すいせい

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デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです

自粛中に太ってしまったという話がときどき会話のトピックに上がってくる。
重病化してしまった例に比べるととても瑣末な問題だが、まあ実際コロナの弊害になるのだろう。

 

現代の飽食の時代に食べ過ぎずにいることはなかなか難しく、ダイエットに関してのノウハウ本は、書店に山と積まれている。
こんなにもたくさんのダイエット法が出てくるのは、まだ決定的な解決法がないことの証左である。
ひとつのダイエット法を試すが、痩せられない。あるいは一時的に痩せることができるが、元の体重に戻ってしまう。
失敗が多いので、新しいダイエットが次から次へと考案されていき、いまやダイエットビジネスの市場規模は2兆円とも言われている。

 

ダイエットの失敗ということに関して言えば、もちろんダイエット法に原因がある場合も多いが、
ほとんどはダイエットをする側に原因があるのではないかと思っている。
そしてそのことはブランドのあり方とも近いと思うので考えるところを述べてみたい。

 

ブランドが存在していくには当然ながら目標が必要である。
どこを目指すのか定めて、目標になるべく近づくように進めていき、到達したら、また新しい目標を目指す。
目標を定めることによって存在理由も決まるので、目標がなかったり、そのことを見失ったブランドは危険だと思う。
よって経営責任者は働く人のモチベーションが存分に高まるような魅力的なビジョンを示さなければならない。
CEOにとって一番大事な仕事はビジョンを示すことなのだ。

 

このことはダイエットとも同じで、ダイエットが成功するためには
どれだけ魅力的な目標を掲げられるかがポイントだと考えている。

 

自分が自分の経営者だとするとどういった目標を掲げればいいのだろうか。

 

ダイエットで一番多いのが短期的な目標ではないだろうか。
例えば夏までに痩せて水着を着たいとか、授業参観にこのスカートを履いていきたいといった目標は即効性はあるかもしれない。
しかし目標が達せられたら、それまでのモチベーションを維持するが難しくなり、その多くは元に戻ってしまう。
そして短期型の場合は食生活をドラスティックに変更するので、
フラストレーションが溜まってリバウンドすることが多く、魅力的な目標とはとても言えない。

 

次に多いのは審美的な目標だろう。
痩せているほうが見栄えがいいと判断し、キリがいい数字を目指して、体重を減らしていく。
これはまあまあ長続きすることが多い。
自分が理想とする体重を決めておいて、日々摂生すればリバウンドも起こりにくい。
ただ審美的な目標は、年をとるにつれて効果は弱まっていく傾向にあるし、
過剰なダイエットに走り、精神的にも身体的にも健康面を損なってしまう場合もあるだろう。
拒食症や過食症に陥ってしまっては元も子もない。
つまり審美という目標も、一見目標が定まっているように見えるが、実は抽象的で曖昧だと思われる。
魅力的になりたいならば、もしかしたら髪型やファッションを変えるほうが早いし、合理的かもしれないからだ。

 

また基本的に運動によるダイエットはオススメしない。
計算をしてみればすぐにわかるが有酸素運動を1時間してみても消費されるカロリーはごくわずかである。
筋肉をつけることで基礎代謝を上げる方法もあるが同じことだと思う。
毎日運動を続ける困難さもあるし、もし続かなくなったらリバウンドと同じ現象が起こってしまう。
総合的な意味での健康面のメリットは大きいし、カロリー消費しないこともないので運動自体を否定はしないが、
まずは摂取カロリーを減らすことから始めるのがダイエットの本筋だと考えている。

 

ではどのようなビジョンを示すが一番いいのだろうか。

 

そもそもダイエットすることの一番の失敗は痩せることのみが目的化しているからではないだろうか。
ダイエットなので、痩せるのは当たり前だろうと突っ込まれそうだが、
痩せることだけを目指すと、過剰に痩せたり逆にリバウンドで太ったりして、健康を損なうことが多いと考える。

 

