すいせい

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デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです

身体性の書4

2024.11.30

おそらく誰にでも、手放すことができずにいつもそばに置いておきたい本があるだろう。

 

読み込むうちに血肉化していわば自分の身体の一部になったとでも言うのか。
「身体性の書」ではそんな本たちについて語ってみたい。

 

第1回はこちら

第2回はこちら

第3回はこちら

 

『はなしっぱなし』上下巻 

五十嵐大介

 

 

初めて来たがこの場所を知っている

 

 

この漫画を読むと、足下に強い潮流を感じ、遠くへと運ばれていることに気付く。
圧倒的な物語の力によって、引っ張られていく先はとても不思議な場所だ。

 

そこには時間がない。

過去であり、未来であり、一瞬が永遠であり、永遠が一瞬である。

 

そこには大きさがない。

マクロであると同時にミクロでもあり、ミクロであると同時にマクロでもある。

 

そこでは意味を持たない。

形は形のまま、色は色のまま、まだ意味というラベルは貼られていない。

 

そこには生死がない。

生と死は対立するものでなく、等価なものとして存在する。

 

しばらくたたずんでいると、この場所を知っていることに気付く。
初めて来たが、世界のありようには馴染みがあるのだ。

 

ここは自分に一番近く、一番遠いところ、潜在意識の奥底。

 

シャーマニスティックと言ってしまっていいかもしれない短編の数々は、
現代のお伽噺と表現できるだろうか。

 

世の中のお伽噺はいにしえから伝えられるものが多く、
自分との距離を感じる場合があるが、ここでは時代背景をあえて現代に設定することで、
そういった種類のファンタジーが現代でも力を持ちうることを示している。

 

動物と話ができたり、精霊が見えたりする。さまざまな想像上の生き物も登場する。
象徴的だったり、隠喩的だったり、直喩的だったりするが、いろんな角度から解釈ができる。
不可思議な話ばかりだけれど、なぜだかすとんと腑に落ちる。頭ではなく、身体で理解できる。

 

カイエ・ソバージュ』でも示されるように、人が自然や動物との対称性を獲得するには、
バランスがとれた「善なる物語」が必要となってくる。

 

洞窟のなかで、火を焚き、そのまわりにひとびとが集まり、シャーマンから出る言葉を待つ。
それは精霊の言葉でもあるし、生き物の代弁でもあるし、自然からの予言であるかもしれない。
かつて人々はそのように関係性を保っていた。

 

この漫画では、現代では聞くことができなくなった声をふたたび耳にすることができる。

 

五十嵐はいまを生きるシャーマンなのだ。

 

 

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砂漠へ 終

2024.10.31

夜もまだ明け切れぬ内に砂漠のテントを出発し、ラクダの背中にしばらく揺られていると、

息を呑むような朝焼けとともに、徐々にサハラ砂漠が姿を現していく。

ぼんやりとしていた稜線が少しずつはっきりとしてきて、遠くまで見渡せるようになった。

砂漠を別の惑星などと称することがあるが、確かに普段自分がいる地球と同じとは思えない。
陳腐な表現だなあと思っていたが、同じように感じてしまう自分がいて笑ってしまった。

 

圧倒的なまでの抽象性とでも言うのだろうか。

細かい石英の粒のみで構成される世界を前にすると、
自分という存在の具象性さえ吸い込まれていくように感じる。

 

ここでは自然の表出の仕方が見事だ。

砂という単一の素材で構成される世界では、風がつくりだす形が明確に現れる。

普段暮らす日常は混沌としていて、風が持つ造形力がはっきりしないが、砂漠だとそれがわかりやすい。

加えて砂の粒子がとても細かいので繊細に現れる。

つまり砂漠では風が可視化されるのだ。
虹や雪の結晶やオーロラなどと同じように、自然現象を純粋に楽しめる場所だと思う。

あまりにも精緻な風紋は、紙の上に書かれた数式のようにも見えてくる。

 

