すいせい

category
archive
このブログは
デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです

 

◎才能とは速度のことなのか

 

ピアノを演奏する場合、ショパンコンクールに参加するなどの抜きんでた才能は別にして、
ほどほどのクオリティならば、時間と労力を費やすと、誰でも演奏できるようになる。

 

数学が苦手でも、時間をかけてていねいに計算すれば、得意な人が瞬時に出す答えにも近づける。

 

走るのが不得意だったとしても、育てるのが上手なコーチにつき、
手足の振り方や筋力トレーニングに地道に励めば、ある程度は早く走れるようになると思う。

 

そう考えると才能というものは、時間をかければ誰でもできることに、
何倍も早く到達できる能力と言い換えることができるのかもしれない。

 

絶対自分には無理だと思ってしまうのは、才能がある人たちが長時間かけたからだろうし、
ある種永遠に近い時間を獲得したものだろう。

 

全く向いていない、才能がないってのは、
一生分の時間があっても到達できないということを意味しているのかもしれない。

 

 

 

◎平面と立体と

 

立体的であるとは、動いていること。

平面的であるとは、静止していること。

 

そもそも動きがともなわないと立体を認識できない。
空間を移動してはじめて立体か平面かわかる。そして移動には時間軸も必要になる。
人間の目は一瞬で立体を識別できているが、それはあらかじめ2点間を移動できていてるから。

 

グラフィックデザインはもちろん平面。

時間と空間を捨象することで得られる世界。立体>平面ではない。

ある意味、立体物は時間と空間に依存することで成立している。
時間と空間がなくても魅力を失わないのがグラフィックデザイン。

 

 

 

◎シグネチャーは西洋ではサイン、東洋ではハンコ

 

西洋人は曖昧さを嫌う。
割り切れないニュアンスや非言語的なものを抱えることがあまり好きではない。
いつもyes or noをはっきりさせたい。

 

そのことは手で書く段においても現れていて、
筆を使い、線の太さやカスレやにじみなども委ねてしまう書道に対して、
カリグラフィは平べったいペンを用いて線の太さや角度を規定する。
意図的に淡くしたり、にじませたりって表現もあまり見かけない。

 

しかし署名を表す段になると逆で、西洋は手書きという曖昧さを含んだ表現になり、
東洋ではハンコという規程されたものになる不思議。

 

 

 

◎大きな違い、細かい違い

 

物事を突き詰めていくと、最初はわからなかったニュアンスがわかるようになり面白い。

 

専門性には、ある分野における微差を追求する傾向があるが、
それまで見えてなかった微差が見えるようになるのはたしかに成長の現れだと思う。
ただマニアックになればなるほどその沼は深くなり、
ほんのわずかな差に必要以上に大きい意味を感じてしまう場合もある。

 

その差に捉われると素人にもわかるような大事な差に気付けない危険性も出てくる。
そのあたりが専門性を追求する難しさだろうか。

 

 

 

和火やってます。

作家活動やってます。

※ただいまブログの引越し中です。旧ブログをご覧になりたいかたはこちらにアクセス願います。

コメント:0

質問力とは?

2022.06.30

 

ちょっとこのことはまだうまく言語化できていないが、がんばって書いてみようと思う。

 

誰でもふだんわからないときに気軽に「なぜ?」という質問をしているだろう。
数学の問題でもいいし、外国語でわからないときでもいいし、
なにか疑問に感じた際には、誰か知ってそうな人に質問をして、その答えを待つ。

 

とてもシンプルで日常的な行為だ。

 

ただ最近は質問をすることは簡単ではないと思っている。もっといえば、的を得た質問をすることはとても難しい。

 

これはなんというのか、逆説的に答えを知っている場合にしか、有益な質問ができないからではないだろうか。
と書くとややこしくなるが、つまり自分のなかで何がわからないか明確でないと、本当の意味での質問にはならないと考えている。

 

一番いい質問の仕方は、「答えは○○○でないかと思うんですが、違いますか?」というYes or No的な聞き方だろう。
自分の中でおおよその答えが見えていて、ほぼ確実だが、
いちおう確認しておこうくらいのスタンスの質問がベストだと思う。

 

