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デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです

足利遠征

2022.05.27

先日仕事で栃木県の足利市に行ってきました。

初めてだったのですが、歴史ある住みやすそうな街でした。

 

 

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◎才能とは速度のことなのか

 

ピアノを演奏する場合、ショパンコンクールに参加するなどの抜きんでた才能は別にして、
ほどほどのクオリティならば、時間と労力を費やすと、誰でも演奏できるようになる。

 

数学が苦手でも、時間をかけてていねいに計算すれば、得意な人が瞬時に出す答えにも近づける。

 

走るのが不得意だったとしても、育てるのが上手なコーチにつき、
手足の振り方や筋力トレーニングに地道に励めば、ある程度は早く走れるようになると思う。

 

そう考えると才能というものは、時間をかければ誰でもできることに、
何倍も早く到達できる能力と言い換えることができるのかもしれない。

 

絶対自分には無理だと思ってしまうのは、才能がある人たちが長時間かけたからだろうし、
ある種永遠に近い時間を獲得したものだろう。

 

全く向いていない、才能がないってのは、
一生分の時間があっても到達できないということを意味しているのかもしれない。

 

 

 

◎平面と立体と

 

立体的であるとは、動いていること。

平面的であるとは、静止していること。

 

そもそも動きがともなわないと立体を認識できない。
空間を移動してはじめて立体か平面かわかる。そして移動には時間軸も必要になる。
人間の目は一瞬で立体を識別できているが、それはあらかじめ2点間を移動できていてるから。

 

グラフィックデザインはもちろん平面。

時間と空間を捨象することで得られる世界。立体>平面ではない。

ある意味、立体物は時間と空間に依存することで成立している。
時間と空間がなくても魅力を失わないのがグラフィックデザイン。

 

 

 

◎シグネチャーは西洋ではサイン、東洋ではハンコ

 

西洋人は曖昧さを嫌う。
割り切れないニュアンスや非言語的なものを抱えることがあまり好きではない。
いつもyes or noをはっきりさせたい。

 

そのことは手で書く段においても現れていて、
筆を使い、線の太さやカスレやにじみなども委ねてしまう書道に対して、
カリグラフィは平べったいペンを用いて線の太さや角度を規定する。
意図的に淡くしたり、にじませたりって表現もあまり見かけない。

 

しかし署名を表す段になると逆で、西洋は手書きという曖昧さを含んだ表現になり、
東洋ではハンコという規程されたものになる不思議。

 

 

 

◎大きな違い、細かい違い

 

物事を突き詰めていくと、最初はわからなかったニュアンスがわかるようになり面白い。

 

専門性には、ある分野における微差を追求する傾向があるが、
それまで見えてなかった微差が見えるようになるのはたしかに成長の現れだと思う。
ただマニアックになればなるほどその沼は深くなり、
ほんのわずかな差に必要以上に大きい意味を感じてしまう場合もある。

 

その差に捉われると素人にもわかるような大事な差に気付けない危険性も出てくる。
そのあたりが専門性を追求する難しさだろうか。

 

 

 

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だいぶ久しぶりになりますが、仕事例を追加しました。

 

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千葉遠征

2022.03.23

あるプロジェクトで、先日千葉まで出張に行ってきました。

 

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競争社会で生きていると、生まれながらにして比べられ、優劣をつけられる。
いまでは運動会の徒競走も順位をつけないようなので、あからさまな比較みたいなのは、
目に見えないようになっているのかもしれないが、
サバイブするために勝ち抜かなればいけない意識は誰でも心の奥底にあるだろう。
そして勝者になることが望ましいという考えは、社会では好意的に受け止められていると感じる。

 

競争社会であることをリアルに自覚しだすのはおそらく受験くらいからで、
高校などを受験するころになると、仲良かった友達が突然ライバルになったりする。
戦いたくないと言っても、同じ学校を受験することになったら、枠は限られているわけで、
ひとり分が空けば自分が入れるかもしれない。
口ではいくら正々堂々、フェアにと言っても、友達が風邪を引いたり、
ミスをしたりすることを願ってしまう気持ちになってしまうのも、ひとのこころとしては致し方ないだろう。
優しくしなさい、ひとが喜ぶことをしなさいと言われて育ったはずなのに
勝ち抜くことは、いままで教えられたこととは矛盾するんだとだんだんと気付き始める。
そして自己の利のために、親友に対してネガティブな感情をもってしまうのは、
こころの腹黒いところが見えてしまう辛い状況でもある。

 

このことは受験に限らず、いまの競争社会で生きていくとすると、
いろんな局面でさまざまな形で突き付けられ、避けることは難しい。

 

勝者になることは、敗者を生んでしまうことではないか、
もっと言えば、誰かが幸福になることは、誰かが不幸になることではないのか。

 

そういう問いに大人としてどう答えればいいのだろうか。

 

とても難しい問題だし、二元論ではないかもしれないが、
自分としては、勝つのではなく負けないことを考えてみてはどうかと答えると思う。

 

結果として同じことになるとしても、負けないことを目的とすると、まず他人へネガティブな感情を持たなくていい。
勝つには必ず相手が必要だが、負けないことは自己完結するからだ。
他人を蹴落とすのではなく、自分が成長するために鍛錬を積めばいい。

 

そして負けないことを目指すと、協力するという姿勢にもなる。
ライバルという言葉にはどこかしら美しい響きもあるが、
一国のなかの企業が競合同士よりも、ある程度協力し合う関係性のほうが、産業も発展すると思う。
負けないが目的だと受験生同士でも教え合うという姿勢になるだろうし、
そのほうが日本全体の学力が上がるのでいはないかと想像する。

 

敵前逃亡、というとあまり褒められたことではないように言われているが
上記が目標ならば逃げることも選択肢に入ると思う。
一時的に逃げて自分を成長させてもいいはずなのに、勝たなければいけないと思い込んでいると、
争わなければならず、無用なダメージを受けることにもなりうる。

 

資本主義は競争を是とする社会で、ひとびとを競わせることで発展してきた。
もちろんいち消費者して良い側面があることは否定できない。
しかし競争原理は簡単にネガティブな意識に変わりやすく、取り扱いが難しい。
子どものいじめが社会の閉塞感から生まれるのだとすると、そして閉塞感が大人の余裕の無さに起因するものだとすると、
競争を手放すことで負担はだいぶ軽くなるのではないだろうか。

 

共に成長する社会は資本主義に矛盾するようだが、ある程度の協力体制はセーフティネットとなり、
やさしく社会を包み込むのではないかと期待している。

 

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