人間のすべての活動は健康の上になりたっているので、
いくら審美性を得られたとしても、長期的に健康に暮らせないならないならば、ダイエットをする意味はないと思う。
つまりダイエットをする際のもっとも理想的で魅力的な目標は「健康になる」ではなかろうか。
世間ではよく「健康的に痩せる」というが意味は大きく違う。痩せる目的はあくまで健康になるためだからである。
痩せてどうしたいのか?という次の問いを自分は投げかけたいのだ。

 

健康という指標を掲げると、医学的なアプローチから理想の体重が決まる。
その体重を目指して、日々バランス良い食生活を心がけながら、摂取量を調整していく。
ゆっくりと数年くらいかければリバウンドも起こりにくいと思う。
考え方としてはダイエットというよりは、健康的なライフスタイルへの移行であろうか。

 

それでも審美的な意味で痩せたいのなら、医学的に健康である範囲内でよりカロリーの少ないライフスタイルを志向する。
(ちょうどいい体重で自分の審美に納得できないのは、痩せているほうが美しいというメディアの刷り込みだと思ったほうがいい。
それらの多くがダイエットビジネスに誘導するためである。)

 

以上がいまのところ考える最も理想的なダイエット法で、実際に自分はこのやり方を実践していて、
良好な健康状態を維持しているし、体重も学生のころと比べて5kgくらいしか増えていない

 

ブランドも収益を上げたあとのことを考えるべきである。
ドラッカーの有名な言葉を引用させてもらえれば、収益は目的ではなくあくまで手段なのだから。

 

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まったく未知のウィルスが猛威をふるっている。
現実的な被害も甚大だが、おそらくコロナが一番やっかいなのは先行きが見通せない不透明さにあるだろう。
感染率が高くても、1年後には必ずワクチンができますとなれば、経済の見通しが立てられる。
死亡率が高くても、暖かくなりウィルスが不活性化するとわかっていれば、まだ人々の不安が拭える。
いまの世の中は、どれだけ正確に予測が立てられるかという、いわば確実性を元にまわっているので、
反対の性質を持つコロナは資本主義社会の経済がまわることを阻害する頭が痛い存在だと言えるだろう。

 

未知のものが社会をどのように変えていくのか想像するのは難しいが、ひとつだけわかってきたことがある。
それはインターネットがますます重要になるということである。
すでにさまざまなモノゴトがスマホを初めとするインターネットに吸い取られているが、コロナはこの傾向を急激に加速させている。

 

こう書いていると批判しているように思われるかもしれないが
まずはこのような状況にインターネットがあってつくづくよかったと考えている。

 

急速に拡がるコロナの情報を、時差なく世界中で共有し、可視化できることが、
有効な手立てになっているのは言うまでもない。
家に閉じこもっていても、SNSなどでやりとりできるし、映画や音楽を楽しめることが
どれだけ気持ちを楽にしてくれるか。ない状況を想像するだけでぞっとしてしまう。
中世ならいざ知らず、現代人でさえ疑心暗鬼になり、副次的に人を攻撃する事態が起こっているが、
インターネットがあるからか、魔女裁判までの悲劇にはつながっていない。

 

テレワークやオンライン授業などが始まり、今後それらがシステム含めて変わっていくのは間違いないだろう。

 

ただ現在のインターネットの使い方は、コロナ対策としては妥当だと思うが、
今後も通勤や対面の授業が必要ないものとして扱われるのは行き過ぎたことだと思う。

 

会社に毎日行くことの不合理さは前々から論議に上がっていたので、
このタイミングで在宅勤務になり、その恩恵を受けている人も多いかもしれない。
慣例として行われる必要ないモノゴトはとても多いから(例えばハンコを押すために会社に行くなど)、
そのあたりは刷新されて然るべきだと思う。

 

しかし全面的に通勤をなくし、会議や授業も全てオンラインで行えばいいという考えには組できない。
なぜなら現在の状況では、本当の意味で無駄なものと、一見無駄そうだが実は大事なものとの線引きができていないと考えているからだ。
仕事の合間にたわいもない話をはさむことで、本来の業務が円滑に進むこともあるし、
新しいビジネスのアイディアに繋がることもありうる。

 

