デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです
香港









香港に行ってきました。
文化大革命を免れた痕跡を探しに行ってきましたが、イギリス領の時期も長かったことが影響しているのか、
自分が求める中国的な要素はあまり感じませんでした。
繁体字はかろうじて確認できますが、大都市はどこも似てきてしまうのか、
かつて訪れた中国の奥地のほうが、破壊されたとはいえまだ残っている印象でした。
ただ街としては魅力的で、どこか南国のエキゾチックな雰囲気が漂い、美食、骨董など楽しむことができました。
東京よりも自然が残っている感じもあり好きなタイプです。
特筆すべきはやはり食。呆れるほど美味しかったです。
手の込んだのももちろん美味しいですが、期待せずに頼んだブロッコリーの蒸し物などもに驚かされました。
ただシンプルに蒸されているだけなんですが火の通し方が絶妙。
青臭さはないのにきちんと食感は残っていて、ああ、いままで何百ものブロッコリーを無駄にしてきたと思いました。
春巻きなども見た目は日本のと変わらないのに、皮が幾層にもなっていることで別の食べ物のようでした。
再び訪れたいという気持ちになる国ってそれほど多くはないのですが、香港はいつかまた食事を堪能しに行きたいなと思いました。
◎本物とはなにか

骨董街で写真の影青(インチン)をいくつか買い求めました。ふだんは高いものはあまり買わないようにしているのですが、
まあ香港の記念にいいかなと少し奮発してみることにしたのです(日本で買うともっと高いってのも理由のひとつにありましたが)。
しかし本物である保証はどこにもありません。
影青はもともと宋の時代につくられた古いものです。人気があるのでフェイクが出回るのですが、
これがよくできていて、自分の眼力ぐらいではオリジナルとの差はわかりません。
最近つくられたものと比べるとおよそ800年くらいの年代の差があり、値段もだいぶ違います。
手に入れた器はどこまでも軽く薄く、刻まれた紋様には美しい淡青な影を落としています。
帰国して料理を盛り付けていますが、十分に楽しめており、ならばそれでいいのではと思うのです。
例えばもし2000年後という長いスパンから振り返ってみると、多少の完成度の差は指摘されるかもしれないですが、
オリジナルに近い扱いを受けるのではないかと思います。なぜならば本物に匹敵するくらいのクオリティだからです。
低ければ話にならないですが、ここまで肉薄していると、影青の第二製作期につくられたという捉えられ方になっても
不思議でないのではと考えてしまいます。
画業の場合は画家というオリジナルを生み出す絶対的な存在がいるため、フェイクとの線引きは明確です。
しかし窯業の場合はそういった制限が希薄なため、オリジナルだけがいいとは言い切れない部分もあると思います。
レベルが低いオリジナルと、レベルが高いフェイクを比べてみて、フェイクのほうが勝ることもありそうだなと。
文化はお互いに触発し影響し合いながら、発達していくものだと考えています。
著作権などと言った概念は近代になり個が確立されるとともに出現するようになりましたが
人類の歴史のなかではそういったものがなかった時代のほう長かったわけです。
中国の南宋の窯で焼かれている青磁がとても素晴らしいから、韓国でも真似して焼いてみようとなり、高麗青磁が生まれました。
中国には中国の、韓国には韓国の青磁の良さがあり、優劣はつけられないとすると(実際につけられない)、
偽物は存在しないという考えかたもできるかもしれません。
本物とは一体なんなのか、あるいはフェイクとはなんなのか。
だんだん心の持ちようじゃないかという気もしてきますが、そのあたりを掘り下げてみるのも面白そうです。
などと偽物だったときの言い訳を飛行機のうえでブツブツと考えながら、帰国しました。
なにより薄いので、真贋よりも、無事に運べるかどうかに肝を冷やしましたが、割らずに海を越えることができました。
食にしろ、器にしろ、中国の文化は偉大です。行ってみるとつくづくそう思います。
いまは欧米が覇権を握っていますが、長い間世界の中心は中国とインドの間くらいにあったとされており、
最近その軸が少しづつ戻りつつあるなと感じています。
雑器も購入。良心的なお店だったので左はフェイクだと断言してました(フェイクでも問題ない)。
※和火やってます。
※作家活動のインスタやってます。
薄味と洗練
もう若いと言えない年齢になってくると、食べ物の嗜好も変わってきて、昔はよくわからなかった味が好きになる。
例えば、はんなりだったり、ほのかなと言ったような、玄妙な味わいが最近はしみじみ美味しいと思う。
ごく薄い塩味の奥に感じる旨みや、あるのかないのかわからないくらいの風味が愛おしい。
以前はもっとはっきりとした味に惹かれたが(雲呑なんて全然美味しいとは思っていなかった)、
いまは穏やかで優しい料理により魅力を感じるようになった。
