すいせい

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デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです

 

今回家を建てるにあたって素材感を強く意識したということはここに書いた。
また桂離宮がモダニズムとは違う概念ではないかということも、以前中国から帰ってから考えていた。

 

素材を活かすことは、日本的な表現と密接に結びついており、建築だけでなく、
グラフィックデザインや工芸、料理の分野においても切り離すことはむずかしい。
いや、むしろ素材を活かさないで日本的な表現などできないのではないだろうか。

 

ややもするとひとは手を加えたくなる。
それは素材云々のまえに、プレーンな状態は、なにも仕事をしていないという意識に繋がり、
コミュニケーションとして成立しにくかった背景があるのだと思う。
世界的に見ると、装飾などが施してあるほうが売り買いのときにもお金を取りやすいし、
プレゼントするにしても、ああこんなに手が掛かった物をもらったと納得されやすい。
権威を示す際にも装飾があるとわかりやすいだろう。

 

しかし日本という非常に高いコンテキストのなかでは、
阿吽の呼吸のようなコミュニケーションが存在していて、その密度の高さが装飾的なものを遠ざけていたと考えている。
自然が豊かなことも強く影響していて、島国の独自の文化と環境が掛け合わさって
素材をエクストリームに尊ぶ、世界的にみても珍しい価値観が育成されてきた。

 

一方のモダニズムは基本的に機能性を求め、ミニマリスティックなアウトプットを目指す。
素材感が邪魔とまでは行かないが、無機質なマテリアルのほうが機能優先の価値観により合致する。
例えばグラフィックデザインで言えば、いわゆるゴシック体がモダニズム的な表現と結びついてきたのは、
書体の構成要素であるセリフが必要ないという、機能主義的な側面から判断されたからである。
ゴシック体の黎明期にはその無味乾燥さに拒否感を示すひとも多く、グロテクス体と揶揄することさえあった。
もちろん素材を生かしたモダニズム的表現もあるとは思うが、装飾的なもの伝統的なもの地域的なものなどを遠ざけることによって
モダニズムが成立しているとすると、素材というファクターはあまり重要視されて来なかったのではないだろうか。

 

桂離宮をはじめとする日本の建築様式はモダニズムとは異なり、素材の良さを表出させ、
顕在化させるために余計な要素を削ぎ落とす、素材主義=マテリアリズムなのではないかと思っている。
建築物に限らず、日本のデザインはシンプルとカテコライズされることが多いし、
ブルーノ・タウトも桂離宮をモダニズム建築としてヨーロッパに紹介したようだが、実際のところは似て非なるものではないだろうか。

 

日本刀と寿司と桂離宮は並列に比較することができると思うし、
コンクリートを主体的に扱う安藤忠雄が、日本から出現したのもこのマテリアリズムがあるからだと考えている。

 

 

週末から香港に旅行に行ってきます。文化大革命を免れた中国に興味があり、昨年は台湾を訪れました。
香港(厳密に言うと香港島)も本土にありながら直接的な影響を受けていないとされ、
数千年続いた中国の歴史が残っているかどうか見て来たいと思います。

 

 

 

和火やってます。

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最近ゴッホに魅了されている。

 

ゴッホといえば、西洋絵画の基本中の基本、知らないほうが難しいくらい有名な画家であるが、
いままで琴線には触れることもなく、完全にスルーして過ごして来た。

 

しかし昨年あたりから、むずむずと気になるようになり、少しづついいなあという気持ちに傾き始め、
最近では、うむ、やはりゴッホは天才だと独り言ちるまでとなった。

 

子供のころから絵が好きで、美術系の大学に進学し、いまはデザイナーを職業としているが、
すべからく絵画を理解しているわけでないし、またする必要もないと思っている。
心が動かない物事は、そのままでいい。世間の評価に迎合して、好きになったふりをすることはないのだ。
まあとにかく、そういうわけで、いまはゴッホがだいぶ好きになってしまい、先日も上野のゴッホ展に出かけてきた。

 

ゴッホの魅力をひと言で表すとすると、ロック魂に溢れる表現となるだろうか。

 

青春という時期を過ぎて大人になると、ひとびとは「純粋」ではいられなくなる。
これは良い悪いの話ではなく、職を得て、働くようになると訪れる自然な現象である。
学生のうちは純粋さを武器に理想論を振りかざすことはできるが、
実際の世の中は様々な欲望がひしめいていて、そのまま受け入れるしかない。
ある種、「諦め」の連続が、大人になるということかもしれないし、
また「そういうものだ」といちいち失望しないことが、振る舞いとして大事なのではと思う。

