デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです
まるでギターを持つ少年のように
最近ゴッホに魅了されている。
ゴッホといえば、西洋絵画の基本中の基本、知らないほうが難しいくらい有名な画家であるが、
いままで琴線には触れることもなく、完全にスルーして過ごして来た。
しかし昨年あたりから、むずむずと気になるようになり、少しづついいなあという気持ちに傾き始め、
最近では、うむ、やはりゴッホは天才だと独り言ちるまでとなった。
子供のころから絵が好きで、美術系の大学に進学し、いまはデザイナーを職業としているが、
すべからく絵画を理解しているわけでないし、またする必要もないと思っている。
心が動かない物事は、そのままでいい。世間の評価に迎合して、好きになったふりをすることはないのだ。
まあとにかく、そういうわけで、いまはゴッホがだいぶ好きになってしまい、先日も上野のゴッホ展に出かけてきた。
ゴッホの魅力をひと言で表すとすると、ロック魂に溢れる表現となるだろうか。
青春という時期を過ぎて大人になると、ひとびとは「純粋」ではいられなくなる。
これは良い悪いの話ではなく、職を得て、働くようになると訪れる自然な現象である。
学生のうちは純粋さを武器に理想論を振りかざすことはできるが、
実際の世の中は様々な欲望がひしめいていて、そのまま受け入れるしかない。
ある種、「諦め」の連続が、大人になるということかもしれないし、
また「そういうものだ」といちいち失望しないことが、振る舞いとして大事なのではと思う。
もし青春を定義できるとしたら、それはまだ世の中に出ていない純粋な心の状態が巻き起こす、
葛藤や苦悩の数々ではないだろうか。
つまり社会に出ていないからこそ得られる視点が青春であり、
一度世間を知ってしまうと、後戻りはできない不可逆なものだと思っている。
なので例えば「中年の青春」などという言い回しはそもそもが形容矛盾であるし、
あるいはもし中年でまだ青春を抱えているとしたら、他人事ながらさぞや生き苦しいことだろうと心配になってしまう。
そしてゴッホこそ、青春を抱えたまま大人になってしまった人物で、たびたび世間と衝突や対立を繰り返し、
最後はカート・コバーンよろしく、ピストルで自殺までしてしまうのだ。
これをロック魂と呼ばずしてなんと呼ぼうか。
ゴッホは1日に一枚くらいのかなり早いスピードで絵を仕上げたらしく、
ゴツゴツとした強目の筆跡は、まるでギターのカッティングのように勢いよく繰り出される。
分厚く盛られた絵の具は、ぎりぎりの物質感で、
ややもすると対象物というよりは絵の具に見えてしまうことがあるが、その無骨さが独特の魅力を生んでいる。
絵画という平面性にあらがうように、塑された表面はもはやテクスチャの領域を超え、まるで彫刻のようだが、
その物質性が持つリアリティには有無を言わせない説得力がある。
またストロークとストロークの間が繊細な階調で描き分けられていることも多く、感覚の鋭敏さも垣間見れる。
まるでツンデレのような、無骨さと繊細さの落差にも惹きつけられる。
ふつうは組み合わせないような似たような色を使っているのも興味深い。
冒頭の有名な絵は、対象物であるひまわりと背景が同じ黄色系で、難易度が高い画面構成だが不思議にピタリと決まっている。
常人にはこういった黄色 on 黄色の絵づくりはできない。
このひまわりの絵も黄色 on 黄色。壁である背景のほうがなぜか明るく、ひまわりが逆光ぽく見える。
こちらも、一番見せたい対象物が壁なのかと思ってしまうような珍しい絵づくりだが、
壁の色が輝くように美しく、狂気が薄っすらと漂っていてとてもかっこいい。
スタイルは違うがどことなく草間彌生と同質の狂気を想起させる。
青春(純粋)⇆社会(不純)という対立構造は芸術における永遠のテーマのひとつで、
絵画だけでなく文学や映画など様々な作品で散見できる。
そしてその純粋さがただの青臭さで終わらず、本質を突いていた場合は傑作とされる。
アルベルト・カミュの小説『異邦人』やヴィンセント・ギャロの映画『バッファロー’66』などが思い浮かぶ。ニルバーナも然り。
ゴッホが自殺したのは37歳のとき。純粋さを保ったまま、青春を生きたのだろうか。
