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デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです

身体性の書 1

2023.09.29

おそらく誰にでも、手放すことができずにいつもそばに置いておきたい本があるだろう。

 

読み込むうちに血肉化していわば自分の身体の一部になったとでも言うのか。
「身体性の書」ではそんな本たちについて語ってみたい。

 

第1回目 ヤン・チヒョルト『書物と活字』

 

この本を買ったのは大学生の頃なので、もう15年以上も前の話である。

 

よく覚えているのは、そのとき金銭的に窮していて、
これを買うと今月分の食費がなくなるなあと、買おうかどうか迷っていたことだ。

 

大学でタイポグラフィの授業はあるにはあったが、満足いくものでなく、
漠然と書体とその扱いについて勉強したいと思っていたタイミングだった。
著者のヤン・チヒョルトって人が誰なのか知らないけれど、とにかく掲載されている書体がまばゆいばかりに美しく、
これをおかずにご飯を食べればいいかと諦められるくらいに、目と心が満足する本だった。
実際にはそんなことはしなかったが、酒のアテの代わりに、
深夜にウィスキーを飲みながら、よくページをめくった。

 

これを読むと、タイポグラフィを学ぶには、まずは文字の美しさを享受することから始まるということがよく分かる。
世の中にはこんなにも美しい書体があるんだとうっとりすることなしにタイポグラフィの上達はないだろう。

 

そういう意味で、天才チヒョルトの目によって、古くはローマ時代から選び抜かれた書体は理想の状態に置かれている。

 

僕はこの書物で初めてGill Sansに出会い、無機質だと思っていたゴシック体にも温かみがあることを知った。
Garamondに遭遇し、古いローマン体には独特のかぐわしさがあることを知った。

 

なんでもそうだけれど、世の中にはこんなにも高い頂があると知ったうえで表現するのと、
そうでないのとでは、自ずと表現の質が変わってくる。
貧相な書体ばかりを見ていたわけではないが、この本を手に取ったことで世界の山の高さを知ることができた。

 

以来自分にとって一番のタイポグラフィの教科書となり、迷ったとき、わからなくなったとき、アイディアを探すとき、
あるいは欧文でロゴをつくらないといけないときには必ず開く。

 

目を通したからといって問題解決に直結するわけではないが、
気持ちを整えてくれる精神安定剤みたいな効き目があるのかいつもページをめくってしまう。
そしてめくるたびに新しい発見があり、学び尽くすということがない。

 

いい書物には、変わっていく自分に合わせて内容も変わる時間軸のようなものが存在するのだ。

 

そういった本との邂逅は、長く付き合える友達に出会えるのと同じくらい
価値があることではないだろうか。

 

『書物と活字』

著者 ヤン・チヒョルト

発行 朗文堂

日本語版翻訳 菅井暢子

日本語版デザイン 白井敬尚

発行日 1998年3月26日

 

 

※この記事は2016年7月に投稿した記事の再掲載です。

過去のデータベースにアクセスできなくなったので一部加筆修正して掲載しています。

 

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身体性の書4

2024.11.30

おそらく誰にでも、手放すことができずにいつもそばに置いておきたい本があるだろう。

 

読み込むうちに血肉化していわば自分の身体の一部になったとでも言うのか。
「身体性の書」ではそんな本たちについて語ってみたい。

 

第1回はこちら

第2回はこちら

第3回はこちら

 

『はなしっぱなし』上下巻 

五十嵐大介

 

 

初めて来たがこの場所を知っている

 

 

この漫画を読むと、足下に強い潮流を感じ、遠くへと運ばれていることに気付く。
圧倒的な物語の力によって、引っ張られていく先はとても不思議な場所だ。

 

そこには時間がない。

過去であり、未来であり、一瞬が永遠であり、永遠が一瞬である。

 

そこには大きさがない。

マクロであると同時にミクロでもあり、ミクロであると同時にマクロでもある。

 

そこでは意味を持たない。

形は形のまま、色は色のまま、まだ意味というラベルは貼られていない。

 

そこには生死がない。

生と死は対立するものでなく、等価なものとして存在する。

 

しばらくたたずんでいると、この場所を知っていることに気付く。
初めて来たが、世界のありようには馴染みがあるのだ。

 

ここは自分に一番近く、一番遠いところ、潜在意識の奥底。

 

シャーマニスティックと言ってしまっていいかもしれない短編の数々は、
現代のお伽噺と表現できるだろうか。

 

世の中のお伽噺はいにしえから伝えられるものが多く、
自分との距離を感じる場合があるが、ここでは時代背景をあえて現代に設定することで、
そういった種類のファンタジーが現代でも力を持ちうることを示している。

 

動物と話ができたり、精霊が見えたりする。さまざまな想像上の生き物も登場する。
象徴的だったり、隠喩的だったり、直喩的だったりするが、いろんな角度から解釈ができる。
不可思議な話ばかりだけれど、なぜだかすとんと腑に落ちる。頭ではなく、身体で理解できる。

 

カイエ・ソバージュ』でも示されるように、人が自然や動物との対称性を獲得するには、
バランスがとれた「善なる物語」が必要となってくる。

 

