デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです
やわらかな古染付
昨年の夏くらいに骨董市で買った器。
なるべく知識で見ないようにしているが、いい物だなと見惚れて、若い店主に聞くとやはり古染付だと言う。
リムが付いているのは割と珍しく(リムの魅力についてはまた改めて紹介したい)、
値段もこなれていたので、はじめての古染付を手に入れてみた。
古染付(こそめつけ)とは江戸時代くらいに景徳鎮で焼かれていた器類のことで、
中国本土では見つかっていないため、日本の茶人の依頼によってつくられたと言われている。
色んな良さがあると思うけれど、洗練されきっていない、大らかでのびのびとした、
むしろ完成を避けるような器づくりに個人的な魅力を感じる。
家に帰り、荷を解き、テーブルのうえに置く瞬間がいちばん楽しみであり、また緊張する。
なんというか自分にとっての日常の象徴であるテーブルに、買ってきたばかりの非日常である骨董が置かれるとき、
今後それを楽しんでいけるのか露わになるからだ。
骨董市でいいなと思って見ていてもテーブルに置いたら違って感じることもあり、その辺はなかなか難しい。
まあ結局のところ自分の目が甘く、正しく見れていないということだと思うけれど、
机に置くことは資金石というか、ひとつの基準となっている。
この古染付に関しては素直にいいなと思った。
もちろん他のものでも同じくらいいいと思うこともあるので、
とりわけ感動はしなかったが、愛でるにはじゅうぶん良かった。
しかしここからが古染付の凄さなのだが、以来ずっとテーブルのうえに置いて楽しんでいる。
このようなことはいままでなかった。
見ていたいという気持ちがつづき、仕舞い込むことなく半年以上も経ってしまった。
ふだんは邪魔にならないようテーブルの隅にあって、目の端に入れていたり、
ときどきはじっくりと観察しているが不思議と飽きることがない。
もちろん器としても使いやすい。
「飽きることとは理解すること」といったのは元上司の原研哉氏であるが
その言葉を借りるとすると、いまだこの器の魅力を理解できていないのだろう。
一見3枚とも同じような大きさと模様だが、時間が経つと、優劣があるのがわかってくる。
時間をかけてわかることがあるんだなあと所有することの大切さを感じる。
この1枚がとくに優れている。
絵付のバランスがいいのはもちろんだが、特筆すべきはテクスチャー。
特有のミルキーな釉薬が薄くかかっているので、硬質な磁器であるにも関わらず、
表面にまるで液体のような柔らかさを感じる。
僅かな差が深みを生んでいる。
いまだ飽きずに理解できていないということは、
このつくり手なり、依頼主の意図するところが自分の想像を遥かに超えているということだ。
エベレストのように高い山は、ふもとから全容を把握することができない。
もしかしたら生涯かけても理解することはできないのかもしれない、となかば諦めに近い気持ちになってしまうのも、
古物を集める楽しさだと思っている。
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※作家活動やってます。
引っ越しました
年始にお伝えしていましたように、鎌倉に移りました。
工期が遅れていたのと、内装を部分的にDIYでやっている関係で、予定よりも時間がかかってしまいましたが、
今月のはじめ頃に引っ越しました。
まだまだ未完成を残していますが、住みながら少しづつ完成させていこうと考えています。
今回の家づくりで意識したのは、日本的な建物にしたいということ。
◎素材コンシャス
◎シンプル
◎地域性
これらの3つの要素を日本的と捉え、指標としました。
素材コンシャスとは茶の湯から続く、日本人独特の素材に対する感性で、もともとは千利休が見出したと考えています。
自然が豊かな環境で育った日本人のDNAには素材を尊ぶ感覚が刻まれているのではないでしょうか。
例えばそのことは、寿司屋のカウンターが、白木の一枚板でつくられていることに象徴的に表れています。
諸外国であればペンキを塗ってしまうところを、あえてそのままを楽しむ。
今回建てるにあたって、RC造を選んだのですが、それはコンクリートという素材を最大限に活かそうと考えたから。
木材の素材を活かす在来工法の選択肢も考えましたが、高気密・高断熱の面からRC造となりました。
なるべくたくさんの素材を使うことも意識しました。
コンクリート、石、木、紙、金属など素材が豊富な切り口も日本的だと考えています。
