すいせい

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デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです

エコとセコさ

2021.03.31


最近よく考えているのがエコとセコさ。
 
サスティナビリティの観点からは、なるべく無駄をなくすほうが望ましいし、プラスチックゴミはきちんと分別されて、
適切に処分されるべきだと思う。マイバックの持参も基本的には良いことだろう。
 
ただエコは良くてもセコいのは嫌だなと気持ちの奥底で感じている。
 
エコ的な観点を突き詰めていくと、慎ましやかになっていく。
まだ慎ましいのは良いとして、一回使ったラップは洗って再利用するとか、入浴後のお風呂のお湯で洗濯するとなると、
だんだんとセコいフィールドに入っていく気がする。
 
同じく考えるのは貧乏と貧乏くささの関係性。
 
貧乏はお金がない状態を指すが、お金がない=貧乏くさくなるかというとそうでもないし、
お金持ちでも貧乏くさい人はたくさん存在している(と思っている)。
 
効率を求めて、いつもコンビニでお惣菜を買い、プラスックの器に盛って食事をします、という人は
たくさんお金を持っていたとしても貧乏くさいなあと思ってしまう。
逆にお金がなくてお粥しかつくれなくても、丁寧につくり、美しく盛り付け、
時間をかけて優雅に食事をすれば、豊かではないだろうか。
 
「贅沢さとは無駄のこと」と言ったのは秋元康氏であるが、さすがその通りで、良い意味での無駄の存在が
日々の生活にささやかな楽しみや彩りを与えてくれ、ひいては贅沢さにつながるのだと考えている。
 
あさ一時間だけ早く起きて、仕事前にゆっくりと新聞を読む。
 
いつもは適当に焼いている魚を塩釜のオーブン焼きにしてみる。
 
一杯の珈琲を淹れるために湧き水を汲みに行く。
 
合理的に考え過ぎて、有益な無駄まで排除しようとすることが、セコさや貧乏くささに繋がるとすると
エコロジーに矛盾しない無駄を取り入れていければ、セコさも軽減されていくのではないだろうか。
 
例えば学生時代にお金がなかったときに、洋雑誌のいちページを封筒にし手紙を送っていたことがあった。
アイディアとセンス次第でリサイクル、リユースすることも魅力的になると考え、そのことは割と気に入っていた。
実際にセンスが良かったかはわからないが、少なくともセコくはなかったと思う。
 
一番上の写真は国宝で、割れた茶碗を金で継ぐという発想はエコでありながらセンスが良い。
むしろ継がれることで完全な形よりも価値が上がる場合もあるのが金継ぎの面白いところ。
 
環境や資源がいよいよ切羽詰まってきて、新しい局面を迎えつつあるが、
おそらく「贅沢なエコ」あるいは「有益な無駄を含んだエコ」みたいな発想から
次世代の新しい価値観が生まれてくるのではと最近よく想像している。
 
そして伝統的な文化を見るにつけ、日本人はそういうことがけっこう得意なのではとも感じている。
 
画像出典
『特別展 茶の湯』東京国立博物館
 
和火やってます。
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非常勤を務めている多摩美術大学の対面の授業がようやく先月から始まりました。
まだコロナは終息していないので、今後も対面で続けられるのかわからないのですが、
とりあえずいまのところ通常営業となっております。
 
教えているのはグラフィックデザインで、「Minor food campaign」と題して、
自分が好きなマイナーな食べ物を、学生にそれぞれブランディングしてもらっています。
水沢うどんでも、阿蘇高菜でも、ビリヤニでも、マイナーな食べ物なら何でもいいので、
自分で選んだモチーフをデザインの力によって認知向上、普及して行く内容です。
 
デザイナーの仕事は価値をつくることだと僕は考えており、
世の中では新しい魅力的な価値を生み出せる人のところに仕事が集まっています。
まだ世に知られていないマイナーである食べ物をどのようにプロモーションするのか、
そのことは価値をつくることに他ならず、将来的に仕事でブランディングをするのとなんら変わりはありません。
課題を通して少しでも価値をつくることのきっかけになればと思っています。
 
ただ課題としてはシンプルだと思うのですが、意外と力量が問われるようで、
どうやって進めていけばいいのか途中からわからなくなってしまう学生も出てきます。
一番多いのはデザインのイメージが湧かないケース。
 