砂漠近くの街のメルズーガには昨日の夕方に着き、
そこからベルベル人が手綱を引くラクダに乗り、テントまで数時間かけて移動した。

砂漠はベルベル人の領域だ。もともと北アフリカの平野部の先住民だったが、

7世紀頃に侵略してきたアラブ人に追われ、砂漠に住むようになったらしい。

 

ここから砂漠に入っていった

 

ラクダは思ったより快適だった。馬などとは違い、
足の先端にぷっくりとした肉球が発達していているので、振動が少ないからだ。

性格も穏やかだし、昔から砂漠の交通手段として選ばれるのがよくわかる。
キャラバンは盗賊に襲われたり、砂嵐にあったり、咽の乾きに苦しんだりと、

いろいろと大変なこともあったと思うけれど、ラクダに乗る部分だけなら、
かなり優雅な旅だったに違いない。それぐらい気持ち良い。


 

この快適さがかつての交易を促し、文明を発展させていったのだと思う。

テクノロジーなど何でもそうだが快適なものだけが時代を変えて行くのだ。

 

砂を手に取ってみると液体のようにスルスルと指の間からこぼれ落ちて行く。

流動性が高い砂は頭髪や耳の中など身体のあらゆる部分にまとわりつき、
生活の様々な部分にも浸透していく。
iPhoneは半日でケーブルがささらなくなった。


 

塩害ならぬ砂害なのか、砂漠に入る際は精密機器をビニールで覆うのは必須らしい。

カメラはもちろん覆う。
砂丘も一見カタチを保っているように見えるが、柔らかく掴みどころがない。

試しに小山ほどの砂丘に登ろうとしてみたが、
三歩目くらいで足が取られて動けなくなってしまった。

砂に対する認識がだんだんと変わって行く。

 

夜はタジン鍋の煮込み(ちょっと飽きてきた)+ホブス(平たいパンみたいなもの)と
ピラフ(美味しかった)を食べた。

ロウソクだけが灯されたテントでとる食事は、なかなか雰囲気がある。
料理はむろんベルベル人がつくる。

 

タジン鍋は砂漠のような水が貴重な地域が発祥らしく、

食材の水分だけでいかに効率よく煮込むかを目的に考案された料理法だ。

当初は合理性が目的だったかもしれないが、食材の持ち味を生かすことにも繋がるので、

現在ではむしろ美味しく食べるための料理法として世界に広まっている。

タジンによく合わせるクスクスも必要最少限の水での料理が可能である。

お湯でも戻せるが、本来は煮込みの上に置き、その蒸気で蒸し上げる、
これもまたとても合理的な方法だ。

 

砂漠の料理を食べながら、なぜ水が少ない地域なのに煮込みがあり、
日本のように湿潤の国にはないのだろうと考えていた。

水がある方が煮込むという発想になりそうだが、
伝統的な和食でそのようなものは聞いたことがない。

長くても数十分煮込む程度で、だいたいはさっと煮たり、焼いたりしたものが多い。

シチューのように数時間煮込んだり、
中国料理のようにラーメンのスープをとったりすることはなかった。

例外的におでんがあるが、かつてどれくらいの時間煮込まれていたか正確なところがわからない。

比較的時間をかける関西のおでんは関東煮(かんとだき)とも呼ばれ、

そもそもが中国料理をルーツとしていて、名前も広東煮(かんとんだき)からとったという説もある。

 

食事の後、たき火の周りで演奏が始まった

 

煮込まない理由として日本では鮮度を重視することが上げられるだろう。

食材の新鮮さを生かすのは和食の基本で、過剰に手をかけることを好まないからだ。

しかしそれだけで煮込みという手段を捨ててしまうとは考えにくい。

中国から煮込みという料理法は伝わったはずだから、
知らなかったわけではなく、広まらなかったのだ。


 

そのことにはおそらく日本人の好きな「旨味」が関係していると思う。
鰹節や昆布などがあったので、長時間煮込む必要がなかったのではないだろうか。

旨味が豊富に含まれている鰹節や昆布からは手軽にいいスープがとれる。

そのような国では時間をかけて煮込むメリットは少ないだろう。

 

