デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです
悪と善のゆらぎ
少し前から「ちょい悪オヤジ」という言葉が気になっている。
ちゃんと目を通したことはないけれど、レオン系の雑誌などによく登場している不良っぽい中年のことである。
ただの「オヤジ」ではなく「ちょい悪」と頭についていると普通の中年よりもモテたり、魅力的に見えるらしい。
出始めのころは、冷ややかに見ていたのだけど 最近では「ちょい悪」って確かに魅力があるなと思うようになってきた。
イタリアンジャケットの着こなしやいい革靴に精通しているなどといったスタイリングについてではなく、人の在り方の話である。
このあたりの「ちょい悪」感の説明は音楽を例に取るとわかりやすいかもしれない。
おそらく悪(ワル)ってことをマーケティングに利用し、
成功をおさめたのはマイケル・ジャクソンの『Bad』という曲とアルバムが初めてではないだろうか。
もちろんずっと以前から他のミュージシャンによって、表現されていた世界だけれど
明確にメインストリームで使われたのはこの曲が最初だと思う。
マイケルほどの世界的なミュージシャンが曲のテーマにBadを掲げ、そしてそれが受け入れられたことがなかなか興味深い。
マイケルの音楽は、嫌な言い方かもしれないが、表現以前にビジネスと結びついているので、
極端に過激なことはできない仕組みになっている。
変なことをやろうとすると役員やマーケターなどから横槍が入るからだ。
つまりリリースするということは、Badというネガティブなテーマでも炎上しないし、
世間に受け入れられるという判断があったのだ。
I’m bad-you know it You know I’m bad I’m bad-come on you know
And whole world has to answer right now Just to tell you once again,Who’s badなあ俺は悪だろ 俺は悪い奴だろ なあ俺は悪だろ
いますぐに世界のみんなに答えてもらおう もう一度言う、誰が悪なのかMichel Jacson『Bad』より抜粋・拙訳
もちろんマイケルが表現したかったのは、犯罪に関わるようなBad=悪ではない。
表現したかったのは「いいことだけしていたり、正しいことばかり言う人間は魅力的ではない。
それよりは、法律違反はしないまでも、善の領域を少し逸脱する人間の方に魅力を感じてしまう」ということだと思う。
これはなにも別に、悪いことをすればモテるというような厨二病的な意味ではなく、
人の魅力、あるいは普遍的な人の価値ってのは善と悪の間をゆらいでいるということだ。
宗教戦争やテロの例を見るまでもなく、善や正義の名のもとに行われる人間の振る舞いは 逆に悲劇を生むことのほうが多い。
善を標榜した瞬間にうさんくさくなってしまうことを人は本能的に知っているので、
Badというテーマにバランス的に心惹かれるのだと思う。
Badよりさらに過激な、死や死体や地獄というテーマを扱うデスメタルや
暴力性が強調されたハードコア・パンクなども構造としては同じだと思っている。
ダメージのある服を着ていたり、不健康そうなメイクをしているので
一見ネガティブなことを表現しているように思えるのだが実は裏には「善」や「生きること」への強い肯定があるのだ。
同じマイケルの曲でも、世界平和を歌った「We are the world」が
いまいち魅力に欠けるのは、基本的に人々の軸足が善エリアに置かれているからだろう。
意識としてふだん善の比重が多いからこそ、悪の方向に向かう必然性や意味が生まれてくるのだと思う。
いい人でいることや生きることを肯定するのは当たり前、
でもだからといってそのことをストレートに表現してしまってはうさんくさいし馬鹿っぽい。
モテる人ってのはそのあたりを上手に表現しているんだろうな、きっと。