デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです
金継ぎと湿度文化

趣味というよりは病気なのではと諦めている自分の性癖のひとつに器蒐集がある。
もともと食べることが好きで、よりおいしく食べるためには、いい器が必要で色々と集め出した。
ちょっとした料理でも、それなりの器に盛りつければ、 さまになる経験はどなたでもお持ちではないかと思う。
大きく捉えると、食べることは五感の内のひとつだけを使うのではなく、
自分が置かれている環境の中で味覚も含めた他の感覚も総動員して楽しむ体験だと考えている。
なのでどんなにおいしい料理でも、適切でない環境や文脈で食べると適切でない味になってしまう。
6畳一間のアパートに置かれた小さな机で、名シェフが腕をふるった料理を食べてもおいしくないだろう。
キャンプという状況で、料亭の吸い物を、アルミのカップに盛りつけても充分に楽しめないだろう。
6畳一間やキャンプが悪いわけでなく(キャンプにはカレーのほうが合うだろうし)、
味覚を主体とした総合的な体験には、他の感覚も適切な状態であることが求められるからだ。

もう閉店してしまったスペインの名店「エル・ブジ」は 既存の料理を一度解体し、再構築する前衛的な手法で知られていた。
「ロズマリー風味の肉のロースト」を供する際には、 肉には香りを付けずに焼き、
ロズマリーから抽出したオイルを 客の周りにスプレーすることで料理を完成させる。
風味さえも再構築する大胆な手法にエル・ブジの神髄をみたような気がした (落語にもうなぎを焼く匂いでご飯を食べる話がありますね)。

器は環境を構成する一番重要な要素で、いい物だと料理が格段にアップする。
日本の器の多様性と品質の高さは、器蒐集をする者にとって恵まれた環境であろう。
本格的という観点で洋の東西を見比べてみると、西洋では皿をセットで揃える必要があるが、
日本ではその必要はなく、出自や脈絡を超えた集め方ができる。
センスさえよければ和懐石の席で年代と窯元が違う器を組み合せても問題なく
むしろその組み合せにこそ妙があると言うべきかもしれない。
このことは日本に於けるオリジナルな器文化が育つことに大きく関わっているし、
もしこの自由度がなければ、 現在でもこれだけ多様な窯元が日本に存在することはできなかったと考えている。

そろそろなんだかタイトルと本文が違うなと思い始めたかたもいらっしゃるだろう。
ここまでは自分の趣味を正当化するための言い訳で、 つまり日本にはいい器がたくさんあるので買いすぎて困ってしまうのだ。
民藝中心だけれども旅先でローカルな窯元があれば必ず立ち寄るし、 いい物であれば個人銘でも買い求める。
骨董の領域にも興味はあるが、権威や能書きとは無関係な分「民藝」の方が純粋に楽しめると思う。
ただこの趣味の問題はどんなに大事にしていても割れてしまう点だ。
眺めるだけではなく、実際に使うことが僕の器の楽しみなので 気に入った物ほどよく使い、比例して破損率も高くなる。


もちろん「花は散るから美しいし、器も割れるからこそ価値がある」のだろうと思う。
割れる「はかなさ」が内在しているからこそ大事にし、慈しみ、後世へと残そうとする。
もっとも日本文化には割れてしまった器でさえも、再びよみがえらせる方法がある。
知っている人は知っている「金継ぎ」という技法だ。
この技法は再び使える状態だけを目指すのではなく、 壊れたことをポジティブに捉え、価値を高めることを目的としていると考えている。
欠けや傷を同色ではなく、素材とは異なる金や銀などで繕うのはそのためだ。
数年前から始めた金継ぎが最近ようやくモノになってきた。
<続く>
※この記事は2012年に投稿した記事の再掲載です。
過去のデータベースにアクセスできなくなったので一部加筆修正して掲載しています。
※和火やってます。
※作家活動のインスタやってます。
転がるデザインには苔が生えない
デザインとはやはり時代のものだよなあと、最近しみじみ実感している。
時代に即し、時代を映す鏡として存在する。
それがグラフィックデザインのあるべき姿だと思う。
いまだとネットやSNSの力が強くなっているので、それに合わせて変化する。
グラフィックといえば歴史的に紙媒体との結びつきが強かったが、
スマホなどでブラウズする頻度が高くなり、モーション的な要素が強くなってきた。
ロゴやマークなども動くことが多くなり、今後はそういったことが前提の
アイデンティティに移り変わっていくのだろう。
時代がわからなくなったら、時代について行けなくなったら、デザイナーはやめどきだと思う。
逆に言えば、世の中心に近い位置で日々暮らしているひとは現役でいられる。
ときどきデザイナーは若いひとの感性がないとやっていけないと言われることがある。
これは半分あたっていて半分間違っていると思っている。
時代からずれないという意味では若いみずみずしい感性はやはり必要だと思う。
でもそれは年齢のことでなく、姿勢のことだ。
いつまでも好奇心を持ち続け、フットワークが軽いひとは歳をとらない。
巨匠と呼ばれるデザイナーの多くは、みずみずしい感性を保ったまま、
円熟味というか、年齢を重ねてしか得られない表現の奥深さを身につけている。
デザインはとまってはいけない。転がらなければならない。
転がるデザインには苔が生えない。
香港