長時間の電車通勤でさえ、オンオフの切り替えと事務仕事に充てて、
有意義な空間と時間を手にしている人もいるだろう。

 

例えば、会って話せる距離であれば、オンライン会議などせず、
対面で打ち合わせするほうが、短い時間でもクオリティが高くなると前々から感じていた。
2時間のオンライン会議より、30分の対面である。
それがなぜかは様々な理由があると思うが、
私たちが考えるよりもオンラインでやり取りできる情報量が少ないからだろう。
これも無駄の本質が腑分けできていないからだと考える。

 

学校教育に関しても何をか言わんやである。
N高などをはじめ、オンラインの新しい教育のあり方を模索することは有意義だが、
やはり対面や学生同士の横の会話が自由にできる学校教育に軍配があがるのは間違いないだろう。

 

なぜなら大学をはじめとする学校教育が提供できる最大のメリットは大いなる無駄遣いにあると考えるからだ。
それは時間の無駄遣いであり、エネルギーの無駄遣いであり、お金の無駄遣いでもある。

 

すぐに役に立たないということで、昨今大学の文系の予算が削られつつあるが、これも根源は同じ問題をはらんでいる。
いまは役に立たないが、10年後に、もしかしたら100年後に重要な意味を持つかもしれない学問を護する懐の広さが、
アカデミズムや大学が本来持っていた知性であり価値のはずであった。
現在の予算削減はヴァンダリズムに他ならず、無駄の本質を見極めないと、大事なことを見誤ってしまうのではと危惧している。
そしてその代償は50年後、100年後に払わないといけなくなる。

 

現在多くのモノゴトがインターネットを介することで、便利になったように感じている。
しかしいまだにインターネットは花の匂いも、手の温もりも、珈琲の苦さも伝えることはできていない。

 

コロナによって奪われる大事なものはたくさんあるが、自らそれらを捨て去らないように注意したいと思う。
まずは世間では無駄だとされているが、個人的に大事にしていることを守ることからだろうか。

 

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いまさらながらと突っ込まれそうだが、ここ数年印象派の画家セザンヌにだいぶ魅せられている。

 

もともと印象派は、油絵を描いていた高校時代にのめり込んでいた時期があり、
そのころはモネやボナールが描く世界になるべく近づこうとしていた。
色の鮮やかさを追い求める印象派は高校生にもわかりやすかったのだろう、
それまで写実的に描くことを追求していた価値観ががらりと変わり、
どういう色と色を隣り合わせると鮮やかに発色するか、当時そんなことばかりを考えていた。

 

その後の自分の興味は、絵画史と同じ道を辿り、抽象画、現代美術、コンセプチャルアートなどを経て、
最終的にはデザインに行き着きつくことになり、絵画を制作することへの熱意はなくなってしまうが、
とにかく高校のときはモネを筆頭とする印象派に心を奪われていたのだ。

 

ただそんな印象派にどっぷりと浸かっていたときでさえ、セザンヌの存在はどう受け止めていいのかわからなかった。
全体的に輪郭がボヤッとしていて筆致も定まらないし、
安定しているはずのテーブルに置かれた果物はいまにも床に落下しそうである。
中間色が画面の多くを占めているので、印象派の命とも言うべき色彩の鮮やかさにも欠けている。
まったくひどい言いようだが、デッサンが狂っている鈍い色合いの絵だとしか当時は認識していなかった。
もしかして実物を見たことがないからかとも思い、
上野に来ていたバーンズ・コレクションで初めて対面したが、その印象は変わることはなかった。

 

それから月日が流れて2012年に国立新美術館で『リンゴとオレンジのある静物』という有名な作品を見る機会があった。
上記のように自分にとってセザンヌは評価が高いほうではなかったので、他の作品を見にいったついでだった。
しかしなにも期待せずに出会ったときの衝撃はいまだに忘れることができない。

 