ラクダを降りて見晴らしがいいところから周りを見渡す。

 

砂漠の風景は自己相似的だ。
離れた場所の風景を切り取って持って来ても違いはわからないだろう。

足下にある小さな砂の山も背丈を超える大きな砂丘も、似た様な形をしている。

なので遠くが遠くに、近くが近くに見えない。
ここではスケールさえも交換可能なのだ。

 

自己相似的な交換可能さは徐々に感覚を麻痺させていく。
位置的な感覚、スケール的な感覚、時間的な感覚。

ところどころに小動物の足跡や枯れ草のようなものが、

交換されることにあらがう唯一の個性みたいに点在しているが、
圧倒的な麻痺の前では力を持たない。

 

麻痺することは迷ってしまった人には命取りだが、旅行者としては気持ちがいい。
むしろこういう感覚を求めて旅をしているのだと思う。

 

キャラバン隊からはぐれてしまい、朦朧とした意識の中、何日もさまよい歩いている。

風紋は美しさの秘密を解き明かす方程式だと、砂漠が語りかけてきた。

読み解くと確かに普遍的な美しさが証明されている。
これは世紀の大発見だと叫びたくなるが伝える相手がいない。

 

そんな完全に麻痺してしまった自分を、砂漠にしばらく想像して、列に戻って行った。

 

<終>

 

※この記事は2013年に投稿したモロッコの旅行記の再掲載です。

 

第一回目はこちら

第二回目はこちら

第三回目はこちら

 

 

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砂漠へ 2

2024.10.28

一日目はダデス渓谷にあるホテルに泊まった。


 

このホテルはいまいちだったけど、ここで出会った40歳overの韓国人大学院生との話が面白かった。

ダブリンで経済学の博士号を終え、帰国前の最後の旅でヨーロッパを回っている。

韓国の大学で化学を専攻していたけれど飽きてしまって、経済学を勉強するために留学してみた。

いままで一回も働いたことがなくてやばいと思ってるんですよ。

みたいな会話で、しかしそういう割にはあんまり焦ってる様子もなく、

たぶんかなりのエリートなんだろう。育ちも良さそうでとても優しい。

中国でもそうだったけど、個人レベルでは反日を感じたことはない。

イメージが操作されているで、そもそも日本のことをそんなに気にしていないと思う。


 

夕食はツアーメンバーで談笑しながらとる。英会話にストレスを感じなくなってきた。

旅行の初期はまだ英語が身体に馴染んでないけれど

数日経つと頭の回路が切り替わるようで、だんだんとしゃべれるようになる。

話してる最中に単語が浮かばないからと言って、いちいち辞書なんて引いてられないので
別の簡単な言葉で説明できるようになるのが、ひとつの英会話のポイントだと思う。

そもそも日本語を他言語に完全に置き換えることはできない。

あくまで近似値を探す作業が翻訳の本質だとすると、単語を知っているというよりは、
どれだけ近い表現ができるかがむしろ重要ではないだろうか。

 

翌朝は6:30に出発。(一番上の写真は出発前)
しばらく進み、眺めのいい場所で休憩をとった後に事件が起こった。

 

メンバーの中にアラビア系の親子(母と娘)がいて、

彼女らは他のメンバーと特にコミニュケーションするでもなく、食事の時も二人だけで済ませていた。

バスに乗る際も他の人を避けるように
ドライバー横の一番前の席を陣取り、会話をすることはなかった。

そもそも英語があまりしゃべれないようで、

アラビア語を解するモロッコ人のドライバーとだけ話をしている。

 

事件は、彼女らがずっと座っていた席がフランス人カップルに取られたことが原因だった。

 

ツアー中は乗り降りする度に、好きな場所に座っていいという暗黙のルールがあり、

フランス人カップルは空いていたその席に座りたいと思ったらしい。

しかしそんなルールもその親子にはどこ吹く風である。

専有であったはずの自分達の席に、他の誰かが座ることは許されないらしく、烈火のごとく腹を立て始めた。

 