香港に行ってきました。
文化大革命を免れた痕跡を探しに行ってきましたが、イギリス領の時期も長かったことが影響しているのか、
自分が求める中国的な要素はあまり感じませんでした。
繁体字はかろうじて確認できますが、大都市はどこも似てきてしまうのか、
かつて訪れた中国の奥地のほうが、破壊されたとはいえまだ残っている印象でした。
ただ街としては魅力的で、どこか南国のエキゾチックな雰囲気が漂い、美食、骨董など楽しむことができました。
東京よりも自然が残っている感じもあり好きなタイプです。
特筆すべきはやはり食。呆れるほど美味しかったです。
手の込んだのももちろん美味しいですが、期待せずに頼んだブロッコリーの蒸し物などもに驚かされました。
ただシンプルに蒸されているだけなんですが火の通し方が絶妙。
青臭さはないのにきちんと食感は残っていて、ああ、いままで何百ものブロッコリーを無駄にしてきたと思いました。
春巻きなども見た目は日本のと変わらないのに、皮が幾層にもなっていることで別の食べ物のようでした。
再び訪れたいという気持ちになる国ってそれほど多くはないのですが、香港はいつかまた食事を堪能しに行きたいなと思いました。
◎本物とはなにか

骨董街で写真の影青(インチン)をいくつか買い求めました。ふだんは高いものはあまり買わないようにしているのですが、
まあ香港の記念にいいかなと少し奮発してみることにしたのです(日本で買うともっと高いってのも理由のひとつにありましたが)。
しかし本物である保証はどこにもありません。
影青はもともと宋の時代につくられた古いものです。人気があるのでフェイクが出回るのですが、
これがよくできていて、自分の眼力ぐらいではオリジナルとの差はわかりません。
最近つくられたものと比べるとおよそ800年くらいの年代の差があり、値段もだいぶ違います。
手に入れた器はどこまでも軽く薄く、刻まれた紋様には美しい淡青な影を落としています。
帰国して料理を盛り付けていますが、十分に楽しめており、ならばそれでいいのではと思うのです。
例えばもし2000年後という長いスパンから振り返ってみると、多少の完成度の差は指摘されるかもしれないですが、
オリジナルに近い扱いを受けるのではないかと思います。なぜならば本物に匹敵するくらいのクオリティだからです。
低ければ話にならないですが、ここまで肉薄していると、影青の第二製作期につくられたという捉えられ方になっても
不思議でないのではと考えてしまいます。
画業の場合は画家というオリジナルを生み出す絶対的な存在がいるため、フェイクとの線引きは明確です。
しかし窯業の場合はそういった制限が希薄なため、オリジナルだけがいいとは言い切れない部分もあると思います。
レベルが低いオリジナルと、レベルが高いフェイクを比べてみて、フェイクのほうが勝ることもありそうだなと。
文化はお互いに触発し影響し合いながら、発達していくものだと考えています。
著作権などと言った概念は近代になり個が確立されるとともに出現するようになりましたが
人類の歴史のなかではそういったものがなかった時代のほう長かったわけです。
中国の南宋の窯で焼かれている青磁がとても素晴らしいから、韓国でも真似して焼いてみようとなり、高麗青磁が生まれました。
中国には中国の、韓国には韓国の青磁の良さがあり、優劣はつけられないとすると(実際につけられない)、
偽物は存在しないという考えかたもできるかもしれません。
本物とは一体なんなのか、あるいはフェイクとはなんなのか。
だんだん心の持ちようじゃないかという気もしてきますが、そのあたりを掘り下げてみるのも面白そうです。
などと偽物だったときの言い訳を飛行機のうえでブツブツと考えながら、帰国しました。
