デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです
日本の農業の未来 1
日本はいま農業ブームのようです。
ブルータスでもちょっと前に農業特集をやってましたし
ビジネスの世界でも農業バブルが来ると囁かれてているようです。
僕自身も昔から農業に興味があり 山梨の田植えに参加したり、
有機農場のブランディングを担当させていただいております。
なぜ農業に興味があるかというと理由は簡単で シンプルに「美味しい野菜」が食べたいからです。
美味しい野菜を食べるには「野菜=農業」について詳しくないといけない、それゆえ興味があるのです。
美味しければ別に少し値段が高くてもかまいません。
商品を購入することと株式会社の株を購入することは同等だと思っているので
他野菜よりも少しだけ高い値段でその農場を支えて行ければなによりです。
バブルが来ると言われている一方で日本の農業はいま深刻な問題を抱えています。
食料自給率は40%を切り、農家の方々は慢性的な後継者不足に悩んでいます。
僕が多少高めにお金を払ってもそれらの問題が解決しないことは目に見えています。
そんな中、日本の農業を変えたいんだと言う人々に出会いました。
「かっこよくて・感動があって・稼げる3K産業」という方向に
農業がシフトできれば日本の農業の未来は明るいと考えている人々です。
そのプロジェクトの詳細をお聞きして 「おっ、それは面白い」と思いました。
元々はその団体のロゴマークのご依頼だったのですが
そういう動機を持っているなら別のアプローチがあるだろうと考え
団体の方向性を含めたデザインを提案をしました。
その詳細については次回お話したいと思います。
日本の農業の未来 2
彼らが考えていることは、世の中に潜在的にいる農業をやりたい人々を後押しし、
農業に従事させるというものでした。
これだけだと普通の話です。
彼らの視点が面白かったのは、実家が農家の人々を中心に後押しをするという点でした。
農業を始めるには当然のことながら農地が必要です。
普通のサラリーマンが農業を始めたいと思っても
農地法により簡単には農地を取得することが難しいのが日本の現状です。
しかし実家が農家なら明日にでも始められます。
それに親からの相続なら農地法に関係なく農地を相続できます。
また最初は収入がなくても実家だと家賃も食費もかかりません。
地域の人はみんな顔見知りで、技術指導は親から受けられる環境にいる
農家の息子・娘はこれ以上ない担い手という訳です。
彼らの団体名はそのまま「農家のこせがれネットワーク」といいます。
段々とプロジェクトの話を聞くにつれ、「こせがれを農家に戻すこと」だけでなく
日本の農業をも変えたいという意思を持っていることが分かりました。
日本には耕作放棄地という使われていない農地が39万ヘクタールもありますが
その耕作放棄地をゼロにしたいというプロジェクト、
ビジネス社会で戦っていける農家を育てるプロジェクト、農業指導の学校をつくるプロジェクト、
美味しくて安全な野菜をきちんとブランド化し新しい流通経路まで開拓するプロジェクト、
等々話をお聞きしていると「こせがれを実家に戻す」という話では 収まりきれなくなってきました。
その時のご依頼は「農家のこせがれネットワーク」のロゴマークと 団体の活動が分かるウェブサイトだけでした。
しかしそのような大きなビジョンを持っていると
今後「農家のこせがれネットワーク」という屋号の元で活動していくのは 難しくなっていくでしょう。
そこで新しいプロジェクトの名称を考えるところからスタートできないかとご相談してみました。
彼らの返事は「yes」でした。
次回に続きます。
日本の農業の未来 3
いろいろと案を出した結果、プロジェクトの名称は REFARM に決まりました。
日本の「農業=農場」全体をRE(再生)するというコンセプトです。
青と緑の色面はそれぞれ「空」と「畑」を表しています。
キャッチコピーとして「これからの農業標準をつくる」という言葉もセットで提案しました。
そこにはREFARMというブランドが日本の標準をつくり
農業全体に変革をもたらして欲しいという希望が込められています。
このアイデンティティは可変型で ロゴと色面の組み合わせで何通りもつくることが出来ます。
<展開例>
この中から好きなデザインが選べます。 まだこのプロジェクトは始まったばかりです。 農業を変えるというのは長期的な取り組みになるので ゆっくりとお手伝いをしていければと思っています。
表現はどこまで自由なのか?
美大で教えている立場として、夏季休暇中に起こった表現の不自由展の一連の事態について、
なにも触れずに後期の授業を進めることは難しいと考え、初回のひとコマを使い、ワークショップを行ってみた。
自分の教育へのスタンスはいつも「教えすぎない」ということにつきる。
学生には考える力をつけてもらいたいので、教えすぎるとそのチャンスを奪ってしまうと危惧しているからだ。
獲物を捕ってくるのではなく、獲物の捕り方を教えるのが理想の教育だと言われるのはそういうことだろうと思う。
なので今回も結論じみた自分の考えを伝えるのではなく、3つの問いを投げかけるスタイルで授業を進めていった。
また『表現の不自由展』は自分も学生も実際に見ていないので、あくまで今回の展示周辺に巻き起こった論争を題材とした。
1 表現はどこまで自由なのか?
