すいせい

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デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです

染付け礼讃

2022.09.30

趣味である骨董市には相変わらず、ぼちぼちと通っております。

 

今回は買ったもののなかから、いまハマっている染付けの器をご紹介。
器に興味がないひとにはおそらく、いや間違いなく面白くないでしょう。

 

骨董市に出掛けたら、目下染付けを買い求めることが多いのですが、それは割と最近のことです。
瀬戸物と言えば真っ先に思い浮かぶくらいに、まあ染付けはベタなジャンルですし、
時代がかったイメージもあるので、以前はそんなに食指が動きませんでした。
しかし和食を盛り付けることを目的とするとバランスが絶妙で、いまや真逆の評価となってます。
日常的になり過ぎて、ちっとも有り難みがなさそうですが
そのありふれてしまっている状態こそが染付けの偉大さではないでしょうか。

 

当然ピンからキリまであり、古くは12世紀あたり、中国の古染付やベトナムの安南焼などまで遡ることができます。
いいものは当然それなりの値段がしますが、高いものが必ずしも料理を盛り付けた際に映えるかというとそれはまた別の話で、
手頃な値段で、盛り付けしやすく、料理が美しく見える、そんな条件を自分なりに探すのが、
——おそらく器好きの他のひともそうでないかと想像するのですが——骨董市を巡る楽しみのひとつであります。

 

これは中国の明か清あたりの9寸皿。安南焼ではないですが南方系でしょう。
ゆったりとした流水紋(?)とおおらかな福の文字、余白の淡い青がいいバランスです。
金目の煮付けとか映えそう。

 

古い染付けは伊万里焼などもそうですが、地が真っ白ではなく、うっすらと青味を帯びているのが魅力のひとつなのかなと思います。
これは意図的なものというより釉薬に不純物である鉄分が混ざっていたから。

 

土そのものであるような黄褐色の器から始まり、
技術の向上によってだんだんと複雑で高度な意匠や釉薬を施すことができるようになりましたが、
常に人々の頭の中には真っ白な器をつくり出したいという願望があったのだと想像します。
土っぽさや野生っぽさから離れるのが文明の証だ、とまで考えていたかはわかりませんが
有機的な要素を排していくことで出現する無機質な白さに、うっとり酔いしれるくらいのことはあったのではないでしょうか。
一方の現代では高度な技術力のお陰で、安定して白色度が高い磁器をつくりだせるようになりました。
ただ反比例して深みや味わいなどが減じていくトレードオフの関係は否めないと感じます。

 

たとえばこのくらわんか(8寸皿)あたりの青っぽい白さが、料理を盛り付けしやすいですし、いちばん美味しそうに見えると感じています。
上の流水紋皿はそういった意味でやや青さが干渉してくるんですよね。

 

あと古い物は、絵付に使われる呉須が天然の顔料のため、藍に独特の深みがあるのも魅力のひとつ。
時代が下ると人工的に呉須がつくれるようになり、絵具のように鮮やかな藍色が出せるようになりましたが、
やや彩度が高すぎるかなと思うことがあります。

 

これは中国の最近の民藝で、巧みな絵付けの碗ですが、藍の色がもう少し落ち着いていたらもっといいかもしれない。

 

一方このアラビアのカップはいわゆる染付けではないですが、人工的な呉須のほうが合うのかなと感じます。
ただこれもトレードオフであり、どっちがいいかは好み、主観の範囲だと思います。

 

変形皿も最近探しているジャンルのひとつです。
ろくろを回す関係で器は必然的に円形が多く、食卓に丸い器が並びがちになるので
角皿やオーバルなど円形以外の形を意識的に取り入れるようにしています。

 

ちょっと食欲がないときのお昼ご飯などに、インスタントのワンタンスープを食べることがあるのですが、
そんなときはこのベトナムの安南焼に盛っています。

 

器蒐集は物質主義の側面が強いですし、しょせんは虚しい物欲に過ぎないという意見は否定できません。
しかしながら、良質な器がもたらす精神衛生的な作用を、常日頃感じているので、
世の中が100円ショップで売っている器で十分だとは自分にはとても言い切れない。

 

鬱病なり、統合失調症なり精神的な病が、現代社会で増えているひとつの要因に、
逆に物質を軽視している背景もあるのではないでしょうか。
合理性を追求した結果、プラモデルのようなサイディング仕上げの家々が街中に増殖していくのを見るにつけそう感じます。

 

生活を大事にするところからデザインの仕事は始まると考えており、
簡単にインスタントのスープでお昼を済ませる場合でも、器だけはきちんと選べたらと思っています。

 

