すいせい

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デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです

 

いまさらながらと突っ込まれそうだが、ここ数年印象派の画家セザンヌにだいぶ魅せられている。

 

もともと印象派は、油絵を描いていた高校時代にのめり込んでいた時期があり、
そのころはモネやボナールが描く世界になるべく近づこうとしていた。
色の鮮やかさを追い求める印象派は高校生にもわかりやすかったのだろう、
それまで写実的に描くことを追求していた価値観ががらりと変わり、
どういう色と色を隣り合わせると鮮やかに発色するか、当時そんなことばかりを考えていた。

 

その後の自分の興味は、絵画史と同じ道を辿り、抽象画、現代美術、コンセプチャルアートなどを経て、
最終的にはデザインに行き着きつくことになり、絵画を制作することへの熱意はなくなってしまうが、
とにかく高校のときはモネを筆頭とする印象派に心を奪われていたのだ。

 

ただそんな印象派にどっぷりと浸かっていたときでさえ、セザンヌの存在はどう受け止めていいのかわからなかった。
全体的に輪郭がボヤッとしていて筆致も定まらないし、
安定しているはずのテーブルに置かれた果物はいまにも床に落下しそうである。
中間色が画面の多くを占めているので、印象派の命とも言うべき色彩の鮮やかさにも欠けている。
まったくひどい言いようだが、デッサンが狂っている鈍い色合いの絵だとしか当時は認識していなかった。
もしかして実物を見たことがないからかとも思い、
上野に来ていたバーンズ・コレクションで初めて対面したが、その印象は変わることはなかった。

 

それから月日が流れて2012年に国立新美術館で『リンゴとオレンジのある静物』という有名な作品を見る機会があった。
上記のように自分にとってセザンヌは評価が高いほうではなかったので、他の作品を見にいったついでだった。
しかしなにも期待せずに出会ったときの衝撃はいまだに忘れることができない。

 

絵は遠くからぼんやりと目の端に入ってきて、その段階でも何か美しいものがあるなと察知できた。
おや、なんだろうと思い、順路を無視して近づいていくと、美しい絵が目前にあった。
その絵には、いままで見たことがない奥深い方法で、リンゴやオレンジが描かれていた。
美しさの密度が濃く、ぎっしりと詰まっており、それらが幾重にも折り重なっていて奥が見透せない。
テーブルに置かれたリンゴの影の部分を見つめているとさまざまな色が現れては消え、点滅しているように見える。
さながら光を受けた宝石が回転しながらキラキラと輝いているようだった。
時間軸はないはずの絵画なのに、タイムラインのようなものを感じるのが不思議で、
まったく初めての体験に、いやはや、すごいものを見てしまったなと驚愕した。
いっぽうでその深遠さはどこから来るのだろうかと、魅力を言語化できないもどかしさがあった。

 

その後、何点か作品を見たが、質量ともに十分でなかったので言い表せずにいたが
現在、上野に来ているコートールド美術館に行き、セザンヌの秘密が少し理解できるような気がした。

 

『鉢植えの花と果物』という静物画を見ていたときだった。
鉢植えなどが乗せられた白い布が青色とも薄茶色ともつかない魅力的な色合いをしていた。
印象派の画家は、色が濁ることを嫌うので青に茶色を混ぜることは少ない。
しかしセザンヌはそのことにあらがうように色を混ぜていた。

 

画家がモチーフと長く向き合う際に、光の具合で、布が青に見える場合もあるし、薄茶色に見える場合もあるだろう。
一般的な印象派の画家はモネしかり、魅力的に見えた瞬間を捉え、例えば青のみで表現する。
しかしセザンヌは瞬間的な表現に飽き足らず、まるで長時間露光のように、
モチーフの魅力を可能な限りキャンバスに定着しようと試みたのではないだろうか。
その結果、青と茶色は混じって表現されたのだと感じた。

 

そう考えるとあいまいな筆致やねじ曲がった空間も納得がいく。
例えば一年という時の流れのなかで見えてくるモチーフの魅力を写し取ろうとすると
ゆらぎも必然的に定着することになるし、ある部分を集中的に描き、空間が歪むこともあると思われる。
たしかにサント・ビクトワール山を描くのだって数年かかるだろう。

 

瞬間を描いた印象派の画家は枚挙にいとまがないが、時の蓄積を描こうとした画家はセザンヌをおいて他に知らない。
なぜなら基本的に具象絵画の目的は、時を止めて瞬間を定着することにあるからだ。
ここら辺はグラフィックデザイナーの職能とも重なるが、
いかに見事に時間と空間を捨象し、平面に定着できるかが画家の才能になるのではないだろうか。

 

しかしセザンヌはその逆で、平面だった絵画にふたたび時間と空間を取り戻そうとしているように見える。

 

通常であれば彫刻や映像で表現するはずのことを、なぜ絵画で表現しようとしたのか?
もしセザンヌが生きていれば、そんな根本的な質問をぜひ尋ねてみたいと展示を見ながら思っていた。

 

コートールド美術館展

魅惑の印象派

2019年9月10日(火)~12月15日(日)

 

あと数日ですがセザンヌはぜひ本物を!

