デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです
ヤンキーと伝統
ヤンキーのファッション、あるいは一時期流行ったガングロのギャル・ギャル男の奇抜さは、
人間の根源的な表現欲が行き場を失い、それでも発露を求める切実な状況を示している。
彼らは伝統が衰退することの物悲しさを声高に代弁しているのだ。
かかるスタイルは一般的に奇抜であるゆえに、個性的と捉えられているが、実際はどうだろう。
個性的というならば当然ながら「個」の表現がベースとなる。
例えばファッションの分野で個性を発揮しようと試みると、スタイルをそのままコピーするのではなく、
まずは自分なりのアレンジを加えることから始まると思われる。
いきなり全部をオリジナルの表現にするのは難しいので、部分的なアレンジを加えるのはどの分野も同じだ。
しかし世の中すべての人がそういうことに興味があるわけでもないし、
興味があってもセンスがなく、アレンジが上手く出来ない人もいるだろう。
興味がない人は別として、アレンジが上手くできない人々は、
雑誌などのスタイルをそのままコピーするような、コスプレに近い表現を選ぶと思われる。
ヤンキー、ガングロのギャル系のファッションも
「個」の表現を目的とするのではなく、そのようなコスプレ的表現を目指しているのではないか。
なぜなら、ファッションに本質的に由来する格好良さや美しさを表現しようとしているより、
型による(奇抜さによる)パフォーマンスに見えてしまうからだ。
あるいは、服を身に纏う喜びより、型を使ってでも表現しないといけない「業」のようなものを感じてしまう。
もちろんヤンキー・ギャル系の中にもアレンジし、オリジナリティを発揮しているひともいるかもしれないが、
マスで捉えた場合は、そのような傾向があると思っている。
ここで問題としたいのはコピーすることではなく、コピーする対象の方だ。
歴史的には、伝統の枠組みの中でコスプレすることは日常だったし、
伝統は良質の型を与えることができたので(それが伝統の役割なので)、それぞれの表現欲を満たすことができた。
センスのありなしに関わらず楽しむことができるセーフティーネットのような役割を果たしていたのだろう。
しかし現在のように伝統が衰退すると——つまりセーフティーネットがなくなると——
そういう人々は奇抜さという方向でしか表現欲を満たすことができなくなるのではないだろうか。
着物は日本の伝統的な服飾だとされているが、
現在のところ仕事に毎日着ていくという人は、専門的な職種を除いてほとんどいない。
実際に着物を着てみると、いかに街中が着物で生活するに適していないかがよくわかる。
日本の日常は言うまでもなく、非和服に適するように仕上がっていて、今後もそれがつくりかえられることはないと思われる。
伝統的であるが日常的ではないのは、その文化は重篤な状態であることを意味している。
このことは、乱獲が種を絶やしてしまうのではなく、
むしろその動物を含んだ生態系ごと失われていることのほうに絶滅の原因があるのと似ている。
口を揃えて着物の美しさを讃えてみても、それをアフォードする環境が失われていては、
今後ゆっくりと滅んでいくしかないのではと、嫌な予感が頭をよぎってしまう。
急速なグローバル化の中で世界的に伝統が失われている状況を考えると
ヤンキー的な表現が日本以外の場所で起こっても不思議ではない。
あでやかな民族衣装に身を包んだ人々は美し過ぎるので、伝統がもろくはかないことをいつも忘れてしまう
写真(上から) ベトナム・モン族 ペルー・ケチュア族 グアテマラ・カクチケル族
写真協力:「アフリカへ行こう」
※この記事は2013年12月に投稿した記事の再掲載です。過去のデータベースにアクセスできなくなったので一部加筆修正して掲載しています。
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