和火やってます。

作家活動やってます。

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ウェブやSNSなどで、ときにコメントが一極集中して投稿される様子を炎上と呼んでいる。
一般的にはネガティブな言葉として使われることが多いだろう

 

もちろん批判が大半の炎上もあるが、賛否が50/50くらいの場合は、実は有意義な問題提起がされている可能性が高い。
どちらかが優位でなく、肯定的意見と否定的意見が同じ程度入り混じる状態は、
本質をついた重要な議論が行われていることの証ではないかと考えるからだ。

 

のちに歴史的な意味を持つ芸術作品が現れるときも同じような現象が起こる。

 

たとえば1863年に画家のエドゥアール・マネが『草上の昼食』で女性のヌードを描いたが、
キリスト教的価値観では女性のヌードはタブー視されていた背景があったため、賛否が巻き起こった。
もちろん西洋絵画でマネ以前にもヌードは描かれていたが、
神話などに登場する神々などの実在しないモデルのみというエクスキューズ付きで、
リアルな対象として描いたのはマネが初めてだった。
女性のヌードというテーマはある程度答えが出ているので、
いまとなっては問題視されないだろうが、当時は炎上に近い案件だったようだ。

 

エポックメイキングな作品は、往々にしてひとびとの概念の外にあり、
ある種タブー視されているモノゴトも含んでいるので、諸手を挙げて賛成とはならず、
どうしても反発する勢力が出てきてしまう。

 

そういった問題提起で大事なのは、
好きでも嫌いでもないけど、まあいいんじゃないかななどという生ぬるい反応ではなく、
「素晴らしい作品だ」「こんなものは芸術ではない」と世間を二分するくらいのコンフリクトを生むこと。
そもそも話題にならないのは重要なイシューではない。

 

ピカソのキュビズムやウォーホルのシルクスクリーンの作品なども、同じように芸術論争を呼んだし、
現代ではダミアン・ハーストやアイ・ウェイウェイ、
日本だと会田誠らは二極化しがちなテーマを積極的に扱ってるように見える。

 

表現の不自由展もだいぶ物議を醸したが、補助金の受給や芸術と政治の関係など、いろいろと考えるいい機会になった。
単純に美しく心地いいものだけが芸術だと考えていたひとにとっても、
法定の場で真逆の結論が出たことによって、それまでの芸術への理解が変わったのではないかと想像する。
そういった意味ではおおきな問題提起だったと思うし、
おそらく100年後くらいには、なんであんなことで騒いでいたのだろうと意識が変わっているのではないだろうか。

 

ほとんどの大事なものごとは炎上から始まるのかもしれない。

 

 

※映画や本をアマゾンなどで探すときにも、上記のように評が割れているものを目安にしています。

 

和火やってます。

作家活動やってます。

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最近塗装することの意味を考えている。塗装とはなにか?

 

例えば木材で机をつくる場合に、とてもいい材質の無垢板を入手できたとしたら、
それを塗装して仕上げようという人はあまり多くないだろう。
表面を保護するために透明なニスやウレタンなどを塗ることはあるだろうが
分厚くペンキを塗ってしまうのはもったいないと感じてしまう。

 

ではベニヤ板や集成材などが材料だったらどうだろう。
材質の良さを積極的に見せる必要がなくなったぶん、塗装して仕上げる割合がグッと上がる気がする。

 

あるいはRC造のコンクリートの打ちっぱなしの壁があったとしたら、
素材感を活かすために塗装しないひとが多いのではないだろうか。
いっぽう合板が相手だとすると、ペンキなどの塗料で仕上げることに抵抗は少ないと思われる。

 

つまり塗装するひとつの目的に、材質が劣っていることを見えなくする意識があると考えられる。
保護する意味もあるだろうが、色や質感に影響が少ない透明な塗料を選ぶこともできるので、
このケースでは隠してしまうことが主目的だろう。

 

もちろん置かれる環境とバランスを取るために、初めから机を白くしたい場合もある。

 

バランスを取るために、家具や壁などの色をコントロールすることは
ごく一般的に行われていることであり、こちらを目的として塗装することのほうが多いかもしれない。
しかし塗装すると、色の調和は良くなるかもしれないが、
素材感は薄くなるので、木材が木材である必要性も薄くなり、代替可能になってくる。
3Dプリンターなどを使って、樹脂で同じ形状の机を制作し、塗装してしまえばパッと見はわからないだろうし、
硬さや密度感などを近づければ、持ってみてもわからないかもしれない。

 