デザインする場合はイメージ=到達目標がとても大事で
最終的なビジョンがないと、進めづらいですし、モチベーションも高まりません。
 
そういったイメージが湧かない場合はデザインがどういう環境におかれるか考えてもらいます。
価格や売り場などの周辺的な事実を決めていくと逆説的にデザインが決定されるからです。
 
よくよく考えてみると、自分でデザインする場合も
周辺的な事実から導き出されることが多く、完全にフリーな仕事ってあまりないんですよね。
例えばパッケージデザインの場合は少なくともどういう売り場に置かれ、
いくらくらいの商品かという情報がないと、さきに進みません。
 
つまりデザインは環境によって生み出される側面が強くあるのです。
 

では環境として一番大事な要素はなにかというと、やはり「時代」だと思います。
いまの時流の中で最適化されているかどうかが、デザインのファーストプライオリティではないでしょうか。
この傾向は広告の分野ほど顕著で、時代にフィットしていないと効果を生むデザインにはなりません。
もちろんただ流行りを追うというのではなく、流行りを知った上で、
こういうデザインはどうですか?と提案できることが僕は大事だと考えています。
 
次は価格とターゲット。これは概ねセットのことが多いです。
ターゲットによって価値観、所得なども異なるので、価格はターゲットによって決まってくるし、その逆もある。
概ねターゲットは絞った方が効果的なので、
マーケターに、世界中の学生とサラリーマンと経営者をターゲットにしますと言うとほぼ反対されるでしょうが、
iPhoneなどの先例があるので、その意見が全てではないと思います。
 
あとは売り場。商品と場がマッチングしているかが大事。
お客さんがたくさん来る場所ではなく、商品に興味がありそうなお客さんが来る場所が基本でしょう。
いまはインターネットの影響で、売り場自体が消失する傾向にあり、売り方もだいぶ変わってきていて、
当然そのことはデザインに影響を与えています。
 
環境から決定される商品づくりのことを業界では「マーケットイン」と呼んでいます。
20代女性に綿密にマーケティングをやった結果、こういうニーズが見つかり、こういったテイストのデザインが売れそうです。
という話はよくあるのですが、あまりに綿密にやりすぎると商品としての面白さはなくなっていく傾向にあります。
対象となるマーケットが豊かでなければ、出て来る結果も当然面白くはならないからです。
 
逆に市場は一切見ずに、自分がいいと思う商品を納得いくまで追求しましたという方法は
「プロダクトアウト」呼ばれており、マーケットに依存しないので、まったく新しい商品をつくりだすことができます。
 
どちらの手法も一長一短で、iPhoneはプロダクトアウトだと思われがちですが
すでに存在していた音楽プレイヤーと携帯電話とインターネットを組み合わせて生み出したものなので、
マーケットイン的な側面もあります。
 
手法にとらわれずにいつもクリエイティブでいたいなあと思っています。
あくまでもクリエイティブでいるための手法なので。
 
1枚目の写真は最近の授業風景(だいぶ間引いて座っています)、2枚目は昨年12月頃の校庭の様子
 
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家籠りの日々の中、むかし読んだ小説や映画などをみなおしていると、
若いときにはピンと来なかったモノゴトがわかるようになっていて面白いです。
 
再度観た映画で感銘を受けたのは「青いパパイヤの香り」。
 
観るのはおそらく10代の頃以来で、そのときはアジア系ののんびりした映画という印象くらいにしか感じなかったのが、
いまになってみるとよくこんな映画が撮れたものだなと、何度も膝を打ちながら楽しむことができました。
 
映画の舞台は1951年のベトナム。ある少女が資産家のもとに奉公に出てから大人になるまでが描かれています。
シンプルなストーリーなので難解なところはありませんが
主人公であるムイの心の内はあまり描かれず、何を感じているかは受けて側に委ねられるので
ある程度想像し、推し量かれる人の方が、この映画を楽しめるかもしれません。
 
ストーリーがシンプルなのはおそらくそっちが主ではないから。
監督がこの映画で描きたかったのは「暮らし」のほうだと思います。
もっと言えば「かつてベトナムに存在した暮らし」でしょうか。
当時電気は通っていますが、ガスや水道はなく、調理するにも火は炭火で、水も大きな甕に汲み置いたものを使っています。
そういった日々の生活が見事なまでに美しい。
 

