すいせいブログ
スケジュール

みなさんはどうやってスケジュールを管理してますか?
世の中では既にクラウドに移行している人も多いかもしれませんね。
僕の場合は根っからのアナログ派なのでデジタルには行かず、
竹尾のDresscoというブランクノートを長年使ってます。
さすがに紙の商社が発売してるだけあってとても贅沢な紙の用い方で、
これさえあれば「いいアイディアが湧いてきて湧いてきて」とまではならないですが、
思いついたことを書き留める度にその紙質の良さに助けられる感じがして気に入って使ってます。
ただこれはあくまでブランクノートなのでスケジュール帳までは付属していません。
そこで僕は中に格納できるサイズに合わせてオリジナルのスケジュール帳を手製しています。

市販のものだとまずサイズが合わないですし、罫線の太さや書体の選び方にも不満があるので
自分でつくると納得したものが得られるという訳です。
こういう場合はデザイナーは便利ですね。
まあ、デザイナーだからそこまで変質的にこだわるんだという見方も出来ますが。笑
年始にスケジュール帳をつくることから一年の仕事が始まっていきます。
新年のご挨拶
ちょっと遅くなりましたが、新年のご挨拶を申し上げます。
本年もよろしくお願いいたします。
年賀状の干支の絵を毎年アップしてきましたが
昨年祖母が死去した関係で年賀状はつくってないので
龍の絵を描きませんでした。
今年は抱負だけ述べさせていただきます。
なぜデザインするのか?理由をデザイナーに聞いてみると
当然いろんな答えが返ってくると思います。
◎デザイナー100人に聞いたアンケート「なぜデザインするのか?」
醜悪なデザインが多いから 62%
単純にデザインが好きだから 21%
お金をもうけたいから 6%
有名になりたいから 8%
もてたいから 2%
勝手に手が動いてデザインしてしまうから 1%
ま、もちろん上記は適当なねつ造です。
もし僕がこのアンケートに答えるすると、カッコつけすぎなんじゃないかと指摘されそうですが
「世の中を良くしたいから」と答えると思います。
醜悪なデザインも嫌だし、お金ももうけたいし、ちょっとはもてたいと思ってますが
基本的にはデザインで「世の中を良くしたいから」というのが自分に正直な気持ちです。
(しかしお金をもうけたいなら他の職業を選んだ方がいいですね。
デザイナーはもうかる職業ではないです。もてるかどうかについてはよくわからないです)
別の言い方をすれば一番モチベーションが上がるのが
「世の中がデザインで良くなること」に関わることです。
例えば「REFARM」のように農業を復興し日本の自給率を上げるとか、
100万人のキャンドルナイトのように電気を消すことで現代社会では失った「闇」を取り戻すとか、
分類としてはソーシャルワークならぬソーシャルデザインになるのでしょうか。
いまだったら
「脱原発へのアシスト」
「自然エネルギーへの移行のアシスト」
「東北復興のアシスト」
「ペットの生体売買禁止のアシスト」
「コンビニの食品廃棄量を減らすことへのアシスト」
(国内のセブンイレブンだけで一日約2億円分もの食料を捨てているんです。詳しくはここ)
などに興味があります。
紛争の資金や児童労働に由来しないフェアトレードの宝石ビジネス。
「HASUNA 」
こういうプロジェクトもたいへん有意義で素晴らしいですね。頭が下がります。
デザインを依頼されたら無償ででもやりたいところです。
でもまあこのエントリーでも書いたように
お金と決意は密接に結びついているので完全に無償でってのはムツカシイんでしょう。
料金が発生しない場合、良いデザインが提供できても
すぐに捨てられてしまったり、簡単に方向性が変わってしまったりと
残念な結果になってしまうことが多いからです。
そこらへんの価値観をきちんと共有しないといけないですが
おそらくお金が重要というよりは依頼主のプロジェクトの視野に
どれくらいデザインが含まれているかなのでしょう。
デザインをただの見えがかりとしか捉えてない依頼主だと
お金があってもすぐに変わるでしょうし、
デザインの本質を理解している依頼主であれば
ただ消費されて終わることはないでしょう。
さて細かいことはさておき
今年は少しでも世の中が良い方向に進むことに関わりたいと思いますので
なにかあればぜひお声掛けください。
楽しい一年が今年も始まるとわくわくしています。
追悼