2 芸術に政治を持ち込んでもいいのか?
3 公的資金が投入された展示の場合は公権力に従わないといけないのか?
上記の質問をひとつずつ投げかけたあと、3人のグループに分かれて話し合ってもらい、
結論をまとめ、発表する。グループは毎回リセットするやり方で進めた。
偏った意見から、バランスがとれた意見まで発表され、多様という意味では世間の縮図に近かった。
それぞれがどういう考えを持っているかある程度客観視できたのではないだろうか。
冒頭に書いたように、このワークショップでは考える力をつけることが目的で、
必ずしも正解を出すことに重きを置いていない。
大事なのは短期的に正解を出すことではなく、正解を追い求める姿勢だと考えている。
いちおう自分なりの意見を書いておく。
表現がどこまで許されるのかという問いは、そもそも結論がでないものだと考えている。
つまりどこかで線引きして、インとアウトを決めるものではない。
歴史的に見て、過激だと言われていたものが現在ではスタンダードになっているものは枚挙にいとまがない。
例えばルネッサンス期に活躍したボッティチェリ作の『プリマベーラ』という有名な絵画があるが、
この絵画に登場する女性がヌードであったため批判が出て、後から服を描き加えたのは有名な話だ。
あるいは時代が下って、サディズムの語源にもなったマルキ・ド・サド伯爵はいくつかの小説を書いたが
それらは暴力的なポルノグラフィということで、当時フランスで(日本でも近年)発禁処分を受けている。
しかし現代の視点からみれば人間の本質的な心の動きとして加虐性を切り分けた功績は大きいだろう。
SMプレイをしたことでサド伯爵は何度も収監されているが、同意があるのであれば、
現在ではそのような楽しみは個人の自由の範疇である。
何がのちの人類にとって意味を持つことになるかわからないので、
自分としては表現について可能な限り温かい目で見ていきたいと思っている。
また芸術とは本質的に問題提起を含んでいるので、より芸術的であればあるほど、世間の反論や批判を巻き起こす。
そのことはマルセルデュシャンの『泉』という作品を見ればわかりやすい。
のちに多大な功績を残す芸術ほど、理解されにくいし、批判も多いし、すんなりと受け入れられるものではない。
プロパガンダは展示してはいけないという批判も散見されたので、次の質問を設けた。
そもそも芸術活動に限らず、日常のごくふつうの生活でさえ政治性を帯びるものだ。
キャベツをひとつ買うことも、電車に乗ることも、SNSを使うことも、選挙で投票しないことも、
どこかで政治に繋がるので、完全に切り離すことは不可能だ。そこにあるのは多寡だけ。
ピカソはスペインのゲルニカをドイツ軍に攻撃されたことに対して憤り、
有名な『ゲルニカ』を描いたが、この絵画も見かたによってはプロパガンダととれるだろう。
しかし政治性を帯びていたとしてもその芸術的価値を疑う人はいない。
むしろ政治性と不可分であることがこの作品のひとつの魅力だと思われる。
最後の質問。
税金を使っている限り、表現の自由が限定的になるのはしょうがないという意見も世間に表出していた。
あくまでも表現の自由を担保するには、自費でやらないといけないらしい。
この意見もだいぶおかしいと思う。なぜならそもそも助成金は自らが払った税金が源泉であり、
自分が支持している政党でなくても自動的に徴収されるお金が財源だとすると
なぜそこで政府におもねらないといけないのだろう。
つまり政府は国民のために存在しているのであって、江戸時代のようにお上から施しを受けているわけでない。
条件が満たされれば思想信条に関係なく誰でも受け取る権利があるはずで
助成金を受け取りながら政府を批判することは民主主義として極めて真っ当な姿勢だと思う
今回の一連の事件に関して浮かび上がったのは世間の狭量さと、実際の作品を見ていないのに印象だけで炎上するSNSの怖さだったと思う。
持論と異なる意見は受け入れないし、排他的になる。
しかもそのソースは自分の目で確かめた事実でなく、手垢がつきまくったネット上の情報である。
8月22日に月刊誌「創」が主催したシンポジウムに参加し、そこで天皇の写真を燃やしたことで批判された大浦信行さんの話を聞きくことができた。
スライドで上映される彼の過去の作品は見事な芸術作品だった。
補助金が交付されないなど悪化の一途をたどる一連の問題は、様々な事象が絡み合い複雑化している。
意見を述べるにしても、自分の目で確認した一次情報から出発しないとボタンの掛け違いが生まれてしまう。
ちょうどこの投稿を書いている間に展示が再開されるという朗報が飛び込んできた。
残り少ない期間であるが、展示を見るという原点に立ち返られるいい機会ではないだろうか。
※和火のインスタやってます。
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