ムイの奉公先である資産家の家屋は広い敷地のなかにゆったりと建てられていて、
パパイヤの木などが植えられた庭には鳥が飛び交い、虫の声が一年中響きます。
東南アジア特有の風通しがよい建物は、外と内が緩やかに繋がり、
室内にいても存分に自然の豊かさを楽しむことができます。
 
高く天井まで伸びる柱や扉に施された細工の美しさ、用いる石や木など素材のバランスの良さ。
重層的なつくりの空間は夜、明かりが灯ると、さらに奥行が増し、昼間よりも魅了されます。
最初のシーンが夜に始まるのは、おそらく監督も夜のほうが魅力的だと考えていたからだと思います。
 
手仕事による生活道具の数々にも目を奪われます。
当時は皿や茶器類、机や椅子などの素材は、まだプラスチックには置き換わってないようです。
 
大量生産される品々の粗悪さに声を上げたのは、イギリスのウィリアム・モリスやジョン・ラスキンらでしたが
1950年代のベトナムではマスプロダクションの波は押し寄せておらず
良質な手仕事の品々だけで構成された世界を見ることができます。
アンティークなどを揃えて撮影したのでしょう。
 

撮影時の監督は若干30歳くらいですが、よくその若さでここまでの世界を構築できたものだと感心します。
空間に対する鋭敏な感覚、器や調度品などを選ぶ目の確かさ、そして豊かさとは何であるのか答えを持ち合わせている聡明さ。
 
監督が考える豊かさとは、1950年代のこの家を映画の舞台にしたことだと思います。
 
近代化を経ると、手仕事は大量生産品に取って代わられ、建物もインフラを組み込んだものになってしまいます。
当時蚊帳を釣って寝ていましたが、暑いからといってあの空間にエアコンをつけるわけにはいかない。
エアコンは機密性が高いことで効果を発揮するので、風通しがいい家屋は全てをつくり変えなければ設置できません。
台所なども同じで、壊して以前と同じレベルの設えにするには、伝統家屋が要してきた年月、つまりは数百年はかかるでしょう。
そういった意味でこの時代を選んだ監督は慧眼の持ち主です。
 

舞台を資産家という設定にしたのも暮らしのスケールの幅が描けるからだと思います。
庶民の文化だけを扱うとなると、質素な器を扱うことはできても高価な器は難しいから。
また資産家であってもいわゆる成金ではなく、主人は芸術・文化にも精通し、とても趣味がいい。
しかし芸術を愛するあまり、本業の商売はそっちのけで、奥さん任せ。
ときどき有り金をポケットに入れて蒸発する設定もリアリティがあって面白かったです。
「売り家と唐様で書く三代目」の人ですね。
 
質ではなく利便性が世の中を牽引するようになって久しく、
人々はなかば強制的にテクノロジーと生活を交える時代になりました。
質と利便性の両方を兼ね備えた製品をつくりだすアップルのようなメーカーは珍しく、
暴力的ともいえる変化を受け入れていく状況はこれからも続いていくでしょう。
 
もちろんだからといって1950年代のような暮らしには後戻りできないと、
簡単に開き直ってしまってもいいものなのか、考えさせられる映画でした。
 
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身体性の書 3

2020.07.31

おそらく誰にでも、手放すことができずにいつもそばに置いておきたい本があるだろう。
 
読み込むうちに血肉化していわば自分の身体の一部になったとでも言うのか。
「身体性の書」ではそんな本たちについて語ってみたい。
 
第1回はこちら

第2回はこちら
 
第3回目 蓜島庸二『町まちの文字』『祈りの文字』
 
この本をどこで手に入れたのか覚えていないが、独立して間もないころだったのは記憶している。
 
いわゆるモダニズムのデザインの教育を叩き込まれていた背景が自分にはあったが、
だんだんと民藝などの伝統的、地域的な文化にも心惹かれるようになり、
どっぷりと日本的な豊饒の海に浸りたいという気持ちを持つようになっていたころだと思う。
 
西洋的なデザインという意味ではグリッドシステムを理解していたので
アルファベットはコントロールできたが、日本語のフォントに関しては筆文字文化への知識の欠如があり
和文をきちんと扱えるかどうか不安があったのだ。