柳 宗理
1915–2011
謹んでご冥福をお祈りいたします。
もっとも尊敬するデザイナーのひとりでした。
亡くなる前に一度お会いしたかった。
棚を消費する



やまのかみ木工所に依頼していた棚が納品されました。
ボックスの棚×12
材質:ナラ
仕様:カラーオイル塗装
サイズ:465×465×340mm(W/H/D)
デザイナーという職業につくと(おそらくほとんどの人は)
消費する事にとてもコンシャスになります。
消費を促す側にまわるので自然とコンシャスになるのですが
同時に消費そのものにも疑問を持つようになると思います。
とくに疑問に感じるのは長期的に使えない中途半端な製品を大量生産して
有限な資源を無駄にするタイプの消費です。
デザインしたものが刹那的に消費され捨てられていくことは、
デザイナーとして悲しいというよりも、このようなサイクルで進んで行き
人類が明るい未来を手にできるのかという根源的な疑問に繋がります。
社会のシステムがそうだからと言ってしまえば簡単ですが
自分が関わる案件については少なくともそのシステムには巻き込まれたくないと思います。
「少しでも息が長い良質のデザインをつくる」
「消費されるだけのデザインはつくらない」
「デザインすることで文化や環境や倫理や政治等が良くなることを目指す」
これは独立してからずっと守ってきているデザイナーのマニフェストのようなものです。
依頼したこの棚は無垢板で構成されている為、強度の面でも、
美観の面でもとても息が長い製品と言えると思います。
少なくとも僕が一生使うには充分過ぎるくらいです。
キズがついても汚れても無垢板なのでメンテナンスすればいいですし、
ボックスという機能だけで事足りなくなったら引き出しや扉などのオプションもつけられます。
それにボックスタイプなので環境が変わってもある程度流動的に対応できます。
長く使える製品を買うことは僕の消費者としてのマニフェストのようなものです。
もちろんこのようなこだわりはコストがかかるので
「世の中にはそんなことにお金をまわせない人もいるんだよ」という声が聞こえてきそうですが
中途半端なものを購入して壊れるたびに買い直すよりも、
我慢してお金を貯めてきちんとしたものを買うという選択肢もあると思います。
僕は長年そういうスタンスで商品を購入してきました。
前回取り上げたスティーブ・ジョブズの伝記の中で
独身時のスティーブの家には家具が全然なかったと書かれていました。
当然ながら経済的な理由ではなく、気に入ったものをなかなか選べないのが理由のようです。
お金持ちだからと言って無駄に浪費するのではなく、
本当にいいものに出会うまで買わないってのは健全な姿勢だし、賢い消費者だと思います。
「消費者が求めるベスト」がわかるには
まず自分自身が「ベストの消費者」にならなければいけないのかもしれません。
不景気がこれだけ続くとお金を使うことが促されますが
果たしてそういう政策が明るい未来に繋がっているのでしょうか。
景気が回復してまた世の中にお金がまわるようになっても
ただ資源を無駄に費やすだけなんじゃないかと思ってしまいます。
むしろいまのような時こそ本当にいいものに巡り会うまで消費をしない姿勢が、
資本主義経済の矛盾や不完全さを補完し、明るい未来への一歩になるのではと信じています。
こういうのもあります。
Buy Nothing Day
買わないことで消費について考える日
レドセとスティーブと民藝