逆にいい質問が出てこない場合ってのは、そもそも対象への正しい把握や認識ができていないことが多い。
これは相性の問題になるのでどうしようもなく、大きくは文系理系などにもわけられるかもしれない。
もともと人には視覚優位や聴覚優位などの認知特性があるので、
レオナルド・ダヴィンチのような万能人間以外は、向き不向きがどうしても生まれてしまう。

 

個人的には音楽への認識がいまだに曖昧でぼんやりしている。
音楽を聴くこと自体は好きなのだが、音階がどのように存在しているのか理解できないし、
楽器の音を聞き分けることも不得意である。
こういった状態だと、何を聞いていいのかわからず、質問の糸口を見つけるのさえ難しい。

 

また視覚優位性が高い仕事をしているが、立体認識は苦手である。
視覚優位の特性でも平面系と立体系があるらしく、平面系はグラフィックデザインや写真やイラスト、
立体系は建築やプロダクトデザインなどに分けられ、領域がクロスすることはあまりない。
確かにそれを聞くと両方の分野に秀でたデザイナーがいないのも納得できる。

 

話を元に戻すと、ある分野における向き不向きをはかる一番いい方法は、
わからないことがあった際に、どれだけ絞り込んだ質問をできるかという、質問力にあるのではないかと思っている。
向いているならば、本質的な質問ができるからだ。
そしてそういうひとは最初だけ誰かにアシストしてもらえれば、あとは自分だけで成長していくことができる。

 

スポーツでもそうだが、一流の選手はプライベートな世界観を持っていて、その世界観に沿ってプレイする。
他人の影響を受けず(つまり質問をせず)、自問自答を繰り返すことで独自の世界観が構築される。

 

いわんや芸術の分野も同じで、オリジナリティとは自分への質問力のことかもしれない。

 

 

和火やってます。

作家活動やってます。

※ただいまブログの引越し中です。旧ブログをご覧になりたいかたはこちらにアクセス願います。

コメント:0

ヤンキーのファッション、あるいは一時期流行ったガングロのギャル・ギャル男の奇抜さは、
人間の根源的な表現欲が行き場を失い、それでも発露を求める切実な状況を示している。
彼らは伝統が衰退することの物悲しさを声高に代弁しているのだ。

 

かかるスタイルは一般的に奇抜であるゆえに、個性的と捉えられているが、実際はどうだろう。

 

個性的というならば当然ながら「個」の表現がベースとなる。
例えばファッションの分野で個性を発揮しようと試みると、スタイルをそのままコピーするのではなく、
まずは自分なりのアレンジを加えることから始まると思われる。
いきなり全部をオリジナルの表現にするのは難しいので、部分的なアレンジを加えるのはどの分野も同じだ。
しかし世の中すべての人がそういうことに興味があるわけでもないし、
興味があってもセンスがなく、アレンジが上手く出来ない人もいるだろう。
興味がない人は別として、アレンジが上手くできない人々は、
雑誌などのスタイルをそのままコピーするような、コスプレに近い表現を選ぶと思われる。

 

ヤンキー、ガングロのギャル系のファッションも
「個」の表現を目的とするのではなく、そのようなコスプレ的表現を目指しているのではないか。
なぜなら、ファッションに本質的に由来する格好良さや美しさを表現しようとしているより、
型による(奇抜さによる)パフォーマンスに見えてしまうからだ。
あるいは、服を身に纏う喜びより、型を使ってでも表現しないといけない「業」のようなものを感じてしまう。
もちろんヤンキー・ギャル系の中にもアレンジし、オリジナリティを発揮しているひともいるかもしれないが、
マスで捉えた場合は、そのような傾向があると思っている。

 

ここで問題としたいのはコピーすることではなく、コピーする対象の方だ。
歴史的には、伝統の枠組みの中でコスプレすることは日常だったし、
伝統は良質の型を与えることができたので(それが伝統の役割なので)、それぞれの表現欲を満たすことができた。
センスのありなしに関わらず楽しむことができるセーフティーネットのような役割を果たしていたのだろう。
しかし現在のように伝統が衰退すると——つまりセーフティーネットがなくなると——
そういう人々は奇抜さという方向でしか表現欲を満たすことができなくなるのではないだろうか。

 

着物は日本の伝統的な服飾だとされているが、
現在のところ仕事に毎日着ていくという人は、専門的な職種を除いてほとんどいない。

 

