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デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです

味を理解する

2023.08.29

子供のころは苦手だった食べ物が大人になり食べられるようになる、
あるいはむしろ好きになるということがありますね。
苦かったり、クセが強かったりするものに多いかもしれません。

 

その理由として、一般的には味覚の鋭敏さが大人になるにつれて衰えるからだと考えられています。
舌に並んだ味を感知する味蕾というセンサーが、30代以降になると子どもの頃の1/3くらいまで減少してしまい、
苦みがあるものや風味が強いものも食べられるようになるというわけです。

 

僕は、この医学的な理由の他に、理解力が影響しているのではと考えています。
味蕾が衰えるだけでは、例えば苦味を好むようになるといった変化は説明できないと思うからです。

 

子供のころはわかりやすい美味しさを求めます。
赤ちゃんなんかはとくにそうですが、知識や経験が少ないぶん、摂取するものを動物的に選り分けないといけません。
甘みや旨味=「安全」、苦味や酸味=「危険」という人間の本能が強く働くことで、安全な範囲のわかりやすい味を好むのだと考えられます。
大人になると身体に悪いものは識別できるようになるので、一見不味いと感じる食べ物であっても、
余裕を持って味わい、それまで気付かなかった美味しさを発見することができるのではないでしょうか。

 

たとえば、パクチーのような食べ物は、
子供の頃はその風味が理解できず(おそらく毒草のカテゴリーに分類されるので)、避けるのが一般的です。
しかし経験を重ねると、嫌いだった特徴的な香りを、逆に楽しむものなのだとわかるようになります。
最初は本能的に拒絶しますが、毒ではないという理解が進むことで、だんだんと好きになる変化が起こるのだと想像します。

 

そしてそのポジティブな変化は料理によるところが大きいと思われます。
腕の良いシェフのひと皿はパクチーをつかう必然性や意図が理解しやすいからです。
いままでは嫌いだったけど、こういう角度でこういう風に食べれば美味しいなと、
わかりやすくプレゼンされると、苦手だった食べ物が好きになる可能性が高くなると思います。
そういった意味では世の中に不味いものはなく、まだ自分が理解できていない味、
もっと言えばいつかは理解でき、好きになる味なのかもしれません。

 

(とはいえパクチーはカメムシの匂いがしてどうしてもダメだという人もいます。
嗅覚のレセプターは遺伝によって決まるので、ある人にとってはいい匂いでも他の人はそうでないという差が
どうしても生まれてしまいます。おそらく味覚も同じようなものなので、好き嫌いをなくすには限界があるのかもしれません)

 

味覚は男性のほうが保守的と言われています。

 

一般論になってしまいますが、女性のほうが料理をする機会が多いので、
育った家庭の味から早い段階で離れることができ、自分のあたらしい味覚を獲得するからではないでしょうか。
一方の男性は家庭料理が味覚のベースのままなので、冒険をしない保守的なタイプが多い。
パクチーが苦手な割合は男性のほうが多いというのもわかる気がします。

 

理解力は「味」に関してだけでなく、その他の五感についても言えることだと思っています。
年齢とともに聴覚も衰え、だんだんと高音が聴こえなくなりますし、視覚も場合によっては見えづらくなります。
ただそのぶん複雑味や奥深さなどへの理解は、トレードオフのように広がっていくのでしょう。

 

本能的な反応や反射を、いかに知識や経験などによってコントロールし、その先にある価値に気付けるか、
これがひとつの「大人」の基準となるのかもしれません。

 

写真は大人の味の代表格?と勝手に思っているカラスミです。最近購入した古染付に乗せて。

 

 

そういえば遅ればせながらすいせいのインスタグラムを始めました。
あまり更新しないですがフォローいただけますと幸いです。

 

 

 

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学生と話していると自分ではふだん意識していなかったことを聞かれて、物事を改めて考えることが多い。
それは授業を持ち、学生と対面することの面白さのひとつであるのだが、先日はアイディアについて話が及んだ。
(今年の多摩美の授業は通常営業で対面で行なっている。)

 

アイディアがないと面白いデザインにはならないので、知恵を絞ったほうがいいという会話の流れで、
「いいアイディアとはなにか?」と聞かれた。
アイディアという言葉は特に専門的でもないし、ふつうによく使うので、簡単に説明できるかと思ったが
意外に難しくしばらく時間を要することになった。

 

学生から何かを聞かれた場合は、きちんと向き合い誤魔化さずに答える。そして自分の言葉を選ぶようにしている。
どこかで聞いたような言葉だとか、ググれば得られる知識はどちらも求めていない。

 

そのとき答えたのは「魅力の重なり」だった。

 

いくら面白そうなアイディアでも魅力がひとつだけだと、ひとびとはあまり関心しない。
しかしそれらがいくつにも重なると、輝きを増す。

 