 

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必要があり、興味があったマクロレンズを購入しました。
むかし少しだけカールツァイスのマクロは触ったことがあるのですが
オートフォーカスでここまで寄れるのは初めて。

 

やはり独特の画角で撮ることができて面白いです。

 

で、マクロを入手したら撮ってみたかったのがアービング・ペンのシガレットシリーズ。
シガレットシリーズとはペンが煙草の吸殻を撮ったものなのですが、
ゴミとしか思ってなかった吸殻を、芸術まで高めることができるんだと学生時代に衝撃を受けた作品です。
ゴミが芸術になるって、問題提起としては最高レベルです。

 

まあもちろん本家とは雲泥の差なのですが、僕はカメラマンではないので、
その辺は趣味として大目に見ていただけると助かります。
実物はモノクロだし、こっちはカラーなのでオマージュみたいなものです。
そもそも煙草の吸殻に美を見出したペンの視点ありき。

 

このレンズ自体は等倍から無限大まで撮れるのでマクロ以外でも使えます。
解像もシャープでけっこう切れ味がいいし、フォーカスまでの時間も短い良いレンズです。

 

しかしよく考えてみたら普段はシグマばかりで純正のレンズを使うのは初めて。

 

違いが明確にわかるまで触ってないですがしばらくは遊べそうです。

 

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けっこうむかしに糸井さんが「かっこわるいのは、いいことなのか?」と言及されている投稿を最近みつけて、
なるほどなあと腑に落ちていた。

 

これを読むと「かっこいい、わるい論議」は根深い問題だとわかる。
かっこいいと感じる自然な心の動きに蓋をしてしまうのも問題だし、
そのことが他人の喜びまで奪ってしまう社会的損失に繋がっているのも問題だと思う。
前にも書いたことがあるが、感覚は使わないと退化していくものなので、
才能や感覚を伸ばすことが義務教育の目的だとすると真逆のことをしていることになる。

 

ただ趣旨としてはもちろんその通りと思うのだが、かっこいいことが全面的に良いとも
言い切れない気もしていて、思うところを書いてみたい。

 

自分の場合、着ている衣服を褒められたとすると、それは喜ぶべきことではない。
なぜならそこには自意識が見え隠れしていると思うから。
相手にかっこつけようとする下心を感じ取らせてしまい、
そのことに触れて欲しいのではという気遣いが発生していると思ってしまう。
もちろん世間では本当に見事な着こなしをしていて、純粋に褒め称える場合もあると思うけれども、
往々にして褒めて欲しいという欲望を察知した第三者が社交辞令として、
「ああ、その靴かっこいいですね」とか「その帽子かわいいですね」と受け応えているのだと考えている。
なので衣服を褒められたら、(あくまでも自分の場合は)失敗だったなと思ってしまう。

 

ではかっこわるい服装がいいと思っているかと言えば全くそんなことはなく、
なるべくそうならないように気を付けて選んでいる。
まどろっこしくなるが、かっこわるかったりダサいのは望んでいないからだ。
かっこはつけないが、ダサくない微妙なラインが自分には大事だと考えており、
この人はセンスはあるが控えめな服装なんだなと思われるあたりが理想だろうか。

 

このことは仕事のスタンスとも同様で、前提としてかっこいいデザインを目標にしないようにしている。
例えば信号のデザインとして求められる機能は色による識別性に尽きるだろう。
識別性が明快であればあるほど望ましいので、そのことを邪魔するかっこよさは求められていないし、
そもそも信号機なので邪魔するとしたら危険に繋がる。
なのでデザイナーがかっこつけたいという自意識を持っていたとしたら面倒なことになってしまう。
広告やパッケージなどは別にして、信号機含めた多くのデザインは落ち着いたたたずまいというのか、
日常の中で控えめに役割を果たすことが本分だろうと思う。

 

しかしもしかっこいいのが良いと言う社会的風潮が優勢だとすると、
信号の製作を依頼する際に、かっこよくしてくださいというオーダーも含まれることになるかもしれない。
現実的に信号機についてはなかなかそうならないだろうが、
かっこよくすることがデザインだという浅い認識がリテラシーとして社会の根底にあると
信号機をシマウマ柄にしてみました、みたいな悲劇が起こりそうで、想像するだけで疲れてしまう。