絵は遠くからぼんやりと目の端に入ってきて、その段階でも何か美しいものがあるなと察知できた。
おや、なんだろうと思い、順路を無視して近づいていくと、美しい絵が目前にあった。
その絵には、いままで見たことがない奥深い方法で、リンゴやオレンジが描かれていた。
美しさの密度が濃く、ぎっしりと詰まっており、それらが幾重にも折り重なっていて奥が見透せない。
テーブルに置かれたリンゴの影の部分を見つめているとさまざまな色が現れては消え、点滅しているように見える。
さながら光を受けた宝石が回転しながらキラキラと輝いているようだった。
時間軸はないはずの絵画なのに、タイムラインのようなものを感じるのが不思議で、
まったく初めての体験に、いやはや、すごいものを見てしまったなと驚愕した。
いっぽうでその深遠さはどこから来るのだろうかと、魅力を言語化できないもどかしさがあった。

 

その後、何点か作品を見たが、質量ともに十分でなかったので言い表せずにいたが
現在、上野に来ているコートールド美術館に行き、セザンヌの秘密が少し理解できるような気がした。

 

『鉢植えの花と果物』という静物画を見ていたときだった。
鉢植えなどが乗せられた白い布が青色とも薄茶色ともつかない魅力的な色合いをしていた。
印象派の画家は、色が濁ることを嫌うので青に茶色を混ぜることは少ない。
しかしセザンヌはそのことにあらがうように色を混ぜていた。

 

画家がモチーフと長く向き合う際に、光の具合で、布が青に見える場合もあるし、薄茶色に見える場合もあるだろう。
一般的な印象派の画家はモネしかり、魅力的に見えた瞬間を捉え、例えば青のみで表現する。
しかしセザンヌは瞬間的な表現に飽き足らず、まるで長時間露光のように、
モチーフの魅力を可能な限りキャンバスに定着しようと試みたのではないだろうか。
その結果、青と茶色は混じって表現されたのだと感じた。

 

そう考えるとあいまいな筆致やねじ曲がった空間も納得がいく。
例えば一年という時の流れのなかで見えてくるモチーフの魅力を写し取ろうとすると
ゆらぎも必然的に定着することになるし、ある部分を集中的に描き、空間が歪むこともあると思われる。
たしかにサント・ビクトワール山を描くのだって数年かかるだろう。

 

瞬間を描いた印象派の画家は枚挙にいとまがないが、時の蓄積を描こうとした画家はセザンヌをおいて他に知らない。
なぜなら基本的に具象絵画の目的は、時を止めて瞬間を定着することにあるからだ。
ここら辺はグラフィックデザイナーの職能とも重なるが、
いかに見事に時間と空間を捨象し、平面に定着できるかが画家の才能になるのではないだろうか。

 

しかしセザンヌはその逆で、平面だった絵画にふたたび時間と空間を取り戻そうとしているように見える。

 

通常であれば彫刻や映像で表現するはずのことを、なぜ絵画で表現しようとしたのか?
もしセザンヌが生きていれば、そんな根本的な質問をぜひ尋ねてみたいと展示を見ながら思っていた。

 

コートールド美術館展

魅惑の印象派

2019年9月10日(火)~12月15日(日)

 

あと数日ですがセザンヌはぜひ本物を!

 

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必要があり、興味があったマクロレンズを購入しました。
むかし少しだけカールツァイスのマクロは触ったことがあるのですが
オートフォーカスでここまで寄れるのは初めて。

 

やはり独特の画角で撮ることができて面白いです。

 

で、マクロを入手したら撮ってみたかったのがアービング・ペンのシガレットシリーズ。
シガレットシリーズとはペンが煙草の吸殻を撮ったものなのですが、
ゴミとしか思ってなかった吸殻を、芸術まで高めることができるんだと学生時代に衝撃を受けた作品です。
ゴミが芸術になるって、問題提起としては最高レベルです。

 

まあもちろん本家とは雲泥の差なのですが、僕はカメラマンではないので、
その辺は趣味として大目に見ていただけると助かります。
実物はモノクロだし、こっちはカラーなのでオマージュみたいなものです。
そもそも煙草の吸殻に美を見出したペンの視点ありき。

 

このレンズ自体は等倍から無限大まで撮れるのでマクロ以外でも使えます。
解像もシャープでけっこう切れ味がいいし、フォーカスまでの時間も短い良いレンズです。

 