その背景にはデザインの環境がデジタルに移行してしまったことがある。
自分までがぎりぎり写植を触ったことがある世代で、現在ではデザインの作業は完全にモニターの中で行う。
明朝体などの活字文化を始祖とする流れはデジタルとの相性が良いが、
筆で書かれる文字をデジタルで表現しようとすると必ず齟齬が出て来てしまう。
 
例えばかすれや滲みをどう解釈すればいいのかという問題。
偶然に発生するアクシデンタルな現象により、
筆で書く際には同じ文字でもまったく同一に再現することは不可能である。
100回書いたら、100通りのかすれ、滲み、ハネが発生してしまう。
 
西洋のカリグラフィにもその傾向はあるが、より自由度が高い筆は変数が桁違いで、
デジタルに取り込むことはなかなか難しい。
カスレなどをスキャンして、偶然性を忠実に再現するフォントもあるが、
そこで表現されているのは書体設計というよりはリアリズムの転写であろう。
リアリズムはリアルにかなうわけはなく、結局は書家が書いたものにまで遡ってしまう。

筆文字のトメ、ハネ、鱗などの特徴を捉えて静的に表現するフォントや
寄席文字などの偶然性に依拠しない書体などはデジタル化できているが
筆文字の面白さの大事な要素である偶然性はいまだ含めることはできていない。
 
少し脱線したがとにかく現代に生きるデザイナーとして筆文字をどのように捉えればいいのか
その答えの一片を探して、この本を買い求めた。

『町まちの文字』は市井に生きる人々が自由に書いた文字、
『祈りの文字』は神社仏閣に関わる文字で構成されている。
 
どちらとも同時代的(昭和中期)に撮影したものに加えて、
著者がコレクションする紙物や古道具なども掲載されており、少し前の日本の姿を知ることができる。
宗教などの縛りなく、自由闊達に表現されているぶん、前者のほうが見ていて楽しい。
当時は張り紙や広告などにも、筆で書かれた字がたくさん使われており、街中で文字が踊っている。

蕎麦屋を始めるなら、書道も習わないといけないと言ったのはデザイナーの浅葉克己であるが
確かに墨痕鮮やかな筆文字が店内に用いられていると、それだけで蕎麦を美味しく感じるだろう。
どんなに良質なフォントをバランスよく組んだとしても店主の直筆には敵わない。
 
『祈りの文字』に登場する文字は宗教的儀式に関するものなので、
よりデザインと文字の関係を考えさせられる。
手で書くことで宗教性や呪術性を担保しているのならば、この分野が最もデジタルに移行しにくいのかもしれない。
 
この本を手にするとデザイン外のデザインの可能性を意識するようになる。
例えば文字でなにかを表現する際に、パソコンにインストールされているフォントから選ぶ行為が
いかに狭い選択肢であるかわかると思う。
 
文化と文字は必ずセットである。
隷書なら隷書の、寄席文字なら寄席文字の、活字なら活字の文化的バックグラウンドがある。
この本は街中にかろうじて漂っていた筆文字文化の残り香を写し取っているのかもしれない。
 
 
『町まちの文字』
『祈りの文字』
著者 蓜島庸二
発行 芳賀書店
発行日 1975年6月25日
 
朗報です。この投稿を書いてちょうどすぐ後に版元が変わり再販されることがわかりました。
 
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自粛中に太ってしまったという話がときどき会話のトピックに上がってくる。
重病化してしまった例に比べるととても瑣末な問題だが、まあ実際コロナの弊害になるのだろう。
 
現代の飽食の時代に食べ過ぎずにいることはなかなか難しく、ダイエットに関してのノウハウ本は、書店に山と積まれている。
こんなにもたくさんのダイエット法が出てくるのは、まだ決定的な解決法がないことの証左である。
ひとつのダイエット法を試すが、痩せられない。あるいは一時的に痩せることができるが、元の体重に戻ってしまう。
失敗が多いので、新しいダイエットが次から次へと考案されていき、いまやダイエットビジネスの市場規模は2兆円とも言われている。
 
ダイエットの失敗ということに関して言えば、もちろんダイエット法に原因がある場合も多いが、
ほとんどはダイエットをする側に原因があるのではないかと思っている。
そしてそのことはブランドのあり方とも近いと思うので考えるところを述べてみたい。
 