これは舌が肥えたり、味がわかるようになったと言うのではなく、ひとえに体力の低下が原因だと考えている。
10代、20代は何を食べても美味しいし、脂がしたたる料理でも胃もたれしない。
しかし内臓の消化力が落ち始めると、食べられるものと食べられないものが出てくる。
まえに一緒に暮らしていた猫は、若い頃はなんでも勢いよくガツガツと食べていたが、
老齢期にさしかかると食が細くなり、開封したてのフレッシュなフードや
特別なトッピングを乗せたときでないと食べなくなることが多かった。
味にうるさくなるということは、年老いていくことと同義ではないのかとそのときに思った。
つまり若くて健康な状態であるならば、たいていのものは美味しく食べられるので、味に悩んだりする必要もない。
繊細でかすかな味わいが美味しく感じるようになるも同じで、そういった傾向はひとつの衰えと考えられる。
世の中のグルメを牽引するのがたいてい女性なのも、比較的に男性よりも体力に優位性がないからではないだろうか。
デザインに限らず、文化や表現の領域におけるいわゆる洗練さや洒脱さも同じようなものだと思っている。
文化の洗練はひとつの指標のように思われるかもしれないが、
裏返せば、わかる人にしかわからなくていいという袋小路に迷い込みやすく、衰退に繋がりやすい。
洗練さや繊細さ、わずかな風合いの差は、わかる人とわからない人をどうしても線引きしてしまうからだ。
玄人的な領域に入り込むと、新陳代謝がなくなり、動きが止まってしまう。
例えば茶道は極めて洗練された文化で、自分のような職業にとってはクリエティブの宝庫だと感じているが、
あまりにも高度化され過ぎてしまい、人口に膾炙することはなくなった。
黎明期は立ち上げの武士以外にもさまざまな角度からのアプローチがあり、勢いよく活性化していたと思われるが、
いまでは老人趣味的、お金持ちの嗜み的な捉えられ方だったり、あるいは形式だけがクローズアップされ一人歩きすることが多い。
どんな文化や表現も荒削りの状態からスタートして、だんだんと洗練さの方向に収斂していくので、高度化を避けることはできない。
ただ若さや新陳代謝とのトレードオフであることは、知っておかないといけないのだろう。
エルメスにデザイナーとしてマルジェラが就任したり、ルイ・ヴィトンがグラフィティのモノグラムを取り入れたりするのも
同じ理由なのではないかと思う。
文化の場合は様々な人が関わっているので高度化を避けるのもなかなか簡単ではないが、
いち表現者としては、飽きないように領域を広げづつ、新しい活動に取り組む。
ひらたく言うと、でできなかったことができるようになるという目標をプロジェクトごとに掲げるのが、
最善策ではないかと個人的には感じている。
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転がるデザインには苔が生えない
デザインとはやはり時代のものだよなあと、最近しみじみ実感している。
時代に即し、時代を映す鏡として存在する。
それがグラフィックデザインのあるべき姿だと思う。
いまだとネットやSNSの力が強くなっているので、それに合わせて変化する。
グラフィックといえば歴史的に紙媒体との結びつきが強かったが、
スマホなどでブラウズする頻度が高くなり、モーション的な要素が強くなってきた。
ロゴやマークなども動くことが多くなり、今後はそういったことが前提の
アイデンティティに移り変わっていくのだろう。
時代がわからなくなったら、時代について行けなくなったら、デザイナーはやめどきだと思う。
逆に言えば、世の中心に近い位置で日々暮らしているひとは現役でいられる。
ときどきデザイナーは若いひとの感性がないとやっていけないと言われることがある。
これは半分あたっていて半分間違っていると思っている。
時代からずれないという意味では若いみずみずしい感性はやはり必要だと思う。
でもそれは年齢のことでなく、姿勢のことだ。
いつまでも好奇心を持ち続け、フットワークが軽いひとは歳をとらない。
巨匠と呼ばれるデザイナーの多くは、みずみずしい感性を保ったまま、
円熟味というか、年齢を重ねてしか得られない表現の奥深さを身につけている。
デザインはとまってはいけない。転がらなければならない。
転がるデザインには苔が生えない。
問いの立て方
意義がある問いを立てる。このことはいい仕事をする上で必要不可欠だ。
世の全ての仕事は無意識的にせよ意識的にせよ、自分で問いを立てて、その問いに自分で答えるというプロセスを経る。
もちろんあらかじめ与えられた問いの場合もあるが、いい仕事をしようと思うとそれでは十分ではない。
例えばフランス菓子のパッケージデザインを頼まれたとする。
もし簡単に済ませようとするならば、フランス的な装飾や色彩などを用いて、
フランスっぽい何かをデザインすればいいだろう。
その場合の問いは単純だ。
フランス菓子なので、フランス的な要素を用いたらどのようなデザインになるか?