 

もし青春を定義できるとしたら、それはまだ世の中に出ていない純粋な心の状態が巻き起こす、
葛藤や苦悩の数々ではないだろうか。
つまり社会に出ていないからこそ得られる視点が青春であり、
一度世間を知ってしまうと、後戻りはできない不可逆なものだと思っている。

 

なので例えば「中年の青春」などという言い回しはそもそもが形容矛盾であるし、
あるいはもし中年でまだ青春を抱えているとしたら、他人事ながらさぞや生き苦しいことだろうと心配になってしまう。

 

そしてゴッホこそ、青春を抱えたまま大人になってしまった人物で、たびたび世間と衝突や対立を繰り返し、
最後はカート・コバーンよろしく、ピストルで自殺までしてしまうのだ。

 

これをロック魂と呼ばずしてなんと呼ぼうか。

 

ゴッホは1日に一枚くらいのかなり早いスピードで絵を仕上げたらしく、
ゴツゴツとした強目の筆跡は、まるでギターのカッティングのように勢いよく繰り出される。

 

分厚く盛られた絵の具は、ぎりぎりの物質感で、
ややもすると対象物というよりは絵の具に見えてしまうことがあるが、その無骨さが独特の魅力を生んでいる。
絵画という平面性にあらがうように、塑された表面はもはやテクスチャの領域を超え、まるで彫刻のようだが、
その物質性が持つリアリティには有無を言わせない説得力がある。
またストロークとストロークの間が繊細な階調で描き分けられていることも多く、感覚の鋭敏さも垣間見れる。
まるでツンデレのような、無骨さと繊細さの落差にも惹きつけられてしまう。

 

ふつうは組み合わせないような似たような色を使っているのも興味深い。

 

冒頭の有名な絵は、対象物であるひまわりと背景が同じ黄色系で、難易度が高い画面構成だが不思議にピタリと決まっている。
常人にはこういった黄色 on 黄色の絵づくりはできない。

 

このひまわりの絵も黄色 on 黄色。壁である背景のほうがなぜか明るく、ひまわりが逆光ぽく見える。
一番見せたいのが壁なのかと思ってしまうような珍しい絵づくりだが、
壁の色が輝くように美しく、狂気が薄っすらと漂っていてとてもかっこいい。
スタイルは違うがどことなく草間彌生と同質の狂気を想起させる。

 

青春(純粋)⇆社会(不純)という対立構造は芸術における永遠のテーマのひとつで、
絵画だけでなく文学や映画など様々な作品で散見できる。
そしてその純粋さがただの青臭さで終わらず、本質を突いていた場合は傑作とされる。
アルベルト・カミュの小説『異邦人』やヴィンセント・ギャロの映画『バッファロー’66』などが思い浮かぶ。ニルバーナも然り。

 

ゴッホが自殺したのは37歳のとき。純粋さを保ったまま、青春を生きたのだろうか。

 

願わくば青春が終わったあとの絵も見てみたかった。
ゴッホのことなので、そのまま天才性を発揮し続けたかもれないし、もし以前ほど感動をもたらす絵にならなかったとしても、
それはそれでゴッホに幸せが訪れたのだと思うから。

 

 

和火やってます。

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香港

2025.08.30

香港に行ってきました。

 

文化大革命を免れた痕跡を探しに行ってきましたが、イギリス領の時期も長かったことが影響しているのか、
自分が求める中国的な要素はあまり感じませんでした。
繁体字はかろうじて確認できますが、大都市はどこも似てきてしまうのか、
かつて訪れた中国の奥地のほうが、破壊されたとはいえまだ残っている印象でした。

 

ただ街としては魅力的で、どこか南国のエキゾチックな雰囲気が漂い、美食、骨董など楽しむことができました。
東京よりも自然が残っている感じもあり好きなタイプです。

 