願わくば青春が終わったあとの絵も見てみたかった。
そのまま天才性を発揮し続けたかもれないし、もし以前ほど感動をもたらす絵にならなかったとしても、
それはそれでゴッホに幸せが訪れたのだと思うから。
※和火やってます。
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薄味と洗練
もう若いと言えない年齢になってくると、食べ物の嗜好も変わってきて、昔はよくわからなかった味が好きになる。
例えば、はんなりだったり、ほのかなと言ったような、玄妙な味わいが最近はしみじみ美味しいと思う。
ごく薄い塩味の奥に感じる旨みや、あるのかないのかわからないくらいの風味が愛おしい。
以前はもっとはっきりとした味に惹かれたが(雲呑なんて全然美味しいとは思っていなかった)、
いまは穏やかで優しい料理により魅力を感じるようになった。
これは舌が肥えたり、味がわかるようになったと言うのではなく、ひとえに体力の低下が原因だと考えている。
10代、20代は何を食べても美味しいし、脂がしたたる料理でも胃もたれしない。
しかし内臓の消化力が落ち始めると、食べられるものと食べられないものが出てくる。
まえに一緒に暮らしていた猫は、若い頃はなんでも勢いよくガツガツと食べていたが、
老齢期にさしかかると食が細くなり、開封したてのフレッシュなフードや
特別なトッピングを乗せたときでないと食べなくなることが多かった。
味にうるさくなるということは、年老いていくことと同義ではないのかとそのときに思った。
つまり若くて健康な状態であるならば、たいていのものは美味しく食べられるので、味に悩んだりする必要もない。
繊細でかすかな味わいが美味しく感じるようになるも同じで、そういった傾向はひとつの衰えと考えられる。
世の中のグルメを牽引するのがたいてい女性なのも、比較的に男性よりも体力に優位性がないからではないだろうか。
デザインに限らず、文化や表現の領域におけるいわゆる洗練さや洒脱さも同じようなものだと思っている。
文化の洗練はひとつの指標のように思われるかもしれないが、
裏返せば、わかる人にしかわからなくていいという袋小路に迷い込みやすく、衰退に繋がりやすい。
洗練さや繊細さ、わずかな風合いの差は、わかる人とわからない人をどうしても線引きしてしまうからだ。
玄人的な領域に入り込むと、新陳代謝がなくなり、動きが止まってしまう。
例えば茶道は極めて洗練された文化で、自分のような職業にとってはクリエティブの宝庫だと感じているが、
あまりにも高度化され過ぎてしまい、人口に膾炙することはなくなった。
黎明期は立ち上げの武士以外にもさまざまな角度からのアプローチがあり、勢いよく活性化していたと思われるが、
いまでは老人趣味的、お金持ちの嗜み的な捉えられ方だったり、あるいは形式だけがクローズアップされ一人歩きすることが多い。
どんな文化や表現も荒削りの状態からスタートして、だんだんと洗練さの方向に収斂していくので、高度化を避けることはできない。
ただ若さや新陳代謝とのトレードオフであることは、知っておかないといけないのだろう。
エルメスにデザイナーとしてマルジェラが就任したり、ルイ・ヴィトンがグラフィティのモノグラムを取り入れたりするのも
同じ理由なのではないかと思う。
文化の場合は様々な人が関わっているので高度化を避けるのもなかなか簡単ではないが、
いち表現者としては、飽きないように領域を広げづつ、新しい活動に取り組む。
ひらたく言うと、でできなかったことができるようになるという目標をプロジェクトごとに掲げるのが、
最善策ではないかと個人的には感じている。
※和火やってます。
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負けないために
競争社会で生きていると、生まれながらにして比べられ、優劣をつけられる。
いまでは運動会の徒競走も順位をつけないようなので、あからさまな比較みたいなのは、
目に見えないようになっているのかもしれないが、
サバイブするために勝ち抜かなればいけない意識は誰でも心の奥底にあるだろう。
そして勝者になることが望ましいという考えは、社会では好意的に受け止められていると感じる。