 

かと言って、かっこわるいのがいいこととは全然思えない。
前述のように感覚を押し殺したり、そのことを強要するのが人の行いとして正しくないと考えるからだ。
当然のことだが、生まれ持った感覚をポジティブに働かせて、そこから得られる愉楽を最大限に享受する権利が人間にはある。

 

だとすると人々の意識として、かっこはつけていないが、良い状態が大事になってくると思う。
つまりかっこいいを選べないときに、かっこわるいしか選べない現状を変えればいいのだ。
かっこいいの反対側にかっこわるいを置くのではなく、かっこつけていないがクオリティが高い、
を置くことができたら学校も社会も少しは変わるのではないだろうか。
そのことをひとことで言い表せないかとさきほどから考えているのだが…。

 

わかりやすくて、キャッチーな名前が見つかれば可能性がある話だと思うのは楽観的過ぎるだろうか。

 

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焼き直しをした越州窯青磁は実際に使えるようになったが、実はこの手の色合いは盛り付けが難しいのである。
そのことは買う段階でわかっていたが、なんとかなるかなと思って購入してみた。
なぜ難しいのか。そこには明らかな理由がある。

 

料理の話になると、味についての言及は盛んだが、どう食べるのかという話題はあまり多くはない。
どう食べるのかということは、色彩感覚やある種の環境学、あるいはストーリーテリングの要素までも含んでおり、
充実した食の享受を目的とするとそれらのことは避けては通れないと考えている。

 

一番わかりやすい例は盛り付けだろう。

 

いくら美味しい料理でも、安いっぽいプラスチックの器に、技巧もなく盛り付けては台無しになってしまう。
視覚的な要素が欠落するだけでも、魅力が失われてしまうことからわかるように
豊かな食には、味覚を含めた五感が全て充実していることが求められる。

 

例えば同じおにぎりにしても、春に見晴らしがいい公園で食べるのと、
掃除がされていない狭い部屋で食べるのとだと、どちらが美味しく感じるかは簡単にわかるだろう。
一般的には高級な調度品に囲まれたレストランでの食事が最上級と思われているかもしれないが
気持ち良く感じる環境という範囲で考えると、自然の中にも大い可能性を見つけることもできる。
このことをさらに追求すると環境学の領域に踏み込んでいく。

 

優れたストーリーがどういう意味を持つかは、前衛的な料理で知られるレストラン、Nomaの蟻の一皿を見ればわかりやすい。
食べ物には食べやすさのハードルがあり、そのハードルは人によりけりだが、
基本的にグロテスクなものや馴染みがないものほど食べにくい。
グロテスクであっても生活習慣に含まれていると抵抗感は薄れる。(例えばイナゴやイカの塩辛のように)
そういう意味で馴染みがない昆虫はグロテスクなので、ダブルでハードルが高くなってしまう。
ではなぜ人々はNomaで供される昆虫を喜んで食べるかというと、料理は目の前のものだけではなく
背景にあるストーリーも含めて食べているからだ。

 

背景のストーリが魅力的であればあるほど、充実した食を体験することができるし、昆虫さえも人々に食べさせる力を持つ。
ゲテモノ料理としてでなく、洗練された一皿に仕立て上げたNomaの功績はとても大きい。
(写真は映画『Ants on a Shrimp』より。もっと蟻が使われている料理もあるので興味がある人は検索してみてください)

 

上記のように、どう食べるかということは小局的には盛り付けから始まり、大局的には人が置かれた環境や物語にまで及ぶ。

 

今回の投稿では盛り付けの中のさらに小局的な色彩の話を進めたいと思う。

 

いい盛り付けにはいくつか要素があり

 

・色彩的要素

・配置的要素

・彫刻的要素

 

あたりがざっと抽出されるだろう。

 

それぞれ進めるとなると紙幅の限りもあるので(ウェブなので実際はないが)、
デザイナーとして関わりやすい、色彩について取り上げてみる。

 

さて上記の盛り付けを見た際にどちらが美味しそうに感じるだろうか。

 

盛られているものは同じだが、おそらく多くの人が左の写真(スマホだと上)と答えるのではないか。
その理由は色にある。
色彩的観点からだと、料理と器が同系色でなく、なるべく遠い色合いにある際に美味しそうに見える。
つまり補色に近い状態だ。

 

日本の器に染付が多いのは、煮物が多いこと、特に醤油で煮込まれたものが多いことがおそらく関係していると思われる。
醤油の色合いの反対色は、だいたい染付の藍色あたりになり、
そういった料理に合う器として、淘汰的に日本の中では染付が増えてきた。
これが同じアジア圏でもタイやベトナムになると、
料理に唐辛子を使う頻度が高まり赤系に傾くので、緑釉の器が多くなってくる。