もちろんスティーブ・ジョブズの波乱の生涯にも興味があったけれど、
実際にどの程度ディレクションするかで
かのappleの一連の製品群が出来上がっていたか知りたくて「伝記」を読み始めた。
伝記は極めて細かい部分までディレクションしていることを教えてくれるが
今回はその話題ではありません。
スティーブのガールフレンドにティナ・レドセという女性がいました。
仕事関係で知り合った当初はレドセにはパートナーがいたのものの、
スティーブが熱烈にアプローチし、付き合い始めます。
レドセの「純粋で自然なところ」に魅力を感じ、
数年間は関係が続いたのですが価値観の相違から結局二人は別れてしまいます。
美的感覚についても考えが違っていた。普遍的な理想の美というものが存在し、それを人々に教えるべきだと考えるジョブズに対して、美的感覚はあくまで個人的なものだとレドセは考えていた。ジョブズはバウハウスムーブメントの影響を受けすぎていると見ていたのだ。
「美とはどういうものなのか世間に教えなければならないとスティーブは考えていました。私はそのように思いません。自分の内なる声に、また、お互いの声にじっと耳をすませば、生まれながらに持つ真なるものが浮かび上がってくるはずだと思うのです」——スティーブ・ジョブズ 上巻 ウォルター・アイザックソン著
これを読むと意見がくい違っているようにもみえるけれど
よくよく考えるとほとんど同じことを言っているのではないか思えてしまう。
どちらの意見も「美」を大事にしているが、その「美」が現代社会では偏在的である故、
かみ合わないように見えるのではないだろうか。
たしかにレドセが言うように、
誰かが「美とは何か」を伝えないといけない世界は根本的に不幸だと思う。
伝統性の文脈で連綿と受け継がれる「美」のようなものをゆるやかに享受する生活と、
個人が一時代で創出した価値にまみれて生きるのとではどちらが豊かなのか明らかだろう。
伝統とは人間の叡智がぎっしりとつまったものであり、
そのアウトラインが強固であればあるほど、その中で「美」すら意識せずに
満ち足りた生活がおくれるに違いない。
極論を言ってしまえば「良質の伝統さえあれば美意識なんていらない」のだと思う。


しかし近代化を経た世界では伝統性は分断されることが多いし、
ドラスティックな変化に伝統だけでは対応することができない。
特にスティーブがいた世界は人類の歴史の中でも
一番新しい発明品を生み出していた分野だろうから享受できる伝統はとても少ないと考えられる。
そんな業界にいて誰も美に対して責任を持たないことを(おそらく)スティーブは嘆き、
自ら率先して普遍的な美を伝えようとしていたのだ。
コンピューターが今後何百年も続いて伝統文化となり、或いは民藝となり、
誰かが「美とはどういうものか」を声高に伝える必要がなくなるまで
スティーブのような優れたビジョナリーが先へと導いて行かないといけない。
つまりはレドセが求めるものをスティーブが与えることができたのだろう。
もしそのことを別れる前の二人に伝えられたら運命は変わっていただろうか。
画像
上 Macintosh 初号期
中『北欧・トナカイ遊牧民の工芸』 日本民藝館
下 ipod classic
民藝の季節