競争社会であることをリアルに自覚しだすのはおそらく受験くらいからで、
高校などを受験するころになると、仲良かった友達が突然ライバルになったりする。
戦いたくないと言っても、同じ学校を受験することになったら、枠は限られているわけで、
ひとり分が空けば自分が入れるかもしれない。
口ではいくら正々堂々、フェアにと言っても、友達が風邪を引いたり、
ミスをしたりすることを願ってしまう気持ちになってしまうのも、ひとのこころとしては致し方ないだろう。
優しくしなさい、ひとが喜ぶことをしなさいと言われて育ったはずなのに
勝ち抜くことは、いままで教えられたこととは矛盾するんだとだんだんと気付き始める。
そして自己の利のために、親友に対してネガティブな感情をもってしまうのは、
こころの腹黒いところが見えてしまう辛い状況でもある。
このことは受験に限らず、いまの競争社会で生きていくとすると、
いろんな局面でさまざまな形で突き付けられ、避けることは難しい。
勝者になることは、敗者を生んでしまうことではないか、
もっと言えば、誰かが幸福になることは、誰かが不幸になることではないのか。
そういう問いに大人としてどう答えればいいのだろうか。
とても難しい問題だし、二元論ではないかもしれないが、
自分としては、勝つのではなく負けないことを考えてみてはどうかと答えると思う。
結果として同じことになるとしても、負けないことを目的とすると、まず他人へネガティブな感情を持たなくていい。
勝つには必ず相手が必要だが、負けないことは自己完結するからだ。
他人を蹴落とすのではなく、自分が成長するために鍛錬を積めばいい。
そして負けないことを目指すと、協力するという姿勢にもなる。
ライバルという言葉にはどこかしら美しい響きもあるが、
一国のなかの企業が競合同士よりも、ある程度協力し合う関係性のほうが、産業も発展すると思う。
負けないが目的だと受験生同士でも教え合うという姿勢になるだろうし、
そのほうが日本全体の学力が上がるのでいはないかと想像する。
敵前逃亡、というとあまり褒められたことではないように言われているが
上記が目標ならば逃げることも選択肢に入ると思う。
一時的に逃げて自分を成長させてもいいはずなのに、勝たなければいけないと思い込んでいると、
争わなければならず、無用なダメージを受けることにもなりうる。
資本主義は競争を是とする社会で、ひとびとを競わせることで発展してきた。
もちろんいち消費者して良い側面があることは否定できない。
しかし競争原理は簡単にネガティブな意識に変わりやすく、取り扱いが難しい。
子どものいじめが社会の閉塞感から生まれるのだとすると、そして閉塞感が大人の余裕の無さに起因するものだとすると、
競争を手放すことで負担はだいぶ軽くなるのではないだろうか。
共に成長する社会は資本主義に矛盾するようだが、ある程度の協力体制はセーフティネットとなり、
やさしく社会を包み込むのではないかと期待している。
※和火やってます。
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今回は普段考えていることをパラパラと断片的に
才能とは速度のことなのか
ピアノを演奏する場合、ショパンコンクールに参加するなどの抜きんでた才能は別にして、
ほどほどのクオリティならば、時間と労力を費やすと、誰でも演奏できるようになる。
数学が苦手でも、時間をかけてていねいに計算すれば、得意な人が瞬時に出す答えにも近づける。
走るのが不得意だったとしても、育てるのが上手なコーチにつき、
手足の振り方や筋力トレーニングに地道に励めば、ある程度は早く走れるようになると思う。
そう考えると才能というものは、時間をかければ誰でもできることに、
何倍も早く到達できる能力と言い換えることができるのかもしれない。
絶対自分には無理だと思ってしまうのは、才能がある人たちが長時間かけたからだろうし、
ある種永遠に近い時間を獲得したものだろう。
全く向いていない、才能がないってのは、
一生分の時間があっても到達できないということを意味しているのかもしれない。
平面と立体と
立体的であるとは、動いていること。
平面的であるとは、静止していること。