なにより薄いので、真贋よりも、無事に運べるかどうかに肝を冷やしましたが、割らずに海を越えることができました。
食にしろ、器にしろ、中国の文化は偉大です。行ってみるとつくづくそう思います。
いまは欧米が覇権を握っていますが、長い間世界の中心は中国とインドの間くらいにあったとされており、
最近その軸が少しづつ戻りつつあるなと感じています。
雑器も購入。良心的なお店だったので左はフェイクだと断言してました(フェイクでも問題ない)。
※和火やってます。
※作家活動のインスタやってます。
マテリアリズムとは何か
今回家を建てるにあたって素材感を強く意識したということはここに書いた。
また桂離宮がモダニズムとは違う概念ではないかということも、以前中国から帰ってから考えていた。
素材を活かすことは、日本的な表現と密接に結びついており、建築だけでなく、
グラフィックデザインや工芸、料理の分野においても切り離すことはむずかしい。
いや、むしろ素材を活かさないで日本的な表現などできないのではないだろうか。
ややもするとひとは手を加えたくなる。
それは素材云々のまえに、プレーンな状態は、なにも仕事をしていないという意識に繋がり、
コミュニケーションとして成立しにくかった背景があるのだと思う。
世界的に見ると、装飾などが施してあるほうが売り買いのときにもお金を取りやすいし、
プレゼントするにしても、ああこんなに手が掛かった物をもらったと納得されやすい。
権威を示す際にも装飾があるとわかりやすいだろう。
しかし日本という非常に高いコンテキストのなかでは、
阿吽の呼吸のようなコミュニケーションが存在していて、その密度の高さが装飾的なものを遠ざけていたと考えている。
自然が豊かなことも強く影響していて、島国の独自の文化と環境が掛け合わさって
素材をエクストリームに尊ぶ、世界的にみても珍しい価値観が育成されてきた。
一方のモダニズムは基本的に機能性を求め、ミニマリスティックなアウトプットを目指す。
素材感が邪魔とまでは行かないが、無機質なマテリアルのほうが機能優先の価値観により合致する。
例えばグラフィックデザインで言えば、いわゆるゴシック体がモダニズム的な表現と結びついてきたのは、
書体の構成要素であるセリフが必要ないという、機能主義的な側面から判断されたからである。
ゴシック体の黎明期にはその無味乾燥さに拒否感を示すひとも多く、グロテクス体と揶揄することさえあった。
もちろん素材を生かしたモダニズム的表現もあるとは思うが、装飾的なもの伝統的なもの地域的なものなどを遠ざけることによって
モダニズムが成立しているとすると、素材というファクターはあまり重要視されて来なかったのではないだろうか。
桂離宮をはじめとする日本の建築様式はモダニズムとは異なり、素材の良さを表出させ、
顕在化させるために余計な要素を削ぎ落とす、素材主義=マテリアリズムなのではないかと思っている。
建築物に限らず、日本のデザインはシンプルとカテコライズされることが多いし、
ブルーノ・タウトも桂離宮をモダニズム建築としてヨーロッパに紹介したようだが、実際のところは似て非なるものではないだろうか。
日本刀と寿司と桂離宮は並列に比較することができると思うし、
コンクリートを主体的に扱う安藤忠雄が、日本から出現したのもこのマテリアリズムがあるからだと考えている。
週末から香港に旅行に行ってきます。文化大革命を免れた中国に興味があり、昨年は台湾を訪れました。
香港(厳密に言うと香港島)も本土にありながら直接的な影響を受けていないとされ、
数千年続いた中国の歴史が残っているかどうか見て来たいと思います。
※和火やってます。
※作家活動のインスタやってます。