今年も民藝館展が開催されます。
いいものを買おうと思っている方は早朝から並んだ方がいいですよー。
現代における民藝の存在理由って
もしかしたら無駄を含んでいる部分にあるのかもしれません。
民藝と現代の製品をぴったりと合わせてみると
民藝の方が無駄を含んでいるぶんはみ出ることが多いと思います。
大きくはみ出ることもあれば小さくはみ出ることもある。
しかし無駄があるから現代の製品より劣るということではなく
むしろその無駄によって逆に機能性が高まっている気がしています。
って抽象的過ぎてなんのことか伝わらないですよね。
でも実際に目で見て、手で触れて、使ってみると分かると思います。
実用品で日用品ってところが民藝のいいところなので。
日本民藝館展
新作工芸公募展
2011年12月10日(土)~23日(金・祝)
色感と味覚について
大学時代に先生から「色感(*)がいい人は味に対する感受性もいいんだよね」
と聞いたことがあります。
その時は特に気に留めなかったのですが
あとあと考えてなるほどなあと思うようになりました。
というのは「美味しい食べ物にありつくには」
色感って必要不可欠な能力じゃないかと考えるからです。
例えば今日穫れたレタスと昨日穫れたレタスをビビッと見極めるには
素材の状態をきちんと判断しなければいけません。
嗅覚的・触覚的な情報も大事ですが
まずは視覚的な情報からどちらのグリーンが
みずみずしくて鮮やかなのか判断するのだと思います。
また単に美味しいってだけでなく
腐ってるものを食べることは体に対してダメージなので
色合いが悪いからこれは口に入れないでおこうという判断は
身体を守るうえでも大事な能力と言えると思います。
色感がいい遺伝子を持っていた人は新鮮な美味しいものにありつくことができ、
さらには食中毒などから身を守ることができた。
そういう経験が味覚の発達に影響を与えたのではないかというのが僕の持論なのです。
一流の料理人ほど盛りつけが上手で
色彩豊かな食欲をそそるひと皿を完成させるのもそのような理由からかもしれません。
つまり料理人にとって「料理が上手ということ」と
「盛りつけが上手ということ」とは同じ意味じゃないかと。
美味しく見えるよう盛りつけるには色の系統を揃えるのではなく
緑、黄、赤それぞれの色の素材を使うセオリーがあるのですが
それも栄養学的なバランスが関係しているのでしょうか。
前々からファッションセンスがいい人がモテるのは不思議だと思っていました。
論理的に考えると不思議じゃないですか?
デザイナーがいうのも何ですがセンスって実務的には役に立たないものですから。
経済力や体力や知力などのまえではファッションセンスってあまり有効性がない気がします。
しかし、と考えてみました。
もしファッションセンスから色感の善し悪しがわかるのであれば
とても現実的で実務的な能力を判断している可能性はないでしょうか。
センスがいいってのはただ表面的なことではなく、その相手と結婚して子供ができた場合、
家族が健康になれるかという重要な要素に繋がっているかもしれないのです。
などということを日々つらつらと考えております。
暇なのかってつっこみが入りそうですが…。
ちなみに僕は色感はいい方です。実務的に。
今日もすいせいブログに来ていただきありがとうございます。
*色感とは字そのままの「色に対する感受性・感度」のことで、
色感がいい人はいろんな色を効果的に使える人のことです。
実は美大や美術関係の間で色感が良くない人は
どれだけ努力しても良くならないという定説があります。
デッサンにおいて形を正確に把握するとか明暗を識別するなどは努力でカバーできるけど、
色感は絶対音感と同じもので天性のものらしいです。
知りたいこと
当ウェブサイトのログを見ていると色々なキーワードで検索されていることがわかります。
世相を反映したものから(最近は農業系が多い)、行間を読むと意味深なものまでさまざま。
そんなキーワードの一例をご紹介。
◎中華 模様 意味
そうですね。模様には深い意味が。
これが現時点での僕の答えです。
→空白恐怖症の中国、寿司デザインの日本
◎デザインとは?
ひとことではなかなか言えないなあ。
デザインってユーザーとの関係性なので、
定義は個々によってだいぶ変わるじゃないでしょうか。
まあ、少なくとも定義のひとつに
「機能という属性を持つもの」ってのは含まれると思います。
◎なぜ人は花を美しく感じるのか?
◎なぜ人は宝石を美しいと感じるのか?
◎なぜ絵画を美しいと感じるのか?
これも美と人間の関係性ですね。
美は存在しないから、存在すると言えるのでしょう、逆説的に。
→人と美
◎グラス うすいほうがうまい
おっ、僕もそう思います。
→ビールまでの距離
◎スペース 埋める デザイン
そういうデザインはモダニストからは徹底的に批判されそうですがさにあらず。
機能の定義を広げてみれば無駄なものも無駄ではない。
◎下北沢 26m道路
こういう計画があり反対しています。
→Save the 下北沢
◎無有好醜 意味
民藝についてはこちらを。
→究極の「ふつう」とは?
◎うなぎ屋さんは儲かる仕事か?
美味しくて値段が適正であればそこそこ儲かると思います。
うなぎって代替不可な食べ物なので。
「うどん屋混んでいるからそば屋にしようか?」
っていう風にあんまりお客さんは流れないですよね。
いや、まじめな答えを期待されてないか…。
美味しい鰻屋さんのデザインがやりたい。
◎音楽家から美容師
わからないですが才能があればいけるんじゃないでしょうか。
◎繊細じゃない自分が嫌
でも、繊細じゃない自分はお強いと思いますよ。
→繊細さと強さ
◎樋口賢太郎 マジシャン
残念ながら人違いだと思います。
マジシャンではありません。
すこしなら手品できますが。
切りがないのでこのへんでー。
空白恐怖症の中国、寿司デザインの日本 後編
寿司は極めて日本的な食べ物だ。
ネタとシャリ両方の素材の良さを存分に引き出し、
余計な要素は加えずに楽しむそのスタイルを
日本的と称してもおそらく多くの日本人は違和感を感じないだろう。
現代では日本を象徴する食べ物として世界中に広まり、
武士や歌舞伎などと同じように日本の精神性を表すコンセプトモデルとして
認識されているようにも思える。
しかし調べてみると意外にも握り寿司の歴史は浅く、
江戸時代後期くらいの文献に登場していることから
180年、長くとも200年くらいの歴史しかないと考えるのが適当だ。
(押し寿司やなれ鮨は古代から保存食としてつくられていた)
根っからの伝統食というわけではないが
さも日本を代表する食べ物と認識される背景には
日本的思考と寿司のコンセプトがぴったりと合致しているからかもしれない。

