るために、初めから机を白くしたい場合もある。
バランスを取るために、家具や壁などの色をコントロールすることは
ごく一般的に行われていることであり、こちらを目的として塗装することのほうが多いかもしれない。
しかし塗装すると、色の調和は良くなるかもしれないが、
素材感は薄くなるので、木材が木材である必要性も薄くなり、代替可能になってくる。
3Dプリンターなどを使って、樹脂で同じ形状の机を制作し、塗装してしまえばパッと見はわからないだろうし、
硬さや密度感などを近づければ、持ってみてもわからないかもしれない。
塗装すると色のバランスや保護面でのメリットがあるのは確かだが
木材や金属や石などの素材そのものの色には敵わないだろうと考えている。
少なくとも自分は、どんなに優れた塗料があったとしても、
黒い石材を黒く塗装しようとは思わないし、白い漆喰の壁を白く塗ろうとは思わない。
塗装するのは、それぞれの色が素材として用いることができない場合に限られる。
メンテナンスから言うと大変なのに、なぜ高級寿司屋のカウンターが檜の白木なのかよく考える。
おそらく日本人の意識の根底に素材を尊ぶ感覚があり、
かけがえがのない価値のありかたと結びついているからではないだろうか。
ちょっと高めの寿司屋のカウンターに座り、寿司を握ってもらうのは、
ハレの日の特別なことなので、当然その価値に合うサービスを求める。
ペンキが塗られたカウンターは日本人を喜ばせないし、ましてやなにも塗られていない分厚い一枚板を欲する。
世界的には模様を掘ったり、色を塗ることのほうを尊ぶ国のほうが多いので
(つまりわかりやすく仕事がされているのを喜ぶので)、このことは日本独特の珍しい感覚だと思われる。
考えてみれば、握り寿司も、極力手を加えずに素材をどう活かすかという、
とても日本的な視点でつくられる料理の代表格である。
寿司屋の白木のカウンターは、なぜ塗装しないといけないのかという問いを投げ掛けている。
※日本古来の漆が塗装かどうかは、なかなか難しい問題だと思う。
英語だとLacquer(ラッカー)と訳されるが、それはちょっと日本人の感覚からすると乱暴に思ってしまう。
おそらく塗料でもあるが素材という側面も持っているからではないだろうか。
何層にも重ねて塗ることで厚みが出るので、素材として認識しているのかもしれない。
※和火やってます。
※作家活動やってます。
リブラリアン 北園克衛
詩についてはよくわからないけれど、北園のデザイン、写真には中毒性があるように思える。
北園とは昭和初期から50年代にかけて活躍したモダニスト北園克衛のことである。
その活動範囲は前衛詩を主軸として写真、デザイン、映像と幅広く、ほとんどを独学で習得し、76歳で没するまで旺盛な創作活動を行った。
プロフェッショナルでもない一人のモダニストの作品が時代に埋もれることなく、
現代でも輝き続けているのはとても不思議なことだ。(日本歯科医学専門学校の図書館に職を得て、亡くなるまで勤務していた)
いや、北園の前ではもはやプロ、アマチュアでの線引きは意味がないかもしれない。
なにしろその実力はプロの線をまたぐことができたのではなく、プロの中でもトップレベルの域で常に活動していたのだから。
北園の作品群を見渡すとそこにしっかりと確立された世界観をみることができる。
装丁について言えば、おおよそ「文字+何かひとつの要素」で構成されていて、
余白を生かした緊張感のあるデザインからは、北園とモダニズムの出会いがいかに幸福であったのかよくわかる。
日本的な淡白な美意識とモダニズムの邂逅が、ひとつの世界観をつくっているのは間違いないだろう。
「私の『理想の装丁』というものは、必ずしも、私個人の独創的なデザインの上のアイディアを反映しているという意味ではない。それは、ながい間、装丁の仕事をしてきたデザイナアであるならば、当然に行き着くところのぎりぎりのパタアンである。では、それはどういうものなのかと言えば、ただそこには、その書物の著者名と書名があるばかりであるといったようなものである。私が考えている書物の装丁の理想は、そういうものである。––後略」 北園克衛「装丁を感覚する」『朝日出版通信』4号より
北園は自己表現を目的としていない。
そのことは「行き着くところのぎりぎりのパタアン」が
「その書物の著者名と書名があるばかり」であるという箇所からもよく解る。
最高の表現とは自己以外の「価値がある何か」が表現されているということを、北園は確かに知っているのだ。
概して芸術はいかに自己を表現するかに執着しやすい。
しかし感動を促す作品は作家の自己や自我とはかけ離れた場所にある。
自我が照らす明かりの先に真理が見えた時に人は感動するのであって、方向性を指し示すだけでは、
そこに見るものは作家の個人的嗜好でしかないと思う。
赤色が好きな画家が赤を多用する作品を制作したとしても、その嗜好には意味はなく、
赤を通してどのような真理が見えてくるかと言うことに価値があるのではないか。
そのことをアカデミックに頭で理解しているのではなく、実践から導きだした答えとして身体で理解していることが
北園が現在でも輝いている理由なんじゃないかと感じた。
亡くなる直前まで発行し続けた機関誌『VOU』。全160号すべてのデザインを北園が手掛けた。
同じタイトルでこれだけ違った表情をつくれることにも脱帽してしまう。
今週末まで世田谷美術館で北園の作品をまとまって見れる展覧会を催しています。貴重な機会なので是非。
橋本平八と北園克衛展 異色の芸術家兄弟 世田谷美術館
~12月12日
図版出典:『橋本平八と北園克衛展』より
※この記事は2010年12月に投稿した記事の再掲載です。展示は現在は行っておりません。
過去のデータベースにアクセスできなくなったので一部加筆修正して掲載しています。
※和火やってます。
※作家活動やってます。