デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです
デザイン病
何かを表現すること、それはどんな分野においてでも、
基本的には不健全さが原点になるのだろう。
有名なギターリストが、ひとをうっとりとさせるような曲を弾くことができるとする。
そこまで到達するには、幾度となく繰り返される練習があるはずだが
むろん誰かに頼まれてやっているわけではなく、基本的に本人の意志でやっている。
ギターを演奏しない自分と比べると、そこにはあきらかな差が存在している。
好きでないひとにとっての練習はハードルが高いのに、
ギターリストが進んで練習するのは、演奏しないと満ち足りないからだ。
演奏することでしか埋めることができない穴のようなものが心に空いていて、
その穴を補完するカタルシスとして演奏を行うのだと思う。
自己治療的な行為と想像され、そういった意味で不健全さを抱えていると言えるし、
もっと言及すればわざわざ演奏しないといけないという意味で、演奏しないひとよりも幸せでない。
芸術活動とは基本的に不幸な人が行うのだと思う。
でここからが本題なのだが、もしそういった不健全さを抱えているとしたら、
自分だけでどうにかしようとするのではなく、
社会の枠組みのなかで解決していくのが一番いいのではないだろうか。
デザイナーという職種もひとつの病である。
色や形、書体、質感などに対して異常なこだわりがある。図形への執着が著しい。
屋外に出ると、そういった気になる要素が街中に散在しているので、
精神的におかしくなってくる、とまでは行かないがやはり居心地が良くない。
デザイナーは、自分が心地よいと感じるデザインをひとつでも世の中に増やし、
少しでも住みやすい環境に整えようと考えているのではないだろうか。
下手をするとパラノイア的な状態に陥ってしまうかもしれないが
社会と接点を持ち、妄想するイメージをクライアントと共有することで、
自分も満足できるし、社会をより良くすることにも貢献できる。
宮沢賢治のように作品を生涯発表しないレアなスタイルも存在はしているが、
純粋芸術活動においても個展などを開催し世間と交わったほうが健康的だと思うし、
芸術に関係しない不健全さも、社会と合致するポイントを上手に探ることはとても大事なことだと思う。
難しいのは、趣味の分野についてで、これらは言うまでもなく自己完結していても全然問題ない。
誰に咎められることなく、自分が満たされることを存分に楽しめばいいだろう。
ただ個人的にはそれに費やす時間やエネルギーを社会に還元できるほうが
ポジティブな循環が生まれるのではないかと、最近は思うようになった。
今年のささやかな抱負としては、自分が持つ趣味の分野、
具体的には骨董蒐集や食にまつわることを、社会とどう結びつけられるか意識していきたい。
和火もそういったもののひとつであるが、もっと総合的に社会と接点を持てる方法に
頭を巡らせようと思う。
以上今年のささやかな抱負でした。
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※作家活動やってます。
っぽさの重要性
ファッションっぽい、スポーツ飲料っぽい、ITっぽい、イギリスっぽい、
縄文っぽい、化粧品っぽい、洋菓子っぽい、クラフトっぽいなど
具体的ではないけれど、雰囲気のようなものをつくっている「○○○っぽい」デザインの要素ってあります。
例えば以下の紅茶飲料のデザインが醤油っぽいと話題なっていました。
https://nlab.itmedia.co.jp/nl/articles/2204/09/news064.html
あるいはこの記事では「○○○っぽさ」をわざと入れ替えて、その違和感を楽しんでいます。
https://dailyportalz.jp/kiji/160121195543
自分はデザイナーなので、デザインを分析的に見ていますが、
たぶん多くのひとにとってこういう「○○○っぽさ」がデザインなんだと、最近思うようになりました。
まあなかには詳しく見るひともいるとは思いますが、だいたいは「○○○って感じ」だったり
「○○○のようだ」などのあいまいな印象で受け止めているのではないでしょうか。
プロでもない限り、形や色や素材、使われているフォントなど仔細には見ないし、ましてや分析もしない。
このことは別に揶揄しているわけではなく、例えばまったくの素人の分野である音楽を、
自分が楽しむときは、音階やリズム、使っている楽器の種類などにけっして注意深くありません。
あくまでいい音楽だな、好きなメロディーだなという印象論でしか受け取っておらず、
適当にというかリラックスして向き合っています。客観的に考えればとても簡単なことですね。
でこのことってデザインの核心をついているのだと思います。
いくらデザイナーが素晴らしいものができたと感じても
雰囲気みたいなものが合致しないと、世間には好意的には受け入れられないからです。
いいことではないですが、むしろ表層的な○○○っぽいデザインができていれば受け入れられます。
逆に言うとデザイナーは雰囲気もつくれないとダメなんですね。
以前恩師に「デザインを見るのはデザイナーだけだ」と言われたことがありますが、
いまではしみじみそうだと感じますし、多くのひとはデザインそのものではなく周辺を見ているのでしょう。
今年も残すとこあとわずかですが、下記の通り休みをいただきます。
ご不便をおかけしますが、何卒ご理解いただきますようお願いいたします。
◎年末年始休業期間
2023年12月31日(土)~ 2024年1月8日(月)
※和火やってます。
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※作家活動やってます。
ARAYA SWALLOW

