すいせい

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デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです

善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。

——親鸞『歎異抄』

 

ひとはなぜ悪に惹かれるのか。
悪の美学ではないが「善」とされるものにはない魅力があるように思える。

 

以前ちょいワルのことについて投稿したことがあったが
最近その考えをアップデートしているので書いてみたい。

 

該当の記事はこちら

 

このときは、マイケル・ジャクソンのアルバムを例に出し、
良いと悪いの間を揺らぐことに意味があるという内容だった。

 

いま現在は「悪」という概念自体が、実は悪ではない場合があるのではないかと考えている。

 

そもそも善悪という視点自体が、曖昧で掴みどころがないものではないだろうか。
道徳や規範や常識などに縛られることも多く、
時代や世間の空気、あるいは政治性などにも影響を受けてしまいやすい。

 

つまりひとが惹きつけられてしまう悪は、一時的に悪のラベルが貼られているが、
実は本質的で重要な意味を持ち、世間が変わり、価値観が変わると
その真価が発揮されるようになるものではないかと、いまのところは考えている。
世間一般には悪とされていたとしても、本能的にそういったことを嗅ぎ分けているために、
惹かれてしまうのではないだろうか。

 

ヤクザという存在を肯定するわけではないが、そういったジャンルの映画を楽しむのも、
暴力性などが違ったかたちで現れると魅力的であるからだろうと思う。
反社会的であったり、モラルに反する暴力性は映画のなかだけでとどめておきたいが、
現実社会では例えば格闘技というジャンルであれば、その発露がうまくいくかもしれない。
あるいは身体をダイナミックに動かすスポーツも、選択肢に入るかもしれない。

 

詐欺行為がフィクションで成立するのも、あざやかにひとを騙す、騙されることに面白さがあるからで、
たとえばマジック(手品)などはその「騙す」部分だけを、純粋なエンターテイメントに昇華している。

 

マイケルのような音楽や芸能の分野などは、言語化できない魅力の総本山である。
暴力性はもちろん、性的なもの、狡猾さ、横柄さ、自己顕示欲などもポジティブに転換できるし
逆に言うとそういった要素がないと惹きつけられない気がする。

 

冒頭は「悪人こそ救われる」で有名な親鸞の『悪人正機』の言葉であるが、
ここでいう悪人とはすべての人類のことを指し、ひとはそもそも善悪がわからないという。
煩悩を持ち、まだらのように善悪が入り混じる人間はすべて悪人である、とは強い言葉であるが、
反面、原罪を喝破している意味で優しい言葉でもある。

 

いつの時代もひとが悪に魅了されるのは、
分つ難く煩悩や原罪から切り離すことができない宿命を背負っているからだろう。
その足元には常識を超えた何かが潜んでいるのではないかと想像する。

 

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