歌川広重によって描かれた寿司
日本人は豊かな自然の中でデリケートな感性を育んできた。
自然が豊かということは環境に多様性があり、
滑らかなグラデーションで生態系が出来上がっているということを意味する。
地面を構成する要素だけを比べてみても
砂漠気候と温帯湿潤の日本のそれとでは情報量がだいぶ違う。
情報量が多いとそのぶん情報に対するリテラシーを求められ(自然リテラシー?)、
即して感性も発達していく。
自然が繊細だとそれを映す鏡も繊細な像を結ぶように
日本人はとても繊細な感性を持つようになった。
デリケートな感性のもとでは素材に内在する自然を尊び、
余計なものを加えることを潔しとしない「引き算の美学」が生まれる。
模様も含めたあらゆる要素をダウンサイズするのは
ノイズに紛れていた自然を感じたいという欲求の現れではないだろうか。

しばしば桂離宮に代表される数寄屋建築が、
西洋のモダニズム建築と比較されその類似性を指摘される。
実際アウトプットは似ているかもしれないが
モダニズムが機能主義的、合理主義的側面を決して離れられないことから
両者の目的はだいぶ異なるのではないかと思っている。
Less is moreと言ったのは建築家のミース・ファン・デル・ローエだが
かかる引き算の美学のもとで
必要最小限まで無駄を削ぎ落とし生まれるミニマルな強さが
モダニズムの魅力であり目的だとすると
日本のそれは寿司的コンセプトと同一の
自然を感じたいという意識の方向性でないかと考えるからだ。

近代以降モダニズムが洋の東西を問わず流行し、
模様を含めたあらゆるエレメントを捨象することになった。
しかし日本でも起こったモダニズムは同じ様に見えて本質が違うのではないか、
遥か以前から模様を絶えず捨てて来たことで日本文化は成立しているのではないか、
日本人の一番の能力性とは自然を感じる繊細さにあるのではないか、
そのようなことを帰国後の寿司屋のカウンターで寿司を食べながら思った。
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⇒higuchi(01/16) - 簡素が豪華に…
⇒まゆ(01/16) - 知りたいこと
⇒higuchi(11/10) - 知りたいこと
⇒もりもり(11/10) - 知りたいこと
⇒higuchi(11/08) - 掲載されています!
⇒樋口(10/11) - 掲載されています!
⇒まゆ(10/10) - 掲載されています!
⇒樋口(10/05) - 掲載されています!
⇒もりもり(10/04) - 安縵法雲/Aman fayun
⇒higuchi(09/24)
- 簡素が豪華に…