その問いと答えでクライアントが満足するとしても、このままでは漠然とし過ぎていて意義がある仕事にはならない。
異文化であるパッケージを日本人がデザインできるのか。
もしデザインするとしたら日本人が関わる意味合いや必然性とはなにか。
あるいは日本人ではなく、フランス人に依頼し直すほうがいいのではないか。
フランス的であるとはどういうことなのか。ヨーロッパ的であることとどう違うのか。
フランス人にしかできないフランス菓子のデザインとはなにか。
日本人にしかできないフランス菓子のデザインとはなにか。
などと言った噴出する疑問を勘案しながら、依頼に対して最適な問いを立てる。
そしてその問いのクオリティがそのまま答えのクオリティになる。
もちろん問いが難しいと、答えを出すのも難しくなるが
そもそも意義がある問いを設定しないかぎり、答えも意義があるものにはならない。
例えば制限なくまったく自由にデザインしてもいいですよ、という依頼であったとしても、
ただ奔放にデザインするのではなく、
自分自身で高度な問いを設定しなければ、優れたデザイナー(デザイナー以外の仕事人も)とは言えない。
どうすれば意義ある問いを設定できるのか。
それは常日頃から問題意識を持つことだろうと思う。
つまり依頼されたときから考え始めるのではなく、いつも自問自答していることで、
良質な問いをストックしておくことができるのだ。
矛盾しているようだが、仕事をしていないときこそ、
仕事をしていることが大事なのだ、と最近は考えている。
※和火やってます。
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エコとセコさ

最近よく考えているのがエコとセコさ。
サスティナビリティの観点からは、なるべく無駄をなくすほうが望ましいし、プラスチックゴミはきちんと分別されて、
適切に処分されるべきだと思う。マイバックの持参も基本的には良いことだろう。
ただエコは良くてもセコいのは嫌だなと気持ちの奥底で感じている。
エコ的な観点を突き詰めていくと、慎ましやかになっていく。
まだ慎ましいのは良いとして、一回使ったラップは洗って再利用するとか、入浴後のお風呂のお湯で洗濯するとなると、
だんだんとセコいフィールドに入っていく気がする。
同じく考えるのは貧乏と貧乏くささの関係性。
貧乏はお金がない状態を指すが、お金がない=貧乏くさくなるかというとそうでもないし、
お金持ちでも貧乏くさい人はたくさん存在している(と思っている)。
効率を求めて、いつもコンビニでお惣菜を買い、プラスックの器に盛って食事をします、という人は
たくさんお金を持っていたとしても貧乏くさいなあと思ってしまう。
逆にお金がなくてお粥しかつくれなくても、丁寧につくり、美しく盛り付け、
時間をかけて優雅に食事をすれば、豊かではないだろうか。
「贅沢さとは無駄のこと」と言ったのは秋元康氏であるが、さすがその通りで、良い意味での無駄の存在が
日々の生活にささやかな楽しみや彩りを与えてくれ、ひいては贅沢さにつながるのだと考えている。
あさ一時間だけ早く起きて、仕事前にゆっくりと新聞を読む。
いつもは適当に焼いている魚を塩釜のオーブン焼きにしてみる。
一杯の珈琲を淹れるために湧き水を汲みに行く。
合理的に考え過ぎて、有益な無駄まで排除しようとすることが、セコさや貧乏くささに繋がるとすると
エコロジーに矛盾しない無駄を取り入れていければ、セコさも軽減されていくのではないだろうか。
例えば学生時代にお金がなかったときに、洋雑誌のいちページを封筒にし手紙を送っていたことがあった。
アイディアとセンス次第でリサイクル、リユースすることも魅力的になると考え、そのことは割と気に入っていた。
実際にセンスが良かったかはわからないが、少なくともセコくはなかったと思う。
一番上の写真は国宝で、割れた茶碗を金で継ぐという発想はエコでありながらセンスが良い。
むしろ継がれることで完全な形よりも価値が上がる場合もあるのが金継ぎの面白いところ。
環境や資源がいよいよ切羽詰まってきて、新しい局面を迎えつつあるが、
おそらく「贅沢なエコ」あるいは「有益な無駄を含んだエコ」みたいな発想から
次世代の新しい価値観が生まれてくるのではと最近よく想像している。
そして伝統的な文化を見るにつけ、日本人はそういうことがけっこう得意なのではとも感じている。
画像出典
『特別展 茶の湯』東京国立博物館
※和火やってます。
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