フランス人カップルに詰め寄る。一番左がドライバーで、通訳しているところ。

 

しかし特別料金を払っているわけじゃないので、誰でも座る権利がある。

フランス人カップルは全然悪くない。
とドライバーがなんど説明しても聞く耳を持たなかった。

 

すぐに諦めるだろうと、初めのうちはみんな高を括っていたが
30分しても納得しない。

それどころかドライバーに石を投げて、抵抗している。

 

石を投げる。

 

みんな心配して見守る。

感心したのはフランス人カップルの姿勢。そんな状況でもまったく席を譲ろうとしない。

日本人であればみんなに迷惑をかけてしまうからと
早々に席を明け渡す気がするが、そのような軟弱な発想は二人の頭にはないらしい。

その姿勢には他のメンバーもいたく感銘を受け、
「お前らを尊敬するよ。絶対にそこを動かないでくれ」と彼らを全面的に支持するのだった。

平等な権利があることを微塵も疑わない彼らの姿勢をとても清々しく感じた。

旅行はこういうことがあるから面白い。

 

しかし1時間に及ぶ交渉も決裂すると、だんだんと不穏な空気が漂い始めた。

なんとなくだが「イスラム文化圏 vs 欧米」みたいな構図がそこには透けて見えるような気がした。

アラブ人親子はもはや席のことはどうでもよくなり、
彼女らの存在を受け入れないメンバーへの怒りへと変化しているように思えたからだ。

そんな中、フランス人カップルが席を明け渡した。

 

このタイミングで席を譲られても、
今度は人と人との対立の方が浮き彫りになってしまい、
もとの和んだ空気は戻ってこない。

 

とりあえず親子を先に席に座らせ、車外にいたメンバーも出発するために乗り込もうとした矢先、

まだ怒りが収まりきってないアラブ人の娘は素早くドライバー席に移動すると、ハンドルを握った。

 

バスを運転するつもりだ。

 

外にいたドライバーは大慌てで走るが間に合わない。

この行動には母親もさすがにびっくりしたらしく、
エンジンをかけようとする娘をなんとか制止している。

 

危機一髪のところでドライバーが駆けつけキーを抜いた。

 

現場はガードレールもない崖沿いの道なので、一歩間違えば大惨事になるところだった。

いや、あわよくばジハードとでも叫んで谷間に落ちて行くことを望んでいたのだろうか。

 

彼女のこの行動にみんな凍り付いてしまい、
一番前の席に座らせることを、
再度考え直さなければいけなくなった。
走行中にハンドルを奪われたら大変なことになる。

 

もう一台バスを用意してくれという人もいたが
現実問題として新しいバスがここまでくるには時間がかかりすぎる。

結局、彼女をドライバーの横には座らせないという案で終結した。

一番前には座るが、ドライバーと彼女の間には母親が座る。
納得しない人もいたが他に手段がないのでしょうがない。

 

綱渡りのような出発だったが、その後問題は起こらなかった。

 

 

フランス人カップルの行動は決して間違ってはいなかった。

平等な権利が脅かされたのを守ろうとしただけだし、
歴史的にもそうやって権利は確保されてきた。

しかし時に正当性にこだわり過ぎると、関係性がこじれてしまう。

ツアーというゆるい運命共同体の中でさえ、危ういところまで行ってしまうのだから
それが国際社会ならどういう事態を招くのか想像に難くない。

 

そういう意味で日本人の曖昧な行動は、あながち悪いことではないのではと思った。

曖昧さはなるべく関係性を維持しようという気持ちからくるのだろうし、

日本には正当性さえ捨ててしまえという意味の「負けるが勝ち」ということわざまである。

一見勝ったようでも、トータルで考えると負けていることが世の中には多いので

どちらがプラスになるか俯瞰的に考えようということだ。

今回の件は正当性も通せなかったし、関係性も悪くなったという一番悪い例にあたるのだろう。

 