最近乗り始めた自転車。
ARAYAという日本のメーカーの50年ほど前のフレームに
現在生産されているパーツなどを組み合わせた完全オリジナル。
けっこう車幅があるのが特徴です。

知り合いの自転車の先達に組んでもらいました。
日頃はミニベロのBromptonと28インチの無印の自転車に乗っているのですが
無印の自転車にけっこうガタが来ており、新しい自転車を買わなければと思っていたところ
ちょうどいいタイミングで組んでいただくことになりました。

もともとイメージしていたのは築地の魚河岸が乗っているような黒っぽい実用車。
機能性のみを追求したような無骨でクラシカルな自転車を探していたのですが
イメージに合うものがなかなか見つからず(というか国内ではもう生産していないらしい)、
自転車難民状態におち入り、どうしたもんかなと困っていました。

他のひとはどうかわかりませんが
自分にとって何かを購入するのはとても面倒な作業。
購入後にもっといいものが出てくるのは避けたいので
まずはいま現在入手できる商品の情報を全部揃えてから比較検討に入ります。
職業柄というか、デザイナーゆえに、こだわりが強く、
目立っていいものがあれば楽なのですが、
そうでない場合は決断するまでにヘトヘトになってることもよくあります。
キッチンタイマーひとつ買うのもだいぶ時間がかかったなあ。

今回の自転車もそういった迷路に入り込みそうだったので助かりました。
なぜならばお願いしたのがデザイナーだったから。
同業者が組む自転車ならば間違いないと、基本お任せでお願いし、
やはり流石の仕上がりとなりました。
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地上の太陽
身体性の書 1

おそらく誰にでも、手放すことができずにいつもそばに置いておきたい本があるだろう。
読み込むうちに血肉化していわば自分の身体の一部になったとでも言うのか。
「身体性の書」ではそんな本たちについて語ってみたい。
第1回目 ヤン・チヒョルト『書物と活字』
この本を買ったのは大学生の頃なので、もう15年以上も前の話である。
よく覚えているのは、そのとき金銭的に窮していて、
これを買うと今月分の食費がなくなるなあと、買おうかどうか迷っていたことだ。
大学でタイポグラフィの授業はあるにはあったが、満足いくものでなく、
漠然と書体とその扱いについて勉強したいと思っていたタイミングだった。
著者のヤン・チヒョルトって人が誰なのか知らないけれど、とにかく掲載されている書体がまばゆいばかりに美しく、
これをおかずにご飯を食べればいいかと諦められるくらいに、目と心が満足する本だった。
実際にはそんなことはしなかったが、酒のアテの代わりに、
深夜にウィスキーを飲みながら、よくページをめくった。

これを読むと、タイポグラフィを学ぶには、まずは文字の美しさを享受することから始まるということがよく分かる。
世の中にはこんなにも美しい書体があるんだとうっとりすることなしにタイポグラフィの上達はないだろう。
そういう意味で、天才チヒョルトの目によって、古くはローマ時代から選び抜かれた書体は理想の状態に置かれている。
僕はこの書物で初めてGill Sansに出会い、無機質だと思っていたゴシック体にも温かみがあることを知った。
Garamondに遭遇し、古いローマン体には独特のかぐわしさがあることを知った。
なんでもそうだけれど、世の中にはこんなにも高い頂があると知ったうえで表現するのと、
そうでないのとでは、自ずと表現の質が変わってくる。
貧相な書体ばかりを見ていたわけではないが、この本を手に取ったことで世界の山の高さを知ることができた。


以来自分にとって一番のタイポグラフィの教科書となり、迷ったとき、わからなくなったとき、アイディアを探すとき、
あるいは欧文でロゴをつくらないといけないときには必ず開く。
目を通したからといって問題解決に直結するわけではないが、
気持ちを整えてくれる精神安定剤みたいな効き目があるのかいつもページをめくってしまう。
そしてめくるたびに新しい発見があり、学び尽くすということがない。
いい書物には、変わっていく自分に合わせて内容も変わる時間軸のようなものが存在するのだ。
そういった本との邂逅は、長く付き合える友達に出会えるのと同じくらい
価値があることではないだろうか。
『書物と活字』
著者 ヤン・チヒョルト
発行 朗文堂
日本語版翻訳 菅井暢子
日本語版デザイン 白井敬尚
発行日 1998年3月26日
※この記事は2016年7月に投稿した記事の再掲載です。
過去のデータベースにアクセスできなくなったので一部加筆修正して掲載しています。
※和火やってます。
※作家活動やってます。



日射角度が低くなるこの時期に現れる地上の太陽。