実際に着物を着てみると、いかに街中が着物で生活するに適していないかがよくわかる。
日本の日常は言うまでもなく、非和服に適するように仕上がっていて、今後もそれがつくりかえられることはないと思われる。
伝統的であるが日常的ではないのは、その文化は重篤な状態であることを意味している。
このことは、乱獲が種を絶やしてしまうのではなく、
むしろその動物を含んだ生態系ごと失われていることのほうに絶滅の原因があるのと似ている。
口を揃えて着物の美しさを讃えてみても、それをアフォードする環境が失われていては、
今後ゆっくりと滅んでいくしかないのではと、嫌な予感が頭をよぎってしまう。

 

急速なグローバル化の中で世界的に伝統が失われている状況を考えると
ヤンキー的な表現が日本以外の場所で起こっても不思議ではない。

 

あでやかな民族衣装に身を包んだ人々は美し過ぎるので、伝統がもろくはかないことをいつも忘れてしまう

 

 

 

写真(上から) ベトナム・モン族 ペルー・ケチュア族 グアテマラ・カクチケル族

写真協力:「アフリカへ行こう

 

※この記事は2013年12月に投稿した記事の再掲載です。過去のデータベースにアクセスできなくなったので一部加筆修正して掲載しています。

 

和火やってます。

作家活動やってます。

コメント:0

染付け礼讃

2022.09.30

趣味である骨董市には相変わらず、ぼちぼちと通っております。

 

今回は買ったもののなかから、いまハマっている染付けの器をご紹介。
器に興味がないひとにはおそらく、いや間違いなく面白くないでしょう。

 

骨董市に出掛けたら、目下染付けを買い求めることが多いのですが、それは割と最近のことです。
瀬戸物と言えば真っ先に思い浮かぶくらいに、まあ染付けはベタなジャンルですし、
時代がかったイメージもあるので、以前はそんなに食指が動きませんでした。
しかし和食を盛り付けることを目的とするとバランスが絶妙で、いまや真逆の評価となってます。
日常的になり過ぎて、ちっとも有り難みがなさそうですが
そのありふれてしまっている状態こそが染付けの偉大さではないでしょうか。

 

当然ピンからキリまであり、古くは12世紀あたり、中国の古染付やベトナムの安南焼などまで遡ることができます。
いいものは当然それなりの値段がしますが、高いものが必ずしも料理を盛り付けた際に映えるかというとそれはまた別の話で、
手頃な値段で、盛り付けしやすく、料理が美しく見える、そんな条件を自分なりに探すのが、
——おそらく器好きの他のひともそうでないかと想像するのですが——骨董市を巡る楽しみのひとつであります。

 

これは中国の明か清あたりの9寸皿。安南焼ではないですが南方系でしょう。
ゆったりとした流水紋(?)とおおらかな福の文字、余白の淡い青がいいバランスです。
金目の煮付けとか映えそう。

 

古い染付けは伊万里焼などもそうですが、地が真っ白ではなく、うっすらと青味を帯びているのが魅力のひとつなのかなと思います。
これは意図的なものというより釉薬に不純物である鉄分が混ざっていたから。

 

土そのものであるような黄褐色の器から始まり、
技術の向上によってだんだんと複雑で高度な意匠や釉薬を施すことができるようになりましたが、
常に人々の頭の中には真っ白な器をつくり出したいという願望があったのだと想像します。
土っぽさや野生っぽさから離れるのが文明の証だ、とまで考えていたかはわかりませんが
有機的な要素を排していくことで出現する無機質な白さに、うっとり酔いしれるくらいのことはあったのではないでしょうか。
一方の現代では高度な技術力のお陰で、安定して白色度が高い磁器をつくりだせるようになりました。
ただ反比例して深みや味わいなどが減じていくトレードオフの関係は否めないと感じます。

 

たとえばこのくらわんか(8寸皿)あたりの青っぽい白さが、料理を盛り付けしやすいですし、いちばん美味しそうに見えると感じています。
上の流水紋皿はそういった意味でやや青さが干渉してくるんですよね。

 

あと古い物は、絵付に使われる呉須が天然の顔料のため、藍に独特の深みがあるのも魅力のひとつ。
時代が下ると人工的に呉須がつくれるようになり、絵具のように鮮やかな藍色が出せるようになりましたが、
やや彩度が高すぎるかなと思うことがあります。

 