しかしよく考えてみたら普段はシグマばかりで純正のレンズを使うのは初めて。

 

違いが明確にわかるまで触ってないですがしばらくは遊べそうです。

 

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けっこうむかしに糸井さんが「かっこわるいのは、いいことなのか?」と言及されている投稿を最近みつけて、
なるほどなあと腑に落ちていた。

 

これを読むと「かっこいい、わるい論議」は根深い問題だとわかる。
かっこいいと感じる自然な心の動きに蓋をしてしまうのも問題だし、
そのことが他人の喜びまで奪ってしまう社会的損失に繋がっているのも問題だと思う。
前にも書いたことがあるが、感覚は使わないと退化していくものなので、
才能や感覚を伸ばすことが義務教育の目的だとすると真逆のことをしていることになる。

 

ただ趣旨としてはもちろんその通りと思うのだが、かっこいいことが全面的に良いとも
言い切れない気もしていて、思うところを書いてみたい。

 

自分の場合、着ている衣服を褒められたとすると、それは喜ぶべきことではない。
なぜならそこには自意識が見え隠れしていると思うから。
相手にかっこつけようとする下心を感じ取らせてしまい、
そのことに触れて欲しいのではという気遣いが発生していると思ってしまう。
もちろん世間では本当に見事な着こなしをしていて、純粋に褒め称える場合もあると思うけれども、
往々にして褒めて欲しいという欲望を察知した第三者が社交辞令として、
「ああ、その靴かっこいいですね」とか「その帽子かわいいですね」と受け応えているのだと考えている。
なので衣服を褒められたら、(あくまでも自分の場合は)失敗だったなと思ってしまう。

 

ではかっこわるい服装がいいと思っているかと言えば全くそんなことはなく、
なるべくそうならないように気を付けて選んでいる。
まどろっこしくなるが、かっこわるかったりダサいのは望んでいないからだ。
かっこはつけないが、ダサくない微妙なラインが自分には大事だと考えており、
この人はセンスはあるが控えめな服装なんだなと思われるあたりが理想だろうか。

 

このことは仕事のスタンスとも同様で、前提としてかっこいいデザインを目標にしないようにしている。
例えば信号のデザインとして求められる機能は色による識別性に尽きるだろう。
識別性が明快であればあるほど望ましいので、そのことを邪魔するかっこよさは求められていないし、
そもそも信号機なので邪魔するとしたら危険に繋がる。
なのでデザイナーがかっこつけたいという自意識を持っていたとしたら面倒なことになってしまう。
広告やパッケージなどは別にして、信号機含めた多くのデザインは落ち着いたたたずまいというのか、
日常の中で控えめに役割を果たすことが本分だろうと思う。

 

しかしもしかっこいいのが良いと言う社会的風潮が優勢だとすると、
信号の製作を依頼する際に、かっこよくしてくださいというオーダーも含まれることになるかもしれない。
現実的に信号機についてはなかなかそうならないだろうが、
かっこよくすることがデザインだという浅い認識がリテラシーとして社会の根底にあると
信号機をシマウマ柄にしてみました、みたいな悲劇が起こりそうで、想像するだけで疲れてしまう。

 

かと言って、かっこわるいのがいいこととは全然思えない。
前述のように感覚を押し殺したり、そのことを強要するのが人の行いとして正しくないと考えるからだ。
当然のことだが、生まれ持った感覚をポジティブに働かせて、そこから得られる愉楽を最大限に享受する権利が人間にはある。

 

だとすると人々の意識として、かっこはつけていないが、良い状態が大事になってくると思う。
つまりかっこいいを選べないときに、かっこわるいしか選べない現状を変えればいいのだ。
かっこいいの反対側にかっこわるいを置くのではなく、かっこつけていないがクオリティが高い、
を置くことができたら学校も社会も少しは変わるのではないだろうか。
そのことをひとことで言い表せないかとさきほどから考えているのだが…。

 

わかりやすくて、キャッチーな名前が見つかれば可能性がある話だと思うのは楽観的過ぎるだろうか。

 

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