特筆すべきはやはり食。呆れるほど美味しかったです。
手の込んだのももちろん美味しいですが、期待せずに頼んだブロッコリーの蒸し物などもに驚かされました。
ただシンプルに蒸されているだけなんですが火の通し方が絶妙。
青臭さはないのにきちんと食感は残っていて、ああ、いままで何百ものブロッコリーを無駄にしてきたと思いました。
春巻きなども見た目は日本のと変わらないのに、皮が幾層にもなっていることで別の食べ物のようでした。
再び訪れたいという気持ちになる国ってそれほど多くはないのですが、香港はいつかまた食事を堪能しに行きたいなと思いました。

 

 

◎本物とはなにか

骨董街で写真の影青(インチン)をいくつか買い求めました。ふだんは高いものはあまり買わないようにしているのですが、
まあ香港の記念にいいかなと少し奮発してみることにしたのです(日本で買うともっと高いってのも理由のひとつにありましたが)。
しかし本物である保証はどこにもありません。

 

影青はもともと宋の時代につくられた古いものです。人気があるのでフェイクが出回るのですが、
これがよくできていて、自分の眼力ぐらいではオリジナルとの差はわかりません。
最近つくられたものと比べるとおよそ800年くらいの年代の差があり、値段もだいぶ違います。

 

手に入れた器はどこまでも軽く薄く、刻まれた紋様には美しい淡青な影を落としています。
帰国して料理を盛り付けていますが、十分に楽しめており、ならばそれでいいのではと思うのです。

 

例えばもし2000年後という長いスパンから振り返ってみると、多少の完成度の差は指摘されるかもしれないですが、
オリジナルに近い扱いを受けるのではないかと思います。なぜならば本物に匹敵するくらいのクオリティだからです。
低ければ話にならないですが、ここまで肉薄していると、影青の第二製作期につくられたという捉えられ方になっても
不思議でないのではと考えてしまいます。

 

画業の場合は画家というオリジナルを生み出す絶対的な存在がいるため、フェイクとの線引きは明確です。
しかし窯業の場合はそういった制限が希薄なため、オリジナルだけがいいとは言い切れない部分もあると思います。
レベルが低いオリジナルと、レベルが高いフェイクを比べてみて、フェイクのほうが勝ることもありそうだなと。

 

文化はお互いに触発し影響し合いながら、発達していくものだと考えています。
著作権などと言った概念は近代になり個が確立されるとともに出現するようになりましたが
人類の歴史のなかではそういったものがなかった時代のほう長かったわけです。

 

中国の南宋の窯で焼かれている青磁がとても素晴らしいから、韓国でも真似して焼いてみようとなり、高麗青磁が生まれました。
中国には中国の、韓国には韓国の青磁の良さがあり、優劣はつけられないとすると(実際につけられない)、
偽物は存在しないという考えかたもできるかもしれません。
本物とは一体なんなのか、あるいはフェイクとはなんなのか。
だんだん心の持ちようじゃないかという気もしてきますが、そのあたりを掘り下げてみるのも面白そうです。

 

などと偽物だったときの言い訳を飛行機のうえでブツブツと考えながら、帰国しました。
なにより薄いので、真贋よりも、無事に運べるかどうかに肝を冷やしましたが、割らずに海を越えることができました。

 

食にしろ、器にしろ、中国の文化は偉大です。行ってみるとつくづくそう思います。
いまは欧米が覇権を握っていますが、長い間世界の中心は中国とインドの間くらいにあったとされており、
最近その軸が少しづつ戻りつつあるなと感じています。

 

雑器も購入。良心的なお店だったので左はフェイクだと断言してました(フェイクでも問題ない)。

 

 

 

和火やってます。

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問いの立て方

2021.05.31

 

意義がある問いを立てる。このことはいい仕事をする上で必要不可欠だ。

 

世の全ての仕事は無意識的にせよ意識的にせよ、自分で問いを立てて、その問いに自分で答えるというプロセスを経る。
もちろんあらかじめ与えられた問いの場合もあるが、いい仕事をしようと思うとそれでは十分ではない。

 

例えばフランス菓子のパッケージデザインを頼まれたとする。

 

もし簡単に済ませようとするならば、フランス的な装飾や色彩などを用いて、
フランスっぽい何かをデザインすればいいだろう。

 

その場合の問いは単純だ。

 

フランス菓子なので、フランス的な要素を用いたらどのようなデザインになるか?