これは中国の最近の民藝で、巧みな絵付けの碗ですが、藍の色がもう少し落ち着いていたらもっといいかもしれない。

 

一方このアラビアのカップはいわゆる染付けではないですが、人工的な呉須のほうが合うのかなと感じます。
ただこれもトレードオフであり、どっちがいいかは好み、主観の範囲だと思います。

 

変形皿も最近探しているジャンルのひとつです。
ろくろを回す関係で器は必然的に円形が多く、食卓に丸い器が並びがちになるので
角皿やオーバルなど円形以外の形を意識的に取り入れるようにしています。

 

ちょっと食欲がないときのお昼ご飯などに、インスタントのワンタンスープを食べることがあるのですが、
そんなときはこのベトナムの安南焼に盛っています。

 

器蒐集は物質主義の側面が強いですし、しょせんは虚しい物欲に過ぎないという意見は否定できません。
しかしながら、良質な器がもたらす精神衛生的な作用を、常日頃感じているので、
世の中が100円ショップで売っている器で十分だとは自分にはとても言い切れない。

 

鬱病なり、統合失調症なり精神的な病が、現代社会で増えているひとつの要因に、
逆に物質を軽視している背景もあるのではないでしょうか。
合理性を追求した結果、プラモデルのようなサイディング仕上げの家々が街中に増殖していくのを見るにつけそう感じます。

 

生活を大事にするところからデザインの仕事は始まると考えており、
簡単にインスタントのスープでお昼を済ませる場合でも、器だけはきちんと選べたらと思っています。

 

和火やってます。

作家活動やってます。

コメント:0

 

ウェブやSNSなどで、ときにコメントが一極集中して投稿される様子を炎上と呼んでいる。
一般的にはネガティブな言葉として使われることが多いだろう

 

もちろん批判が大半の炎上もあるが、賛否が50/50くらいの場合は、実は有意義な問題提起がされている可能性が高い。
どちらかが優位でなく、肯定的意見と否定的意見が同じ程度入り混じる状態は、
本質をついた重要な議論が行われていることの証ではないかと考えるからだ。

 

のちに歴史的な意味を持つ芸術作品が現れるときも同じような現象が起こる。

 

たとえば1863年に画家のエドゥアール・マネが『草上の昼食』で女性のヌードを描いたが、
キリスト教的価値観では女性のヌードはタブー視されていた背景があったため、賛否が巻き起こった。
もちろん西洋絵画でマネ以前にもヌードは描かれていたが、
神話などに登場する神々などの実在しないモデルのみというエクスキューズ付きで、
リアルな対象として描いたのはマネが初めてだった。
女性のヌードというテーマはある程度答えが出ているので、
いまとなっては問題視されないだろうが、当時は炎上に近い案件だったようだ。

 

エポックメイキングな作品は、往々にしてひとびとの概念の外にあり、
ある種タブー視されているモノゴトも含んでいるので、諸手を挙げて賛成とはならず、
どうしても反発する勢力が出てきてしまう。

 

そういった問題提起で大事なのは、
好きでも嫌いでもないけど、まあいいんじゃないかななどという生ぬるい反応ではなく、
「素晴らしい作品だ」「こんなものは芸術ではない」と世間を二分するくらいのコンフリクトを生むこと。
そもそも話題にならないのは重要なイシューではない。

 

ピカソのキュビズムやウォーホルのシルクスクリーンの作品なども、同じように芸術論争を呼んだし、
現代ではダミアン・ハーストやアイ・ウェイウェイ、
日本だと会田誠らは二極化しがちなテーマを積極的に扱ってるように見える。

 

表現の不自由展もだいぶ物議を醸したが、補助金の受給や芸術と政治の関係など、いろいろと考えるいい機会になった。
単純に美しく心地いいものだけが芸術だと考えていたひとにとっても、
法定の場で真逆の結論が出たことによって、それまでの芸術への理解が変わったのではないかと想像する。
そういった意味ではおおきな問題提起だったと思うし、
おそらく100年後くらいには、なんであんなことで騒いでいたのだろうと意識が変わっているのではないだろうか。

 

ほとんどの大事なものごとは炎上から始まるのかもしれない。

 

 

※映画や本をアマゾンなどで探すときにも、上記のように評が割れているものを目安にしています。

 

和火やってます。

作家活動やってます。

コメント:0