ブランドが存在していくには当然ながら目標が必要である。
どこを目指すのか定めて、目標になるべく近づくように進めていき、到達したら、また新しい目標を目指す。
目標を定めることによって存在理由も決まるので、目標がなかったり、そのことを見失ったブランドは危険だと思う。
よって経営責任者は働く人のモチベーションが存分に高まるような魅力的なビジョンを示さなければならない。
CEOにとって一番大事な仕事はビジョンを示すことなのだ。
 
このことはダイエットとも同じで、ダイエットが成功するためには
どれだけ魅力的な目標を掲げられるかがポイントだと考えている。
 
自分が自分の経営者だとするとどういった目標を掲げればいいのだろうか。
 
ダイエットで一番多いのが短期的な目標ではないだろうか。
例えば夏までに痩せて水着を着たいとか、授業参観にこのスカートを履いていきたいといった目標は即効性はあるかもしれない。
しかし目標が達せられたら、それまでのモチベーションを維持するが難しくなり、その多くは元に戻ってしまう。
そして短期型の場合は食生活をドラスティックに変更するので、
フラストレーションが溜まってリバウンドすることが多く、魅力的な目標とはとても言えない。
 
次に多いのは審美的な目標だろう。
痩せているほうが見栄えがいいと判断し、キリがいい数字を目指して、体重を減らしていく。
これはまあまあ長続きすることが多い。
自分が理想とする体重を決めておいて、日々摂生すればリバウンドも起こりにくい。
ただ審美的な目標は、年をとるにつれて効果は弱まっていく傾向にあるし、
過剰なダイエットに走り、精神的にも身体的にも健康面を損なってしまう場合もあるだろう。
拒食症や過食症に陥ってしまっては元も子もない。
つまり審美という目標も、一見目標が定まっているように見えるが、実は抽象的で曖昧だと思われる。
魅力的になりたいならば、もしかしたら髪型やファッションを変えるほうが早いし、合理的かもしれないからだ。
 
また基本的に運動によるダイエットはオススメしない。
計算をしてみればすぐにわかるが有酸素運動を1時間してみても消費されるカロリーはごくわずかである。
筋肉をつけることで基礎代謝を上げる方法もあるが同じことだと思う。
毎日運動を続ける困難さもあるし、もし続かなくなったらリバウンドと同じ現象が起こってしまう。
総合的な意味での健康面のメリットは大きいし、カロリー消費しないこともないので運動自体を否定はしないが、
まずは摂取カロリーを減らすことから始めるのがダイエットの本筋だと考えている。
 
ではどのようなビジョンを示すが一番いいのだろうか。
 
そもそもダイエットすることの一番の失敗は痩せることのみが目的化しているからではないだろうか。
ダイエットなので、痩せるのは当たり前だろうと突っ込まれそうだが、
痩せることだけを目指すと、過剰に痩せたり逆にリバウンドで太ったりして、健康を損なうことが多いと考える。
 
人間のすべての活動は健康の上になりたっているので、
いくら審美性を得られたとしても、長期的に健康に暮らせないならないならば、ダイエットをする意味はないと思う。
つまりダイエットをする際のもっとも理想的で魅力的な目標は「健康になる」ではなかろうか。
世間ではよく「健康的に痩せる」というが意味は大きく違う。痩せる目的はあくまで健康になるためだからである。
痩せてどうしたいのか?という次の問いを自分は投げかけたいのだ。
 
健康という指標を掲げると、医学的なアプローチから理想の体重が決まる。
その体重を目指して、日々バランス良い食生活を心がけながら、摂取量を調整していく。
ゆっくりと数年くらいかければリバウンドも起こりにくいと思う。
考え方としてはダイエットというよりは、健康的なライフスタイルへの移行であろうか。
 
それでも審美的な意味で痩せたいのなら、医学的に健康である範囲内でよりカロリーの少ないライフスタイルを志向する。
(ちょうどいい体重で自分の審美に納得できないのは、痩せているほうが美しいというメディアの刷り込みだと思ったほうがいい。
それらの多くがダイエットビジネスに誘導するためである。)
 
以上がいまのところ考える最も理想的なダイエット法で、実際に自分はこのやり方を実践していて、
良好な健康状態を維持しているし、体重も学生のころと比べて5kgくらいしか増えていない。
 
ブンラドも収益を上げたあとのことを考えるべきである。
ドラッカーの有名な言葉を引用させてもらえれば、収益は目的ではなくあくまで手段なのだから。
 
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