 

その問いと答えでクライアントが満足するとしても、このままでは漠然とし過ぎていて意義がある仕事にはならない。

 

異文化であるパッケージを日本人がデザインできるのか。
もしデザインするとしたら日本人が関わる意味合いや必然性とはなにか。
あるいは日本人ではなく、フランス人に依頼し直すほうがいいのではないか。
フランス的であるとはどういうことなのか。ヨーロッパ的であることとどう違うのか。
フランス人にしかできないフランス菓子のデザインとはなにか。
日本人にしかできないフランス菓子のデザインとはなにか。

 

などと言った噴出する疑問を勘案しながら、依頼に対して最適な問いを立てる。
そしてその問いのクオリティがそのまま答えのクオリティになる。
もちろん問いが難しいと、答えを出すのも難しくなるが
そもそも意義がある問いを設定しないかぎり、答えも意義があるものにはならない。

 

例えば制限なくまったく自由にデザインしてもいいですよ、という依頼であったとしても、
ただ奔放にデザインするのではなく、
自分自身で高度な問いを設定しなければ、優れたデザイナー(デザイナー以外の仕事人も)とは言えない。

 

どうすれば意義ある問いを設定できるのか。
それは常日頃から問題意識を持つことだろうと思う。
つまり依頼されたときから考え始めるのではなく、いつも自問自答していることで、
良質な問いをストックしておくことができるのだ。

 

矛盾しているようだが、仕事をしていないときこそ、
仕事をしていることが大事なのだ、と最近は考えている。

 

 

和火やってます。

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エコとセコさ

2021.03.31


最近よく考えているのがエコとセコさ。

サスティナビリティの観点からは、なるべく無駄をなくすほうが望ましいし、プラスチックゴミはきちんと分別されて、
適切に処分されるべきだと思う。マイバックの持参も基本的には良いことだろう。

 

ただエコは良くてもセコいのは嫌だなと気持ちの奥底で感じている。

 

 エコ的な観点を突き詰めていくと、慎ましやかになっていく。

 

まだ慎ましいのは良いとして、一回使ったラップは洗って再利用するとか、入浴後のお風呂のお湯で洗濯するとなると、
だんだんとセコいフィールドに入っていく気がする。

 

同じく考えるのは貧乏と貧乏くささの関係性。
貧乏はお金がない状態を指すが、お金がない=貧乏くさくなるかというとそうでもないし、
お金持ちでも貧乏くさい人はたくさん存在している(と思っている)。

 

効率を求めて、いつもコンビニでお惣菜を買い、プラスックの器に盛って食事をします、という人は
たくさんお金を持っていたとしても貧乏くさいなあと思ってしまう。
逆にお金がなくてお粥しかつくれなくても、丁寧につくり、美しく盛り付け、
時間をかけて優雅に食事をすれば、豊かではないだろうか。

 

「贅沢さとは無駄のこと」と言ったのは秋元康氏であるが、さすがその通りで、良い意味での無駄の存在が
日々の生活にささやかな楽しみや彩りを与えてくれ、ひいては贅沢さにつながるのだと考えている。

 

あさ一時間だけ早く起きて、仕事前にゆっくりと新聞を読む。

いつもは適当に焼いている魚を塩釜のオーブン焼きにしてみる。

一杯の珈琲を淹れるために湧き水を汲みに行く。

 

合理的に考え過ぎて、有益な無駄まで排除しようとすることが、セコさや貧乏くささに繋がるとすると
エコロジーに矛盾しない無駄を取り入れていければ、セコさも軽減されていくのではないだろうか。

 

例えば学生時代にお金がなかったときに、洋雑誌のいちページを封筒にし手紙を送っていたことがあった。
アイディアとセンス次第でリサイクル、リユースすることも魅力的になると考え、そのことは割と気に入っていた。

 

実際にセンスが良かったかはわからないが、少なくともセコくはなかったと思う。
 一番上の写真は国宝で、割れた茶碗を金で継ぐという発想はエコでありながらセンスが良い。
むしろ継がれることで完全な形よりも価値が上がる場合もあるのが金継ぎの面白いところ。

 

 環境や資源がいよいよ切羽詰まってきて、新しい局面を迎えつつあるが、
おそらく「贅沢なエコ」あるいは「有益な無駄を含んだエコ」みたいな発想から
次世代の新しい価値観が生まれてくるのではと最近よく想像している。

 

そして伝統的な文化を見るにつけ、日本人はそういうことがけっこう得意なのではとも感じている。

 

画像出典

『特別展 茶の湯』東京国立博物館

 

和火やってます。

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