砂漠へ 終
2024.10.31
夜もまだ明け切れぬ内に砂漠のテントを出発し、ラクダの背中にしばらく揺られていると、
息を呑むような朝焼けとともに、徐々にサハラ砂漠が姿を現していく。
ぼんやりとしていた稜線が少しずつはっきりとしてきて、遠くまで見渡せるようになった。
砂漠を別の惑星などと称することがあるが、確かに普段自分がいる地球と同じとは思えない。
陳腐な表現だなあと思っていたが、同じように感じてしまう自分がいて笑ってしまった。
圧倒的なまでの抽象性とでも言うのだろうか。
細かい石英の粒のみで構成される世界を前にすると、
自分という存在の具象性さえ吸い込まれていくように感じる。
ここでは自然の表出の仕方が見事だ。
砂という単一の素材で構成される世界では、風がつくりだす形が明確に現れる。
普段暮らす日常は混沌としていて、風が持つ造形力がはっきりしないが、砂漠だとそれがわかりやすい。
加えて砂の粒子がとても細かいので繊細に現れる。
つまり砂漠では風が可視化されるのだ。
虹や雪の結晶やオーロラなどと同じように、自然現象を純粋に楽しめる場所だと思う。
あまりにも精緻な風紋は、紙の上に書かれた数式のようにも見えてくる。
砂漠近くの街のメルズーガには昨日の夕方に着き、
そこからベルベル人が手綱を引くラクダに乗り、テントまで数時間かけて移動した。
砂漠はベルベル人の領域だ。もともと北アフリカの平野部の先住民だったが、
7世紀頃に侵略してきたアラブ人に追われ、砂漠に住むようになったらしい。
ここから砂漠に入っていった
ラクダは思ったより快適だった。馬などとは違い、
足の先端にぷっくりとした肉球が発達していているので、振動が少ないからだ。
性格も穏やかだし、昔から砂漠の交通手段として選ばれるのがよくわかる。
キャラバンは盗賊に襲われたり、砂嵐にあったり、咽の乾きに苦しんだりと、
いろいろと大変なこともあったと思うけれど、ラクダに乗る部分だけなら、
かなり優雅な旅だったに違いない。それぐらい気持ち良い。
この快適さがかつての交易を促し、文明を発展させていったのだと思う。
テクノロジーなど何でもそうだが快適なものだけが時代を変えて行くのだ。
砂を手に取ってみると液体のようにスルスルと指の間からこぼれ落ちて行く。
流動性が高い砂は頭髪や耳の中など身体のあらゆる部分にまとわりつき、
生活の様々な部分にも浸透していく。
iPhoneは半日でケーブルがささらなくなった。
塩害ならぬ砂害なのか、砂漠に入る際は精密機器をビニールで覆うのは必須らしい。
カメラはもちろん覆う。
砂丘も一見カタチを保っているように見えるが、柔らかく掴みどころがない。
試しに小山ほどの砂丘に登ろうとしてみたが、
三歩目くらいで足が取られて動けなくなってしまった。
砂に対する認識がだんだんと変わって行く。
夜はタジン鍋の煮込み(ちょっと飽きてきた)+ホブス(平たいパンみたいなもの)と
ピラフ(美味しかった)を食べた。
ロウソクだけが灯されたテントでとる食事は、なかなか雰囲気がある。
料理はむろんベルベル人がつくる。
タジン鍋は砂漠のような水が貴重な地域が発祥らしく、
食材の水分だけでいかに効率よく煮込むかを目的に考案された料理法だ。
当初は合理性が目的だったかもしれないが、食材の持ち味を生かすことにも繋がるので、
現在ではむしろ美味しく食べるための料理法として世界に広まっている。
タジンによく合わせるクスクスも必要最少限の水での料理が可能である。
お湯でも戻せるが、本来は煮込みの上に置き、その蒸気で蒸し上げる、
これもまたとても合理的な方法だ。
砂漠の料理を食べながら、なぜ水が少ない地域なのに煮込みがあり、
日本のように湿潤の国にはないのだろうと考えていた。
水がある方が煮込むという発想になりそうだが、
伝統的な和食でそのようなものは聞いたことがない。
長くても数十分煮込む程度で、だいたいはさっと煮たり、焼いたりしたものが多い。
シチューのように数時間煮込んだり、
中国料理のようにラーメンのスープをとったりすることはなかった。
例外的におでんがあるが、かつてどれくらいの時間煮込まれていたか正確なところがわからない。
比較的時間をかける関西のおでんは関東煮(かんとだき)とも呼ばれ、
そもそもが中国料理をルーツとしていて、名前も広東煮(かんとんだき)からとったという説もある。
食事の後、たき火の周りで演奏が始まった
煮込まない理由として日本では鮮度を重視することが上げられるだろう。
食材の新鮮さを生かすのは和食の基本で、過剰に手をかけることを好まないからだ。
しかしそれだけで煮込みという手段を捨ててしまうとは考えにくい。
中国から煮込みという料理法は伝わったはずだから、
知らなかったわけではなく、広まらなかったのだ。
そのことにはおそらく日本人の好きな「旨味」が関係していると思う。
鰹節や昆布などがあったので、長時間煮込む必要がなかったのではないだろうか。
旨味が豊富に含まれている鰹節や昆布からは手軽にいいスープがとれる。
そのような国では時間をかけて煮込むメリットは少ないだろう。
ラクダを降りて見晴らしがいいところから周りを見渡す。
砂漠の風景は自己相似的だ。
離れた場所の風景を切り取って持って来ても違いはわからないだろう。
足下にある小さな砂の山も背丈を超える大きな砂丘も、似た様な形をしている。
なので遠くが遠くに、近くが近くに見えない。
ここではスケールさえも交換可能なのだ。
自己相似的な交換可能さは徐々に感覚を麻痺させていく。
位置的な感覚、スケール的な感覚、時間的な感覚。
ところどころに小動物の足跡や枯れ草のようなものが、
交換されることにあらがう唯一の個性みたいに点在しているが、
圧倒的な麻痺の前では力を持たない。
麻痺することは迷ってしまった人には命取りだが、旅行者としては気持ちがいい。
むしろこういう感覚を求めて旅をしているのだと思う。
キャラバン隊からはぐれてしまい、朦朧とした意識の中、何日もさまよい歩いている。
風紋は美しさの秘密を解き明かす方程式だと、砂漠が語りかけてきた。
読み解くと確かに普遍的な美しさが証明されている。
これは世紀の大発見だと叫びたくなるが伝える相手がいない。
そんな完全に麻痺してしまった自分を、砂漠にしばらく想像して、列に戻って行った。
<終>
※この記事は2013年に投稿したモロッコの旅行記の再掲載です。
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