曖昧さを技巧レベルまで高めることでうまく国際社会で立ち回れるのではないだろうか。

欧米人には決して真似できない(というか理解できない)曖昧力ってのも悪くないと思う。

 

まあ、そんなこんなでスケジュールがおしてしまい、砂漠に着く頃には夜になってしまった

 

<続く>

 

※この記事は2013年に投稿したモロッコの旅行記の再掲載です。

 

第一回目はこちら

第二回目はこちら

 

 

 

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砂漠へ

2024.10.15

面積的にはそんなに広くないが、モロッコの東側にはサハラ砂漠が広がっている。


 

サハラ砂漠はアフリカ大陸の1/3(!)を占めていて、

東はエジプトから西はモロッコまで続いているが、完全な砂丘は実は少なく

大部分は砂利ほどの大きさの石と砂などで構成されている。

モロッコ国境付近にあるメルズーガという街からは、完全な砂丘に行くことができるらしい。

 

今回の旅行で砂漠に行きたいと考えていた。

日本のような湿潤の国にいると、カラカラに乾燥した気候へのリアリティがなく、

砂と空だけで構成される世界に身を置いたら、どういった気持ちになるのか興味があったのだ。

あるいは砂漠をひとつの現代アートと捉えることもできる。
花粉を部屋に敷きつめるヴォルフガング・ライプのインスタレーションの様に、

広大な面積に砂を敷きつめる作品としての砂漠を見てみたかった。

 

モロッコはなんとなく赤茶けた大地のイメージがあるので、

砂漠ばかりが広がっているのかと思っていたが

実際に行ってみると木々も多く、都市部にいるかぎり砂漠っぽくもない。

いや、正確には乾燥した地域が主体の国ではあるが、

他のさまざまな気候も混在していると言うべきだろう。

例えば車でメルズーガからフェズという街まで北上すると、10分単位で車窓はめまぐるしく変わる。

砂丘はもちろん、岩肌がむき出しの地帯から、アトラス山脈の高山地帯、草原、森林までと、

変化に富んでいてとても一国の一季節の気候とは思えない。

数分前まで砂漠エリアだったのに、いまは森林にいるなんてことはざらである。

もし気候のサンプリングをするとしたら

こんなにうってつけの国もないんじゃないかという気がする。

この多様さはモロッコを訪れて驚いたことのひとつだ。
 

 


砂漠へはマラケシュからツアーで向かった。

自力で行くことも可能だが、世界遺産なども効率よく廻りたかったのでツアーを前日に申し込んだ。

2泊3日の日程を共にするメンバーは、フランス人とイタリア人のカップル、アラビア人の母と娘、

ポルトガル人カップル、ドイツ人の女子二人組、フランス人夫婦、カナダ人の女子二人組。

コミュニケーションは英語。ガイドもフランス語と英語なので、

楽しもうと思うと英語はある程度できたほうがいいかも知れない。日本人は僕だけだった。

 

ツアーバス@アトラス山脈の中腹。最上の写真も同じ場所から。その下はアトラス山脈を超えた後。

 

年齢層も異なるさまざまな国の人々と話すのは楽しい。

食事時などは大袈裟にいえば世界会議みたいなものだ。

意外なほど日本のことを他国の人は知らないし、他国のことを僕は知らない。

例えば今回ポルトガルの人口が一千万人ほどしかいないとはじめて知った。

なるべくたくさんの多様性を知ることは旅の目的のひとつだ。

それは視野が狭くなることを防いでくれる。

視野が広い人には抜け出せないほどの絶望は来ないだろうと楽観的に考えている。

関係ないが、外国人との会話の場合、年齢を聞かないのが面白い。

仕事のことを詳細に話しても年齢には及ばないのは

おそらく日本語には敬語があって、英語にはないからだと推測する。
 
初日の一番の見所は世界遺産にもなっているアイト・ベン・ハドゥという集落だろうか。

 