そして大事なポイントとしては塗装をしないということ。
塗装してしまっては素材感が活きません。
黒色が欲しいと思ったら、黒の石材を使う、茶色が欲しいと思ったら木材を使う、など
色を塗装で表現しない建物としました。
(木材などを保護するためにオイルやウレタンを塗布することなどは例外です)
シンプルとは素材感を活かすということ。
せっかく素材を活かそうと思っても、白木のカウンターが
レリーフでびっしりと埋め尽くされていると、素材の良さを享受しにくくなります。
桂離宮をはじめとする日本の伝統建築がなぜシンプルなのか、その答えも素材を活かす必然と考えると見えてこないでしょうか。
シンプルさと素材感は表裏一体の関係にあると考えています。
居住する地域にはそれぞれの気候風土や文化があります。
沖縄と北海道では当然求められる機能が異なるため、同じ建物を建てることはできないでしょう。
あるいは無理やり建ててしまっても快適ではないと思います。
その地域での快適さを素直に追い求めていくと自ずと地域性が出てくると思います。
以上ひとつでなく、3つを掛け合わせることで、日本的な建物が出現すると考えています。
そして総合的には、新聞社が年末にくれるようなカレンダーを壁に貼っても成立する建物を、ひとつの理想としていました。
カバーを付けない剥き出しのティッシュをそのまま置くということでもいいですが、
調和を求めすぎず、雑多に暮らしても受け入れてくれる懐の深さがあるという意味合いです。
どうやったらそういう建物をつくれるのか建築家に相談したところ、
構造を見せられる建物になっているか、そしてその構造を見せているかではないかと解答いただきました。
例えば合掌造りの家は新聞社のカレンダーを貼ってもビクともしないでしょう。
なぜならば構造を見せる前提で手を抜かずつくられているからです。
逆にいま現在量産されている経済性を優先した家は、プレカット材をボルトやネジで締めるだけだったり、
接着剤やタッカーなども使われており、躯体をあらわにはできません。
やみくもに構造を見せればいいということでもないと思いますが、機能美である梁や柱が露出しているほうが、建物として魅力的に見え、
そのことが懐の深さに繋がるのではないでしょうか。
構造をそのまま見せることができるからというのもRC造にしたひとつの理由です。
未完成なので全体をお見せできないですが、できあがったらまたアップしたいと思います。
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Anselm Kiefer SORALIS
マテリアリズムとは何か
今回家を建てるにあたって素材感を強く意識したということはここに書いた。
また桂離宮がモダニズムとは違う概念ではないかということも、以前中国から帰ってから考えていた。
素材を活かすことは、日本的な表現と密接に結びついており、建築だけでなく、
グラフィックデザインや工芸、料理の分野においても切り離すことはむずかしい。
いや、むしろ素材を活かさないで日本的な表現などできないのではないだろうか。
ややもするとひとは手を加えたくなる。
それは素材云々のまえに、プレーンな状態は、なにも仕事をしていないという意識に繋がり、
コミュニケーションとして成立しにくかった背景があるのだと思う。
世界的に見ると、装飾などが施してあるほうが売り買いのときにもお金を取りやすいし、
プレゼントするにしても、ああこんなに手が掛かった物をもらったと納得されやすい。
権威を示す際にも装飾があるとわかりやすいだろう。
しかし日本という非常に高いコンテキストのなかでは、
阿吽の呼吸のようなコミュニケーションが存在していて、その密度の高さが装飾的なものを遠ざけていたと考えている。
自然が豊かなことも強く影響していて、島国の独自の文化と環境が掛け合わさって
素材をエクストリームに尊ぶ、世界的にみても珍しい価値観が育成されてきた。
一方のモダニズムは基本的に機能性を求め、ミニマリスティックなアウトプットを目指す。
素材感が邪魔とまでは行かないが、無機質なマテリアルのほうが機能優先の価値観により合致する。
例えばグラフィックデザインで言えば、いわゆるゴシック体がモダニズム的な表現と結びついてきたのは、
書体の構成要素であるセリフが必要ないという、機能主義的な側面から判断されたからである。
ゴシック体の黎明期にはその無味乾燥さに拒否感を示すひとも多く、グロテクス体と揶揄することさえあった。
もちろん素材を生かしたモダニズム的表現もあるとは思うが、装飾的なもの伝統的なもの地域的なものなどを遠ざけることによって
