空白恐怖症の中国、寿司デザインの日本 後編
2024.07.25
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寿司は極めて日本的な食べ物だ。
ネタとシャリ両方の素材の良さを存分に引き出し、余計な要素は加えずに楽しむそのスタイルを
日本的と称してもおそらく多くの日本人は違和感を感じないだろう。
現代では日本を象徴する食べ物として世界中に広まり、
武士や歌舞伎などと同じように日本の精神性を表すコンセプトモデルとして
認識されているようにも思える。
しかし調べてみると意外にも握り寿司の歴史は浅く、江戸時代後期くらいの文献に登場していることから
180年、長くとも200年くらいの歴史しかないと考えるのが適当だ。
(押し寿司やなれ鮨は古代から保存食としてつくられていた)
根っからの伝統食というわけではないが、さも日本を代表する食べ物と認識される背景には
日本的思考と寿司のコンセプトがぴったりと合致していることがあるからかもしれない。
日本人は豊かな自然の中でデリケートな感性を育んできた。
自然が豊かということは環境に多様性があり、
滑らかなグラデーションで生態系が出来上がっているということを意味する。
地面を構成する要素だけを比べてみても
砂漠気候と温帯湿潤気候とでは情報量がだいぶ違う。
情報量が多いとそのぶん情報に対するリテラシーを求められ(自然リテラシー?)、
即して感性も発達していく。
自然が繊細だとそれを映す鏡も繊細な像を結ぶように、日本人はとても繊細な感性を持つようになった。
デリケートな感性のもとでは素材に内在する自然を尊び、
余計なものを加えることを潔しとしない「引き算の美学」が生まれると想像する。
模様も含めたあらゆる要素をダウンサイズするのは
ノイズに紛れていた自然を感じたいという欲求の現れではないだろうか。
しばしば桂離宮に代表される数寄屋建築が、西洋のモダニズム建築と比較されその類似性を指摘される。
実際アウトプットは似ているかもしれないが、モダニズムが機能主義的、合理主義的側面を離れられないことから
両者の目的はだいぶ異なるのではないかと思っている。
Less is moreと言ったのは建築家のミース・ファン・デル・ローエだが
かかる引き算の美学のもとで必要最小限まで無駄を削ぎ落とし生まれるミニマルな強さが、
モダニズムの魅力であり目的だとすると、日本のそれは寿司的コンセプトと同一の
自然を感じたいという意識の方向性でないかと考えるからだ。
近代以降モダニズムが洋の東西を問わず流行し、模様を含めたあらゆるエレメントを捨象することになった。
しかし日本でも起こったモダニズムは同じ様に見えて本質が違うのではないか、
遥か以前から模様を絶えず捨てて来たことで日本文化は成立しているのではないか、
日本人の最も優れた感性とは自然を感じる繊細さにあるのではないか、
そのようなことを帰国後の寿司屋のカウンターでぼんやりと考えていた。
写真
上 歌川広重によって描かれた寿司
下 桂離宮
※この記事は2011年に投稿した記事の再掲載です。
過去のデータベースにアクセスできなくなったので一部加筆修正して掲載しています。
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