ここは『アラビアのロレンス』をはじめさまざまな映画のロケで使われているので

記憶にある人も多いかもしれない。

マラケシュからアトラス山脈を超えて数時間のところにある日干し煉瓦の集落で、

モロッコの他の多くの街と同じく防御のために丘につくられている。

このような要塞化された村はクサル呼ばれ、所々に銃眼がある塔がそびえ立ち、

頂上には見張り小屋がある。現在でもまだ10人ほどの家族が住んでいるが、

ほとんどは集落の脇を流れる川(乾期なので干上がっていたが冬場は水深2mにもなるとのこと)の

対岸にできた新しい街に移ったらしい。

この集落は離れて眺める方がいい。家の内部には入れないし、

例によって窓は小さいので、歩いているだけでは特にエキサイティングではない。

近くで見るとかなり傷みが進んでいるところもあり、修復している人を見かけた。

 

風が強い頂上からは、荒涼とした大地をかなり遠くまで見渡すことができる。
確かにこの見晴らしなら敵をすぐに発見できるだろう。
川の跡にうっすらと緑がある以外は草木もない乾いた山や平原が広がっている。

 

もしここで生まれていたら何の仕事をしているのだろうと想像する。
モロッコの識字率は50%ほどらしい。失業率も20%を超えているので、
昼間からぼーっとしている男達を目にすることが多い。
別にモロッコに限らず、ベトナムや中国でもそういう男はよく見かけた。
(なぜか暇そうにしている女性は見かけない)
こういうのを見ていると、勤勉に働くこと(つまり日本人がいつもやってること)って
グローバリズムが生み出した幻想なのではと思ってしまう。
識字率や失業率やGDPはグローバリズムや資本主義というものさしがあって初めて成立する。
グローバリズムはひとつの必然かもしれないが、問題はそのものさしで計れないものに
価値がなくなってしまうことだろう。
僕にとって暇そうにしている男達を見るのも多様性を知ることのひとつだ。

 

アイト・ベン・ハドゥを見終わるとちょうどお昼なので、新しくできた街の方で昼食をとる。

羊のタジン鍋とクスクスを選ぶ。モロッコはイスラム圏なので豚肉は食べず、

それ以外の肉(ラクダなども)と野菜をタジンで煮込んだ物をメインとすることが多い。

海に面しているので魚の煮込みもある。

モロッコ料理はもっとスパイシーかと思っていたが、わりとあっさりしていて

日本人の味覚には合う気がする。タジンで香辛料を使ったものには遭遇しなかった。

 

ハマったのはフェズという街で食べたサンドイッチだ。
ホブスと呼ばれる平べったいパンなどに挽肉やソーセージを挟んで食べる。

 

ケースから好きな具を選ぶ。おすすめは?と聞くと、全部混ぜたやつというのでそれにした。

羊肉のミンチ、レバー、ソーセージ、鶏肉、タマネギなどを混ぜながら炒めてパンに詰め、

トマトソースをかける。トッピングにオリーブ。美味しすぎて思わず声が出てしまう。

 

エスカルゴはくせがあり全部食べれなかった。

 

他に印象に残っているのはクミン玉子。

夜、フェズの路地を歩いていると道端におじいさんが座り玉子をむいている。

 

これはなんだ?と並んでいるお客に訪ねると、とにかく食べてみろと言われた。
温泉玉子くらいの柔らかさの玉子を、殻の一部分残してむき、
そこに粉を振りかけて渡してくれる。いまにもこぼれ落ちそうなのを受け取り、
ひとくちで食べると玉子とクミンと塩が口の中で溶け合った。
おいしい料理とはつねづね化学変化だと思っている。AとBを一緒に調理し、別のCに変化させる。
変化がないとそれぞれの食材をただ食べるだけになってしまう。
そういう意味でこの玉子料理は確実に別の何かに変化していた。

 

ラマダン開けによく食べるハリラというスープはやさしい味。これもスパイスは使っていない。

 

