すいせい

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デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです

 

来客などがある際に散らかった部屋を片付けていると
その行為を来客のためにやっているのか、自分のためにやっているのかわからなくなることがある。

 

ゲストにとっては当然綺麗な方が望ましいと思うので片付けているわけだが、
自分をよく見せようとする気持ちもどこかにあると感じるからだ。
もっと言えば、見栄をはる気持ちというのか、普段よりも念入りに掃除をすることで、
自分はこんなにも綺麗好きなんですよ、とアピールしているような気もする。
なので純粋にゲストのためにやっているのかと問われると即答するのは難しい。

 

大学時代に、人を招き入れる際もあえて部屋を片付けないという友人がいた。

 

普段の自分に自信があるので、どんなに散らかっていてもありのままを見せられる。
片付けるのは自分に自信がないヤツがすることだと、いうのが彼の主張だった。
たしかに遊びに行ってみると、床にはほこりが溜まり、
脱ぎっぱなしの衣類はそのままで、ポルノ雑誌も隠されていない。
主張がなければ、ただのだらしないヤツという印象で終わるところだろうが
彼の演説を聞いたあとだと、散らかった様子や、ポルノを隠そうとしない姿勢にも説得力があり、
それなりに魅力を感じられるのが不思議だった。

 

これらのことで思い出すのは、クリエイティブディレクター佐藤雅彦さんの
エッセイ集で読んだひとつの寓話である。
その話には恥ずかしがりやの冷蔵庫とふてぶてしい冷蔵庫が出てくる。

 

ちょうど思春期の冷蔵庫は、扉を開けることを、とても恥ずかしがる。
逆に中年期の冷蔵庫のほうは、扉を開けることにまったく躊躇がなく、むしろふてぶてしいぐらい。
思春期の冷蔵庫の様子は、見ているこちらが困ってしまうぐらい恥ずかしがるが、
中年期の様は、躊躇がないのでそうは感じない。しかし何かを失ったようでそれはそれで残念である。

 

だいぶ昔に読んだので記憶が曖昧だがおおよそこんな話だった。

 

なぜこの話を思い出したのかというと、冷蔵庫の中身と部屋の中身が同じでないかと感じているからだ。

 

大学時代の友人の主張は、それはそれで興味深いものであるが、
訪れたゲストがどう感じるかという視点が抜け落ちている。
衣服が散らかっているのは許容できるかもしれないが、
トイレまで掃除されていないとすると、まあたいていの人は嫌がるだろう。
つまりその主張は自己完結しているだけで、ゲストの視点は含まれていないのだ。
例えばハウスダストアレルギーがある人を前にすると、彼の主張はまったく成立しなくなってしまう。
冷蔵庫で言えば後者のほうのタイプだろう。

 

一方の前者の恥ずかしがりやの冷蔵庫もゲストの視点が抜けている。
何を見せたら迷惑なのかという境界線がわからないため、見せること自体を躊躇してしまうからだ。
的確な判断力がなく、見せても迷惑でないものまで隠そうとする行為に困惑はしないが、
成熟した大人の振る舞いではないだろう。

 

自分はと分析すると、よりよく見せようとする虚栄心について悩んでいるのだと思う。
清潔であることは、行き過ぎても問題はないかもしれない。しかしそこに虚栄心が混ざると受け手は疲れると思う。
俗に言う鼻につくという状態だ。

 

訪れる人がどれだけ心地よく感じられるかだけを考え、掃除をする。
とても基本的なことだし、いっけん簡単なように思えるが、
けっこう奥が深く、おそらく茶道の一期一会の精神などにも通じる話ではないだろうか。

 

掃除ひとつとってもなかなか難しいものだと思う。

 

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ひとつの世界は、関係や脈絡がないものではなく
その世界観に沿ったものを選ぶことで、より強固で魅力的になっていく。
ほとんどの芸術はそのようにつくられる。

 

例えば映画だと、絵柄としての世界観が重要になってくるので
ある程度限定された範囲で撮影を行うほうが進めやすい。
ひとつの部屋の中というくくりと、街というくくりだとすると
前者のほうが、進める上でだいぶ楽なのは想像に難くないだろう。
部屋という箱に世界観を壊さない人物やモチーフを登場させればいいからだ。
いっぽうの街にはコントロールできない物事が溢れているので
どうしても難易度が上がってしまう。

 

デザインも同じで、例えばブランドを構築する際には
コンセプトに沿った要素だけを外さないように、注意深く選んでいく。
色や形、写真のトーン。フォントの選び方。文章のスタイルなど、
それぞれが世界観を構成する歯車のように噛み合う必然性が求められる。
当然ながら世界観に合わないものは、そのセレクトに入っていないほうが望ましい。
ブランドというのは、そういう意味で、囲む線のつくり方とも言えるだろう。

 

このいわば定石とも言う進め方がうまく行くと、力強いブランドが生まれるが、
そこにある種の息苦しさも生まれるものだなあと最近感じている。

 

つまり囲む線が強固であればあるほど排他性が生まれてしまい、
外れたものからの反発や、居心地や風通しの悪さに繋がってしまうと考えるからだ。
だったらと言って、逆になんでも受け入れてしまうと、ただ単に秩序を失った混沌ができあがるだろう。

 

気に入ったものばかりを自分の部屋に置きたいと考えて、
ハードルを上げて選んで行くと、緊張感がただよう美しい空間ができる。
このペン立てでなければ調和が壊れてしまう。モノトーンから外れた色合いの家具は置かない。
壁や床の素材を吟味してさらに完成度を高める。
自分もそのように選ぶことが好きだが、最近は上記で述べたようなことを逡巡し始め、
豊かな環境やデザインに対してもっと別のアプローチがあるのではと考えている。

 

モダニストの建築家が昭和初期に自分のために設計した邸宅に入ったことがある。
RC造のその建物は多くのものを受け入れながらも成立していた驚くべき生活空間だった。
テーブルにはドラッグストアで買ってきたティッシュペーパーがそのまま置かれ、
壁には新聞社からもらったカレンダーがかかっていたが、全体が美しく調和していた。
排他性を感じないので、緊張感がただよわず、とてもリラックスできる。

 

なぜなのか分析していたら、庭を含む建物の完成度が非常に高いからだとわかった。
つまりそれだけ考えられていると、多少の調和を乱す要素が入り込んできても、
受け入れる寛容さが生まれ、建築の質は揺らがないのだった。

 

豊かなデザインとは、多くを受け入れながらも、秩序を保ち成立する寛容さ。
そう定義付けて、今年の抱負にしてみようか。

 

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