すいせい

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このブログは
デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです

 

誕生から条件まで民藝ついて語ってきました。

 

現在では前述のように民藝という言葉が一人歩きし、 作務衣を着たひげ面のおじいさんが書く筆文字だったり、
やたらと無骨で座りにくい椅子だったりと、手作り感が前面に出過ぎてる表現を指し示すようになっている気がします。
もしくはお土産物のあるパターンを指すのでしょうか。
いずれにしても民藝とはスタイルではなく、抽象的でコンセプチャルな概念だと思います。
民藝の思想で一番素晴らしいと思うのは大いなる日常から 新しい価値観を導き出そうとしていた点です。
どんな優れた哲学や思想も日常から離れてしまうとその有意性を失います。
民藝の存在は日常に踏みとどまり、 そこで格闘し得られるものの価値を示しているような気がします。

 

一般論というものが馬鹿に出来ないのも同じ理由ではないでしょうか。
多くの人が生活の中で考え、総体的に浮かび上がってくる意識や意見は現実的で地に足がついているものです。
無意識で感じていることが顕在化して表出したものにはある種の普遍性が含まれていると言っても大仰ではないでしょう。

 

また一般論は数が多くなればなるほど、時を経れば減るほど強度を増し、その針はより正しさの方向を指すようになります。
もしかしたらそのような意識が数百年も口頭で伝わり神話や寓話になったのかもしれません。
優れた民藝を見ていると、神話を読んでるのと同じように人間のポジティブな姿勢や可能性を感じ、
崇高な気持ちになることがあるのはその為でしょうか。

 

また日常の中にある美の素晴らしさはその佇まいにあると思います。
優れたデザインというものは生活の中でことさらには主張しません。
目で見えないものが優れたデザインと言っても過言ではないと思います。
その存在すら気付かずに、しかし必要不可欠で日常を水のように満たしてくれるものこそ、最上のデザインではないでしょうか。
(広告は逆に目立つ必要がありますが、広告が純粋にデザインなのかはまた別の話です)

 

民藝の場合は改めて指摘されないと気付かないレベルまで昇華されていますので、その美しさとても儚(はかな)いものです。
しかしその儚さ故に価値は偉大なのです。 柳宗悦が民藝を考え出してから85年あまりが経とうとしています。
当初は機械生産を否定して、ややもすると近代化批判に陥ろうとしていた思想は
近代化が終わった現代社会をもう一度豊かにする為に見直されてもいいと思います。
なんと言っても素晴らしいのは 美しさを感じる為にとても高いお金を出す必要はなく、
日常を抜け出す為にどこか海外に行く必要もなく、ただ単に自分の周りを見渡すことから始めるだけでいいというところでしょうか。

 

簡単過ぎるがためにみんなが気付かないというのは国家的損失じゃないかと思うくらい (言い過ぎかな)、
とても可能性がある哲学だと思います。

 

<一応完結>

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