すいせい

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このブログは
デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです

 

 

 

詩についてはよくわからないけれど、北園のデザイン、写真には中毒性があるように思える。

 

北園とは昭和初期から50年代にかけて活躍したモダニスト北園克衛のことである。
その活動範囲は前衛詩を主軸として写真、デザイン、映像と幅広く、ほとんどを独学で習得し、76歳で没するまで旺盛な創作活動を行った。

 

プロフェッショナルでもない一人のモダニストの作品が時代に埋もれることなく、
現代でも輝き続けているのはとても不思議なことだ。(日本歯科医学専門学校の図書館に職を得て、亡くなるまで勤務していた)

 

いや、北園の前ではもはやプロ、アマチュアでの線引きは意味がないかもしれない。
なにしろその実力はプロの線をまたぐことができたのではなく、プロの中でもトップレベルの域で常に活動していたのだから。

 

 

 

 

北園の作品群を見渡すとそこにしっかりと確立された世界観をみることができる。

 

装丁について言えば、おおよそ「文字+何かひとつの要素」で構成されていて、
余白を生かした緊張感のあるデザインからは、北園とモダニズムの出会いがいかに幸福であったのかよくわかる。
日本的な淡白な美意識とモダニズムの邂逅が、ひとつの世界観をつくっているのは間違いないだろう。

 

「私の『理想の装丁』というものは、必ずしも、私個人の独創的なデザインの上のアイディアを反映しているという意味ではない。それは、ながい間、装丁の仕事をしてきたデザイナアであるならば、当然に行き着くところのぎりぎりのパタアンである。では、それはどういうものなのかと言えば、ただそこには、その書物の著者名と書名があるばかりであるといったようなものである。私が考えている書物の装丁の理想は、そういうものである。––後略」 北園克衛「装丁を感覚する」『朝日出版通信』4号より

 

北園は自己表現を目的としていない。

 

そのことは「行き着くところのぎりぎりのパタアン」が
「その書物の著者名と書名があるばかり」であるという箇所からもよく解る。

 

最高の表現とは自己以外の「価値がある何か」が表現されているということを、北園は確かに知っているのだ。

 

概して芸術はいかに自己を表現するかに執着しやすい。
しかし感動を促す作品は作家の自己や自我とはかけ離れた場所にある。
自我が照らす明かりの先に真理が見えた時に人は感動するのであって、方向性を指し示すだけでは、
そこに見るものは作家の個人的嗜好でしかないと思う。
赤色が好きな画家が赤を多用する作品を制作したとしても、その嗜好には意味はなく、
赤を通してどのような真理が見えてくるかと言うことに価値があるのではないか。

 

そのことをアカデミックに頭で理解しているのではなく、実践から導きだした答えとして身体で理解していることが
北園が現在でも輝いている理由なんじゃないかと感じた。

 

 

亡くなる直前まで発行し続けた機関誌『VOU』。全160号すべてのデザインを北園が手掛けた。

 

同じタイトルでこれだけ違った表情をつくれることにも脱帽してしまう。
今週末まで世田谷美術館で北園の作品をまとまって見れる展覧会を催しています。貴重な機会なので是非。

 

橋本平八と北園克衛展 異色の芸術家兄弟 世田谷美術館
~12月12日

 

図版出典:『橋本平八と北園克衛展』より

 

※この記事は2010年12月に投稿した記事の再掲載です。展示は現在は行っておりません。
過去のデータベースにアクセスできなくなったので一部加筆修正して掲載しています。

 

和火やってます。

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