エスカルゴはくせがあり全部食べれなかった。

 

ミントティは甘い。宗教上禁止のアルコールの代わりとしてモロッカン・ウイスキーとも呼ばれる。
モロッコ料理は素材の味を大事にし、手を加え過ぎないという意味では和食に近いのかもしれない。

おおぶりのじゃがいもとにんじんが煮込まれたタジン料理などは
肉じゃがなんじゃないかとひそかに思っている。

 

<続く>

 

※この記事は2013年に投稿したモロッコの旅行記の再掲載です。

 

第一回目はこちら

 

 

 

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台湾の旅行記(というほどでもないですが)をアップしたことに触発されて、
以前モロッコ・スペインを旅行した際に書いた記事を再掲載したいと思います。
モロッコ・マラケシュから陸路でスペイン・バルセロナまで、一部飛行機も使いましたが
2週間くらいかけて陸路を移動しました。

4つの記事を10月中にアップ予定です。

 

以下本文

 

 

昼過ぎには目的地のモスクに着いている予定なのだが、時計は14時を回っている。
左手から来たので、この先の大きな通りを進めば目的地のはずだ。
しかし通りはすぐに行き止まりになってしまった。何度同じようなことを繰り返しているのだろう。
ガイドブックに、モロッコのメディナ(旧市街地)はまるで迷路のようだと書かれていても、
地図さえあればなんとかなるだろうと高を括っていた自分が甘かった。
目的地はおろか宿まで戻る自信もない。

 

ふと、時空間がねじ曲がった迷宮という呼称が浮かんでくる。

かつて映画で見たような、あるいは夢の中で経験したような、

どうやっても目的地にたどり着けない迷路に迷い込んでしまったようだ。

もちろん現実に時空間がねじ曲がっているわけではないが、

高低差がある通りは細かく折れ曲がり、分岐し、広くなったり狭くなったりを繰り返しているので、

方向感覚や空間を認識する感覚が少しずつ麻痺して行く。

 

現在地がわからないので、メディナでは地図は機能しない。

ランドマークとなる特徴的な建物は少なく、似たような印象の通りばかりが続く。

居場所を把握する一番簡単な方法として人に訪ねる手段もあるが、それも有効ではない。

全ての人が英語で書かれた地図が分かるわけではないし、

例え公用語のアラビア語で書かれていたとしても、

そもそも地図を理解するには、地図を読めるリテラシーが必要なのだ。

共通言語としての地理が共有されていない場所では、

地図自体が機能しないことがあるということを、今回モロッコに来て初めて知った。

あるいは親切に教えてくれる場合もあるかもしれないが、

その情報が正しいかどうかはわからない。

それに——これは実際に経験したことだが——意図的にウソの情報を掴まされることもある。

 

通りにはさまざまな物が売られている。

それらの多くが、元の空間がどういう形なのかわからなくなるくらいの密度で並んでいて、
その混沌さも観光客を迷わせる。

商品のほんの一例を書き記すと、野菜、果物、生きている鶏や鳩、羊肉、魚、スパイス、

パン、お菓子、衣料品、ドライフルーツ、陶器、革製品、電気機器、編みかご、

絨毯、アクセサリー、銀細工家具、木彫の扉、アルガンオイル、石鹸、楽器、薬など。

工房もあり、ハンマーを打つ音があたりに大きく響いている。

飲食店から食材や料理の匂いが漂い、通りに地層のように溜まっている。
小規模の店舗が密集するこの広いエリアに、一体どれくらいの数の店が存在するのだろう。


 

道端でミントの束を売っているおじいさんの脇を、重そうな荷物を背負ったロバがすり抜けて行く。

モロッコではロバをよく見かける。ペットではもちろんなく、家畜として。

確かにこの入り組んだ路地に荷物を運ぶには、ロバ以外に適した手段はないように思える。

 