モダニズムが成立しているとすると、素材というファクターはあまり重要視されて来なかったのではないだろうか。
桂離宮をはじめとする日本の建築様式はモダニズムとは異なり、素材の良さを表出させ、
顕在化させるために余計な要素を削ぎ落とす、素材主義=マテリアリズムなのではないかと思っている。
建築物に限らず、日本のデザインはシンプルとカテコライズされることが多いし、
ブルーノ・タウトも桂離宮をモダニズム建築としてヨーロッパに紹介したようだが、実際のところは似て非なるものではないだろうか。
日本刀と寿司と桂離宮は並列に比較することができると思うし、
コンクリートを主体的に扱う安藤忠雄が、日本から出現したのもこのマテリアリズムがあるからだと考えている。
週末から香港に旅行に行ってきます。文化大革命を免れた中国に興味があり、昨年は台湾を訪れました。
香港(厳密に言うと香港島)も本土にありながら直接的な影響を受けていないとされ、
数千年続いた中国の歴史が残っているかどうか見て来たいと思います。
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苔むすお札
日本のお札を見ていると、そのイメージの基本となるものが、苔から来ているのではと感じるのは僕だけだろうか。
それは色合いでもあるし、意匠でもあるし、紙の質感でもあるのだけど、
なんというか全体として苔むした岩のようなものを目指してデザインしているように思える。
国家として、ある意味では一番信用を得ないといけない局面で、苔的なものが表出する不思議さを考えてみたい。
日本の中にいる分には苔っぽいと感じることはあまりなくて、海外旅行などで、オレンジ系や派手なお札を目にした時に、
「派手だとありがたみがないなあ」とか「もっと色調を抑えた方がお札っぽいのでは」と意識することから始まる。
見慣れたものが変わることでの違和感は差し引いても、日本人としては、
彩度が高かったり、色の組み合せが派手だと、お札としてはふさわしくないと感じるのだろう。
識別性という観点では、似た色調でない方が望ましいが、日本のお札はくすんだ色調の中からのみ選ばれていると思われる。
彩度が高い色を好まない傾向が日本にはあるかもしれないが、原色をそのまま用いるような伝統的な表現も少なくなく、
漁師が使う大漁旗などは気持ち良いくらいに原色で構成されているし、日光東照宮や伊藤若冲の絵などにもなんのためらいもなく使われてきた。
ド派手な色を好まない大和的意識の傍らで、南方系の原色を使う文化も脈々と受け継がれてきたのだ。
つまりパレットには様々な絵の具が出ているが、渋い色しか使っていないと思われる。
もちろん渋いだけでは苔っぽくはない。赤系や茶系でも緑系ベースの色調を保持していること、
その赤や茶が全体にではなく部分的に分布し、あたかも岩肌に自生する苔の様にみえることなどが主な要因だと思う。
面白いのは緑系ベースのみでまとめられている千円札よりも、一万円札などの緑系×赤系のミックスの方がより苔感が出ている点だ。
緑だけの色調だと、他の植物も想起するが 赤や茶色が混ざることで石を覆っている苔という状態が明確になるからかもしれない。
君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて 苔のむすまで
この歌の解釈はいろいろとあるだろう。
しかしいずれにせよ誰かの未来永劫の繁栄を願うことは共通していて、その比喩として苔が用いられている。
古来より苔は、日本人にとって「得難いもの」「かけがえがないもの」の象徴とされてきた。
苔を見るとき、人はいろいろなことを想像する。
その生育の遅さを考え、目の前に広がる面積を埋め尽くすには どれだけの時間がかかるのだろうかと。
その不可逆性を思い、どれだけ長く踏み荒らされていないのだろうと。
京都の苔で有名な西芳寺、いわゆる苔寺も、その面積を埋め尽くすのにどれだけの時間と労力を費やすかを
見る人に想像させて完結する部分があるだろう。
苔は特別な植物なのだ。
現在において手にすることができない最も象徴的なものがお金だとしたら、
苔を尊ぶ民族は、国歌や庭だけではあきたらず、紙幣にまで苔を生やしてしまったのだろうか。
◎写真協力
大漁旗の写真:女川みなと祭り|マイノートblogより
※この記事は2013年12月に投稿した記事の再掲載です。過去のデータベースにアクセスできなくなったので一部加筆修正して掲載しています。
※和火やってます。
※作家活動やってます。