洞窟のなかで、火を焚き、そのまわりにひとびとが集まり、シャーマンから出る言葉を待つ。
それは精霊の言葉でもあるし、生き物の代弁でもあるし、自然からの予言であるかもしれない。
かつて人々はそのように関係性を保っていた。

 

この漫画では、現代では聞くことができなくなった声をふたたび耳にすることができる。

 

五十嵐はいまを生きるシャーマンなのだ。

 

 

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身体性の書 3

2020.07.31

おそらく誰にでも、手放すことができずにいつもそばに置いておきたい本があるだろう。

 

読み込むうちに血肉化していわば自分の身体の一部になったとでも言うのか。
「身体性の書」ではそんな本たちについて語ってみたい。

 

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第2回はこちら

第3回目 蓜島庸二『町まちの文字』『祈りの文字』

 

この本をどこで手に入れたのか覚えていないが、独立して間もないころだったのは記憶している。

 

いわゆるモダニズムのデザインの教育を叩き込まれていた背景が自分にはあったが、
だんだんと民藝などの伝統的、地域的な文化にも心惹かれるようになり、
どっぷりと日本的な豊饒の海に浸りたいという気持ちを持つようになっていたころだと思う。

 

西洋的なデザインという意味ではグリッドシステムを理解していたので
アルファベットはコントロールできたが、日本語のフォントに関しては筆文字文化への知識の欠如があり
和文をきちんと扱えるかどうか不安があったのだ。

 

その背景にはデザインの環境がデジタルに移行してしまったことがある。
自分までがぎりぎり写植を触ったことがある世代で、現在ではデザインの作業は完全にモニターの中で行う。
明朝体などの活字文化を始祖とする流れはデジタルとの相性が良いが、
筆で書かれる文字をデジタルで表現しようとすると必ず齟齬が出て来てしまう。

 

例えばかすれや滲みをどう解釈すればいいのかという問題。
偶然に発生するアクシデンタルな現象により、
筆で書く際には同じ文字でもまったく同一に再現することは不可能である。
100回書いたら、100通りのかすれ、滲み、ハネが発生してしまう。

 

西洋のカリグラフィにもその傾向はあるが、より自由度が高い筆は変数が桁違いで、
デジタルに取り込むことはなかなか難しい。
カスレなどをスキャンして、偶然性を忠実に再現するフォントもあるが、
そこで表現されているのは書体設計というよりはリアリズムの転写であろう。
リアリズムはリアルにかなうわけはなく、結局は書家が書いたものにまで遡ってしまう。

 

 

筆文字のトメ、ハネ、鱗などの特徴を捉えて静的に表現するフォントや
寄席文字などの偶然性に依拠しない書体などはデジタル化できているが
筆文字の面白さの大事な要素である偶然性はいまだ含めることはできていない。

 

少し脱線したがとにかく現代に生きるデザイナーとして筆文字をどのように捉えればいいのか
その答えの一片を探して、この本を買い求めた。

 

『町まちの文字』は市井に生きる人々が自由に書いた文字、
『祈りの文字』は神社仏閣に関わる文字で構成されている。

 

どちらとも同時代的(昭和中期)に撮影したものに加えて、
著者がコレクションする紙物や古道具なども掲載されており、少し前の日本の姿を知ることができる。

 

宗教などの縛りなく、自由闊達に表現されているぶん、前者のほうが見ていて楽しい。
当時は張り紙や広告などにも、筆で書かれた字がたくさん使われており、街中で文字が踊っている。

 

蕎麦屋を始めるなら、書道も習わないといけないと言ったのはデザイナーの浅葉克己であるが
確かに墨痕鮮やかな筆文字が店内に用いられていると、それだけで蕎麦を美味しく感じるだろう。
どんなに良質なフォントをバランスよく組んだとしても店主の直筆には敵わない。

 

『祈りの文字』に登場する文字は宗教的儀式に関するものなので、
よりデザインと文字の関係を考えさせられる。
手で書くことで宗教性や呪術性を担保しているのならば、この分野が最もデジタルに移行しにくいのかもしれない。

 

この本を手にするとデザイン外のデザインの可能性を意識するようになる。
例えば文字でなにかを表現する際に、パソコンにインストールされているフォントから選ぶ行為が
いかに狭い選択肢であるかわかると思う。

 

文化と文字は必ずセットである。
隷書なら隷書の、寄席文字なら寄席文字の、活字なら活字の文化的バックグラウンドがある。
この本は街中にかろうじて漂っていた筆文字文化の残り香を写し取っているのかもしれない。

 

『町まちの文字』

『祈りの文字』

著者 蓜島庸二

発行 芳賀書店

発行日 1975年6月25日

朗報です。この投稿を書いてちょうどすぐ後に版元が変わり再販されることがわかりました

 

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身体性の書 2

2018.06.30

おそらく誰にでも、手放すことができずに、いつもそばに置いておきたい本があるだろう。

 

読み込むうちに血肉化していわば自分の身体の一部になったとでも言うのか。
「身体性の書」ではそんな本たちについて語ってみたい。

 