そもそも動きがともなわないと立体を認識できない。
空間を移動してはじめて立体か平面かわかる。そして移動には時間軸も必要になる。
人間の目は一瞬で立体を識別できているが、それはあらかじめ2点間を移動できていてるから。
グラフィックデザインはもちろん平面。
時間と空間を捨象することで得られる世界。立体>平面ではない。
ある意味、立体物は時間と空間に依存することで成立している。
時間と空間がなくても魅力を失わないのがグラフィックデザイン。
シグネチャーは西洋ではサイン、東洋ではハンコ
西洋人は曖昧さを嫌う。
割り切れないニュアンスや非言語的なものを抱えることがあまり好きではない。
いつもyes or noをはっきりさせたい。
そのことは手で書く段においても現れていて、
筆を使い、線の太さやカスレやにじみなども委ねてしまう書道に対して、
カリグラフィは平べったいペンを用いて線の太さや角度を規定する。
意図的に淡くしたり、にじませたりって表現もあまり見かけない。
しかし署名を表す段になると逆で、西洋は手書きという曖昧さを含んだ表現になり、
東洋ではハンコという規程されたものになる不思議。
大きな違い、細かい違い
物事を突き詰めていくと、最初はわからなかったニュアンスがわかるようになり面白い。
専門性には、ある分野における微差を追求する傾向があるが、
それまで見えてなかった微差が見えるようになるのはたしかに成長の現れだと思う。
ただマニアックになればなるほどその沼は深くなり、
ほんのわずかな差に必要以上に大きい意味を感じてしまう場合もある。
その差に捉われると素人にもわかるような大事な差に気付けない危険性も出てくる。
そのあたりが専門性を追求する難しさだろうか。
※和火やってます。
※作家活動やってます。
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問いの立て方
意義がある問いを立てる。このことはいい仕事をする上で必要不可欠だ。
世の全ての仕事は無意識的にせよ意識的にせよ、自分で問いを立てて、その問いに自分で答えるというプロセスを経る。
もちろんあらかじめ与えられた問いの場合もあるが、いい仕事をしようと思うとそれでは十分ではない。
例えばフランス菓子のパッケージデザインを頼まれたとする。
もし簡単に済ませようとするならば、フランス的な装飾や色彩などを用いて、
フランスっぽい何かをデザインすればいいだろう。
その場合の問いは単純だ。
フランス菓子なので、フランス的な要素を用いたらどのようなデザインになるか?
その問いと答えでクライアントが満足するとしても、このままでは漠然とし過ぎていて意義がある仕事にはならない。
異文化であるパッケージを日本人がデザインできるのか。
もしデザインするとしたら日本人が関わる意味合いや必然性とはなにか。
あるいは日本人ではなく、フランス人に依頼し直すほうがいいのではないか。
フランス的であるとはどういうことなのか。ヨーロッパ的であることとどう違うのか。
フランス人にしかできないフランス菓子のデザインとはなにか。
日本人にしかできないフランス菓子のデザインとはなにか。
などと言った噴出する疑問を勘案しながら、依頼に対して最適な問いを立てる。
そしてその問いのクオリティがそのまま答えのクオリティになる。
もちろん問いが難しいと、答えを出すのも難しくなるが
そもそも意義がある問いを設定しないかぎり、答えも意義があるものにはならない。
例えば制限なくまったく自由にデザインしてもいいですよ、という依頼であったとしても、
ただ奔放にデザインするのではなく、
自分自身で高度な問いを設定しなければ、優れたデザイナー(デザイナー以外の仕事人も)とは言えない。
どうすれば意義ある問いを設定できるのか。
それは常日頃から問題意識を持つことだろうと思う。
つまり依頼されたときから考え始めるのではなく、いつも自問自答していることで、
良質な問いをストックしておくことができるのだ。
矛盾しているようだが、仕事をしていないときこそ、
仕事をしていることが大事なのだ、と最近は考えている。
※和火やってます。
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