塗装すると色のバランスや保護面でのメリットがあるのは確かだが
木材や金属や石などの素材そのものの色には敵わないだろうと考えている。
少なくとも自分は、どんなに優れた塗料があったとしても、
黒い石材を黒く塗装しようとは思わないし、白い漆喰の壁を白く塗ろうとは思わない。
塗装するのは、それぞれの色が素材として用いることができない場合に限られる。

 

メンテナンスから言うと大変なのに、なぜ高級寿司屋のカウンターが檜の白木なのかよく考える。
おそらく日本人の意識の根底に素材を尊ぶ感覚があり、
かけがえがのない価値のありかたと結びついているからではないだろうか。

 

ちょっと高めの寿司屋のカウンターに座り、寿司を握ってもらうのは、
ハレの日の特別なことなので、当然その価値に合うサービスを求める。
ペンキが塗られたカウンターは日本人を喜ばせないし、ましてやなにも塗られていない分厚い一枚板を欲する。
世界的には模様を掘ったり、色を塗ることのほうを尊ぶ国のほうが多いので
(つまりわかりやすく仕事がされているのを喜ぶので)、このことは日本独特の珍しい感覚だと思われる。

 

考えてみれば、握り寿司も、極力手を加えずに素材をどう活かすかという、
とても日本的な視点でつくられる料理の代表格である。

 

寿司屋の白木のカウンターは、なぜ塗装しないといけないのかという問いを投げ掛けている。

 

 

 

 

※日本古来の漆が塗装かどうかは、なかなか難しい問題だと思う。
英語だとLacquer(ラッカー)と訳されるが、それはちょっと日本人の感覚からすると乱暴に思ってしまう。
おそらく塗料でもあるが素材という側面も持っているからではないだろうか。
何層にも重ねて塗ることで厚みが出るので、素材として認識しているのかもしれない。

 

 

和火やってます。

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宗教とは何かと、知識もない、素人の頭で考えている。

 

いろいろと世間を騒がせている大きな宗教から土着的な民間信仰まで、さまざま宗教が存在しているが、
共通しているのは、合理的に説明がつかない物事について、答えを与えてくれる役割だろう。

 

死んだらどうなるのかとか、なぜ自分だけ病気に苦しむのかとか、
人間関係で不幸になってしまうとか、人は生きている限り、悩みがつきない。
世は不条理なので、その不条理さについて納得いく答えをどうしても求めてしまう。

 

現代は無宗教の時代といわれて久しいが、それはおそらく、
インフラや科学などの発達によって不条理さがある程度軽減されたからではないだろうか。
大規模な災害が起こる頻度も土木工事の発達によって減っただろうし、
難しい病気も、医学の進歩により、治療できるようになった。
いわば宗教を他のものが代替するようになった。

 

だがしかし世界はどこまでいっても不条理なので、災害は起こってしまうし、ひとは病に伏せってしまう。
この世から宗教がなくなることはないだろうと思う。

 

宗教はマイノリティや社会的弱者から発生することが多い。
キリスト教は、ユダヤ人しか救わないユダヤ教に対してのカウンターだったし、
仏教もバラモン教によるカースト制度から、最下層の不可触民を救おうとした。
オウム真理教をはじめとするカルトもその傾向が強いと思う。
あたりまえのことだが救われるひとびとがあってはじめて宗教は成立するのだ。

 

貧乏な家庭に生まれたり、器量が良くなかったり、持病があるひとのほうが、
生きづらさを抱え、向き合わなければならない問題が多い分、より多くの答えを持っていると考えている。
性的なマイノリティは、性について悩み苦しんで生きている分、宗教家に近いと言えるだろうし、
民族のマイノリティ、ADHDやHSPなどの悩みを抱える人々も同様だと思う。
生きづらさ自体は苦しいものなので、もちろん誰も望むことはないだろうが、
そのつらさを乗り越えて、解消することができたら、自分以外のひとびとも救える力となる。

 

でここからちょっと物騒な話になっていくが、人間にとって最もマイナーで、問題を抱えている存在はなにかと考えてみると、
人をあやめなければ生きていけないサイコパスが挙げられるのではないだろうか。
人間が持ちうる最も救い難い心の闇とは、人を殺すことでしか癒されない種類の欲望だと推察される。
本人はその呪われた宿命を背負い、欲望を発散したい気持ちにかられつつも、
なぜ自分だけがそのような病を有してしまったのかと、社会との軋轢に苦しんでいる側面もあるのではと想像できる。

 