 

煮物に合わせるための青系の器、おひたしなどの青物に合わせるための茶系の器が、
合わせやすい器のひとつの色の基準だろうか。
むろん無彩色の白と黒の器はどんな料理に合わせやすい。

 

逆に合わせにくい代表色として上げられるのが越州青磁の色である。
緑と茶の間なので煮物と青物のどちらを乗せても映えにくく、
鑑賞としてはとても優れているが器としての機能が満たされていない。

 

越州青磁は南宋の青磁の隆盛によって、12世紀くらいから衰退の一途をたどるが
その理由のひとつとして料理が映えにくいという欠点があったからではと考えている。
一方の南宋の青磁ははっきりとした青緑釉なのでアドバンテージがある。

 

色をシミレーションしてみた。

 

左(スマホだと上)がそのまま、右(スマホだと下)が青磁色にしたもの。やはり右の方が美味しそうに見える。

 

もっともなぜ補色関係であると美味しそうに感じるか、その理由はわからない。
以前、色感がいい人は味覚もいいと書いたことがあるが、そのあたりが関係しているのだろうか。
鮮度が失われるとともに、生命の色鮮やかさは後退していくものなので、
フレッシュさを感じる方に本能的に惹かれるからという考え方もできるが、
その辺はもう少し慎重に考えを進め、答えを探してみたい。

 

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焼き直し

2019.06.30

ときどき行く骨董市で、越州窯青磁とされる器をだいぶ安く手に入れることができた。
安かったのは、器のひとつがカセている状態だったから。
カセているというのは、骨董用語で言うところの釉薬がボロボロと剥離することを意味する。

 

右がカセている器

越州窯青磁とは、後漢から北宋の時代に、中国の越国(現杭州)で焼かれた青磁のことで、
青磁と呼ばれているが、実際は青いというよりは、緑がかった灰褐色の釉が中心で、
明るめから暗めまで割と幅があるらしい。後漢くらいから焼かれるようになり、
のちに南宋の青磁が栄える1100年代まで続いていた。(購入後、調べた)
南宋の龍泉窯などの精緻で澄み切った空のような青磁と比べると、青さも中途半端で
大味でざっくりとしているけれど、それはそれで良さがあるという感じだろうか。
もっとも南宋の青磁に人気を奪われるかたちで衰退していったのは、大味が原因だったからかもしれないが。

 

まあバイヤーが越州青磁と言うだけなので、真偽のほどはよくわからない。

 

もし本物ならば少なくとも900年以上は昔のものになるが、
骨董市では能書きではなく、自分のアンテナに何が引っかかるかという
ハプニング(予定不調和)を楽しむものだと考えているので、その辺は深く追求しないようにしている。
見た瞬間にどれだけ心を動かされるかが大事で、柳宗悦が言うところの「直下(じきげ)に見よ」の考えに近い。

 

にも書いたことがあるが、古いものはそれだけで素晴らしい場合が多い。
時代にフィルタリングされているということもあるが、そもそも格が違うと思っている。
様々な感覚器官をテクノロジーに頼ってしまっている現代人と比べて
古代の人々はより直感的に、十全に感覚を開いて生きていたので、やはり感覚表現のレベルが深いと感じるからだ。

 

持ち帰ってみると状態は予想以上に悪く、そのまま使っていくと釉薬が全部取れてしまいそうだった。

 

自分にとっての骨董はあくまで使って楽しむものなので、鑑賞するだけでは十分ではない。

 

ニスみたいなものを引けばいいだろうかなどと考えてみたが、
再びニスが剥離してしまうと根本的な解決にならないので、近い色合いの釉薬をかけてもう一度焼いてみてはどうかと考えた。
当然自分では窯を持っているわけもなく、知り合いの陶芸家にお願いしたところ、幸いにも焼いていだたけることになった。

 

釉薬を掛けた状態

 

見えないヒビがあったりすると、高温に耐えきれずに割れてしまうかもしれず、ダメ元のチャレンジだった。
どきどきしながら結果を待っていると、無事に焼きあがったとの連絡を受けた。

 

焼き直ししてみると、釉薬もきちんと定着しており、レリーフも前よりくっきりと浮かび上がっている。
まるで現代につくられたようなフレッシュさがあり面白い。
おそらく最初に窯から出てきた瞬間はこんな感じだったんだろう。
古さは残したまま、ピカピカに生まれ変わっている様子が、良い意味での違和感を醸し出している。

 

実験が成功したことで、何を盛ろうかと考える楽しみが生まれたが、
実はこの手の釉薬の色合いはだいぶ扱いが難しいのである。

 

それについては次回

 

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