マラケシュやフェズなどのメディナと呼ばれる旧市街地は、
碁盤の目のように通りが交差する街とは全くの正反対のコンセプトでつくられてきた。

後者が効率がよい導線を目指して計画されているとすると、

前者は逆に効率が悪い導線を目指して計画されている。

効率が良い導線をつくれなかったのではなく、計画的に効率を悪くしている。

歴史的に侵入した敵の方向感覚を狂わせ、目的地に着かなくさせる必要があったからだ。

街自体も要塞都市さながら高い城壁に囲まれる。

 

どうやれば人を迷わせられるかこの街を勝手に分析すると、

 

1.まっすぐな通りはつくらない 


2.ランドマークは置かない 


3.画一的な通りにする


4.高低差をつける 


5.とにかく路地をたくさんつくる 

 

などだろうか。

 

1はまっすぐと思わせておいて、気付かないように少しずつ湾曲させると効果がある。

4は複雑な路地に高低差が加わると何倍にも難しくなる(日本いるとあまり経験しないが)。
これだけ揃うと方向感覚に自信がある人もそうでない人も、等しく迷うのではないかと思う。

 

基本的にメディナの通りには窓は少なく、あったとしても高い位置にある。

つまり通りから人々の生活を伺い知ることはできない。

無愛想な土壁で覆われているので内部にも同じ印象をもってしまうが、

実際、家の中は驚くほど豊かだ。

僕がマラケシュで泊まった宿の内部は、光がたっぷりと入る吹き抜けを中心に、

精巧なレリーフ、細やかなタイル、塵ひとつ落ちてない床、

咲き誇る花々などで調度が整えられていた。中央には水が湧き、花が散らしてある。

まるで内部と外部に発生する落差を楽しむかのようだ。

敵が攻めて来た時に外部がみすぼらしい方が、家の中まで攻め入られる可能性が低いからだろうか。

 

リャドと呼ばれる民家を改装した宿の内部。イスラム文化の豊かさがよくわかる。

 

 

立ち止まっていてもしょうがないので歩みを進めると、客引きに革製品の店へと勧誘された。

モロッコでは一般的に値段は交渉で決まる。

商品にはほとんど値札が付いていないので、これはいくらですか?とわざわざ聞かなければいけない。

買い物の度に交渉するのは面倒くさいなあと最初は思っていたが、

この交渉には価値判断の本質が隠されているようにも感じてくる。

定価がある国では、物の価値は値段によって決まることが多い。

意識的にも無意識的にも値段から逆算して価値を判断している。

しかし定まった値段がない場合、価値を決めるのは自分しかいない。

商品が自分にとってどれだけの価値があるか、

どれだけお金を払ってもいいかという基準を持たないと、納得が行く買い物がしにくい。

逆にしっかりとした価値基準さえあれば、払い過ぎても納得できるだろう。

価値に対してコンシャスになれるのは悪いことではないと思う。


この店では革製のサンダルを購入。

 

どうやっても着かないことにはイライラするが、

もしかしたら、迷うことの方が正しいのではと思い始める。

この街は人々を迷わせることを目的に、とても長い時間をかけて進化し続けてきた。

逆にすんなりと目的地に着ける方がコンセプトに沿っていないのではないか。

ディズニーランドに行ったら楽しむのが正統な行為なのと同じように、

ここメディナでは迷うことの方が正統な行為かもしれない。

 

迷う人もそうでない人も等しく迷えるという意味でこの街のサービスは徹底している。

もちろんサービスを受けたくない人もいるだろう。

そういう人はガイドを雇うのも手だが、正しい経験も一度はお薦めする。

人を迷わせることに叡智を結集した街は、もはや現代ではエンターテイメントのひとつなのだから。


 

 

この記事は2013年11月19日に投稿しました。

 

※基本的にメディナは子供も訪れる安全な場所ですが、
 夜間の一人歩きは危険を伴う可能性がありますので自己責任でお願いいたします。


※写真はマラケシュとフェズのメディナを混ぜて構成しています。

※歴史がある分、マラケシュよりもフェズのメディナの方が面白いと僕は感じます。

 

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