だとすると本人がその心の闇を解決できる方法を思いついたら、
人類にとって最大なネガティブを最大なポジティブに転換でき、ひとびとを救う宗教になりうるのではないか。
サイコパスの心理は人間の本能の奥底とも繋がっており、全般的な心の問題を解決する糸口にもなるのではないかという気もする。

 

Apple好きなひとびとをApple信者などと表したりと、ブランドと宗教は似ていると言われている。
ミュージシャンやアイドルなども宗教家に近いかもしれない。
前述したようにそれまで宗教が担っていた役割が分散され、問題解決を他が代替するのが現代の特徴だとすると、
今後さらにその傾向は強まっていくのだろう。

 

不条理ささえも忘れさせてくれる熱狂的なブランドが出てきたら、宗教になりうるのだろうか。
いや、推しのアイドルを神と呼ぶファンにとっては、もうすでにそのような存在なのかもしれない。

 

 

和火やってます。

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味を理解する

2023.08.29

子供のころは苦手だった食べ物が大人になり食べられるようになる、
あるいはむしろ好きになるということがありますね。
苦かったり、クセが強かったりするものに多いかもしれません。

 

その理由として、一般的には味覚の鋭敏さが大人になるにつれて衰えるからだと考えられています。
舌に並んだ味を感知する味蕾というセンサーが、30代以降になると子どもの頃の1/3くらいまで減少してしまい、
苦みがあるものや風味が強いものも食べられるようになるというわけです。

 

僕は、この医学的な理由の他に、理解力が影響しているのではと考えています。
味蕾が衰えるだけでは、例えば苦味を好むようになるといった変化は説明できないと思うからです。

 

子供のころはわかりやすい美味しさを求めます。
赤ちゃんなんかはとくにそうですが、知識や経験が少ないぶん、摂取するものを動物的に選り分けないといけません。
甘みや旨味=「安全」、苦味や酸味=「危険」という人間の本能が強く働くことで、安全な範囲のわかりやすい味を好むのだと考えられます。
大人になると身体に悪いものは識別できるようになるので、一見不味いと感じる食べ物であっても、
余裕を持って味わい、それまで気付かなかった美味しさを発見することができるのではないでしょうか。

 

たとえば、パクチーのような食べ物は、
子供の頃はその風味が理解できず(おそらく毒草のカテゴリーに分類されるので)、避けるのが一般的です。
しかし経験を重ねると、嫌いだった特徴的な香りを、逆に楽しむものなのだとわかるようになります。
最初は本能的に拒絶しますが、毒ではないという理解が進むことで、だんだんと好きになる変化が起こるのだと想像します。

 

そしてそのポジティブな変化は料理によるところが大きいと思われます。
腕の良いシェフのひと皿はパクチーをつかう必然性や意図が理解しやすいからです。
いままでは嫌いだったけど、こういう角度でこういう風に食べれば美味しいなと、
わかりやすくプレゼンされると、苦手だった食べ物が好きになる可能性が高くなると思います。
そういった意味では世の中に不味いものはなく、まだ自分が理解できていない味、
もっと言えばいつかは理解でき、好きになる味なのかもしれません。

 

(とはいえパクチーはカメムシの匂いがしてどうしてもダメだという人もいます。
嗅覚のレセプターは遺伝によって決まるので、ある人にとってはいい匂いでも他の人はそうでないという差が
どうしても生まれてしまいます。おそらく味覚も同じようなものなので、好き嫌いをなくすには限界があるのかもしれません)

 

味覚は男性のほうが保守的と言われています。

 

一般論になってしまいますが、女性のほうが料理をする機会が多いので、
育った家庭の味から早い段階で離れることができ、自分のあたらしい味覚を獲得するからではないでしょうか。
一方の男性は家庭料理が味覚のベースのままなので、冒険をしない保守的なタイプが多い。
パクチーが苦手な割合は男性のほうが多いというのもわかる気がします。

 

理解力は「味」に関してだけでなく、その他の五感についても言えることだと思っています。
年齢とともに聴覚も衰え、だんだんと高音が聴こえなくなりますし、視覚も場合によっては見えづらくなります。
ただそのぶん複雑味や奥深さなどへの理解は、トレードオフのように広がっていくのでしょう。

 

本能的な反応や反射を、いかに知識や経験などによってコントロールし、その先にある価値に気付けるか、
これがひとつの「大人」の基準となるのかもしれません。

 

写真は大人の味の代表格?と勝手に思っているカラスミです。最近購入した古染付に乗せて。

 

 

そういえば遅ればせながらすいせいのインスタグラムを始めました。
あまり更新しないですがフォローいただけますと幸いです。

 

 

 

和火やってます。

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