第1回目はこちら

 

第2回目

カイエ・ソバージュ

中沢新一

『人類最古の哲学 1 』

『熊から王へ 2 』

『愛と経済のロゴス 3 』

『神の発明 4 』

『対称性人類学 5 』

 

この書物をちゃんと通して読んだのは、15年ほど前に一回だけで、あとはパラパラと眺める感じだったので
「身体性の書」というテーマで扱うには少し抵抗がある。
ただしかし受けた衝撃は甚大で、簡単に言えば見える世界が変わってしまい、
身体の組織なども変性してしまった感触がいまでも残っている。
そして直接的ではないが会社を辞めるきっかけになった本でもある。
読後、組織に属して仕事をして行くことがどうしても難しくなった。

 

著者である中沢新一は『アースダイバー』のほうが有名であるが、やはり真骨頂といえばこの本だと思う。
日本の研究者はひとつの分野を掘り下げるタイプが多いので、中沢みたいに様々なジャンルをまたいで活動する学者はあまりいない。
宗教学、哲学、芸術学(多摩美でも教えていた)、
文化人類学などの分野を軽々と横断することで見えて来る視点は、同時代の学者にはない魅力に溢れている。

 

全5巻になるシリーズは著者が中央大学で教えていたときの比較宗教学の講義をまとめたもので、
学生向けであり、語り口調でもあるのでとてもわかりやすい。

 

本書は対称であるべき関係性が崩れたことで世界で起こっているさまざまな問題の要因を
神話や古代の風習などを読み解くことで探っていく試みであり、
最終的に対称性人類学という新しい領域へ到達するスリリングな道のりでもある。
ところどころ文化人類学者のレヴィ=ストロースの構造主義を受けた形となっており、
いろんな角度からアクセスすることができると思うが、
印象に残った点に絞って話を進めて行こうと思う。

 

まずキーワードとなっている「対称」という言葉であるが、
簡単に言えば、対になるべき2つの要素がきちんとシンメトリーになっている状態のことである。
って言ってもなんのこっちゃという感じだろう。

例えば、現在、人と動物の関係は、人が動物に対して支配的になっている。
家畜やペットや動物実験が存在するのは、人間よりも下の立場として扱っているからであって
いまではそれが当たり前のように感じているかもしれないが、現生人類(ホモサピエンス)の歴史の中では対等な状態のほうが長く続いていた。
3万年くらいの長い間、動物は憧れの対象であり、けっして支配するという関係ではなかったのだ。
動物を食べてしまった後に残る骨や毛皮も丁寧に扱い、儀式を通じてきちんと自然へと返していたし、
神話の中でも人間と動物は同等の対照的な立場を保っていた。
つまりシンメトリーに重なり合うことができる交換可能な関係が「対称性の論理」の基本的な考え方になる。

 

宗教や神との関係性も同じで、ネイティブアメリカンやアボリジニーなどの調査からは、
スピリットという存在(多神教における神々のようなもの)を信仰していた段階では対称性は保たれていたが、
一神教の中から強力な力を持つ神が現れたことで、自然な心の動きや信仰心が失われてしまったことが読み取れる。
宗教が現在ではどちらかと言えばネガティブなこと結びついているのは、
9.11や同時進行で起こっているテロの問題を見れば理解に難しくないだろう。
神のほうの力が強くなることでバランスを失い、本質的な信仰心から遠くなってしまったのだ。
スピリットがたまに変貌を遂げ、一神教の神と同じくらい力を持つグレートスピリットという大きな存在になることが、
ネイティブアメリカンの間では確認されているが、国家を持たない社会ではいちども唯一神になることはなかった。

 

また社会が持つ力が人間を超えないように、国へと発展しない工夫もされていた。
国家が誕生し、持つものと持たぬものが現れるとやがて貧富の差に結びつき、軋轢へと繋がっていく。
ひとところに力が集約してしまう存在が出現すると、権威や不平等に結びつき後戻りができなくなるのは国家も宗教も同じなのである。
そう予見していた古代の人々は、神話を語り、儀式を行うことで、対称性を保つ努力をしていたのだ。

 

この本を読んで痛切に認識を改めたのは、文明が発達していないと思っていた太古の昔の方が、
現代人よりも遥かに進んだ知恵を有していたということである。
あるいは現時代にアマゾンの奥地で暮らす人々を、非文明的で未発達だと決めつけてしまっていたが、
むしろそういった人々から見れば、近代化された都市で暮らす人々のほうが、よっぽど野蛮で非文化的だということである。
自分たちが優位な立場にいると思い込み、自然や動物に対して尊大で野蛮に振る舞うこともないからだ。

 

軽妙な語り口で進められていく、講義はけっして難しくなく、するすると頭の中に入っていく。
しかしその軽妙さとは裏腹に、中沢が連れて行く先はとても深く、後戻りができない。
そう、僕みたいに会社を辞めてしまうことを考えると、これはけっこう危険な書なのかもしれない。

 

『カイエ・ソバージュ』

著者 中沢新一

発行 講談社選書メチエ

発行日 2002年1月10日

 

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