例えばダイヤモンドという宝石がもてはやされるのは、透明度だけでなく輝度や硬度もあるからだ。
これがもしガラス並みの硬度だったなら、だれも指輪にしようとは思わないだろう。
バラという花に人々が魅了されるのは、華やかな色彩はもちろんのこと、
その造形の美しさやかぐわしい芳香も兼ね備えているからだ。
どれかひとつだけの要素では人々は熱狂しない。

 

上記の例は自然物だが、いいアイディアもこれに近くて、魅力がいくつか重なってないと、世の中では評価されにくい。
ひとつの側面からでなく、多角的で重層的なつながりを持っていること。そしてその数が多ければ多いほど重宝される。

 

ではどうすれば、そのようなアイディアをひらめくことができるのか。

 

必要な情報をインプットする

問いを立てる

何度も考える

 

自分に言えるとするとこんな感じだろうか。

 

まずはなるべくたくさんの情報を集めて、必要なものを取捨選択する。
最初の段階では情報は多ければ多いほど望ましいと思う。
この際に大事な情報が後から出てくるなどの不備がないよう注意する。
情報に不備があると、導き出す答えにも当然不備が出てくるからだ。

 

有益な情報を選び出したら、前回書いたように「問い」の設定を行う。
ここではなるべく意義があり、良質な問いを立てる。

 

その後は「回数力」だと思っている。

 

回数力は僕の造語で、いわゆる集中力の対義語、「多動力」的な意味にも近いだろうか。

 

たとえばアイディアの締め切りが10日後だったとする。
同じ量の時間の使い道として、最後の数日に集中して考えるのと、
10日間に渡ってなるべく多くの回数考えるのだと、瞬間的な時間であっても
後者のほうが良質なアイディアを思いつく可能性が高い。

 

お題を頭の片隅に置いおいて、日常のあらゆる場面で思い出すように意識する。
食事をしながらとか、テレビを見ながらとか、お風呂に入りながらとか
いつも気にしながら、ひらめく瞬間を待つ。

 

往々にして捻り出したアイディアは面白くないので、この「待つ」姿勢が大事だと考えている。

 

いわゆる「降りてくる」状態というか、あくまで自分が考えつかないようなレベルのアイディアが
自然と頭に浮かぶのを待つことが重要だと思う。

 

それと大事なのはなるべく早いタイミングで考え始めること。
科学的な根拠はぜんぜんないが、考え始めると脳内の構造が変化していくようで、
ひと晩かふた晩くらい経つと、頭が思いつきやすい状態にシフトしているのを実感する。

 

アイディアの芽が出やすい土壌をつくり、種子の発芽を待つ農業的なスタイルを自分の仕事では実践している。

 

 

和火やってます。

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善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。

——親鸞『歎異抄』

 

ひとはなぜ悪に惹かれるのか。
悪の美学ではないが「善」とされるものにはない魅力があるように思える。

 

以前ちょいワルのことについて投稿したことがあったが
最近その考えをアップデートしているので書いてみたい。

 

該当の記事はこちら

 

このときは、マイケル・ジャクソンのアルバムを例に出し、
良いと悪いの間を揺らぐことに意味があるという内容だった。

 

いま現在は「悪」という概念自体が、実は悪ではない場合があるのではないかと考えている。

 

そもそも善悪という視点自体が、曖昧で掴みどころがないものではないだろうか。
道徳や規範や常識などに縛られることも多く、
時代や世間の空気、あるいは政治性などにも影響を受けてしまいやすい。

 

つまりひとが惹きつけられてしまう悪は、一時的に悪のラベルが貼られているが、
実は本質的で重要な意味を持ち、世間が変わり、価値観が変わると
その真価が発揮されるようになるものではないかと、いまのところは考えている。
世間一般には悪とされていたとしても、本能的にそういったことを嗅ぎ分けているために、
惹かれてしまうのではないだろうか。

 

ヤクザという存在を肯定するわけではないが、そういったジャンルの映画を楽しむのも、
暴力性などが違ったかたちで現れると魅力的であるからだろうと思う。
反社会的であったり、モラルに反する暴力性は映画のなかだけでとどめておきたいが、
現実社会では例えば格闘技というジャンルであれば、その発露がうまくいくかもしれない。
あるいは身体をダイナミックに動かすスポーツも、選択肢に入るかもしれない。

 

詐欺行為がフィクションで成立するのも、あざやかにひとを騙す、騙されることに面白さがあるからで、
たとえばマジック(手品)などはその「騙す」部分だけを、純粋なエンターテイメントに昇華している。

 

マイケルのような音楽や芸能の分野などは、言語化できない魅力の総本山である。
暴力性はもちろん、性的なもの、狡猾さ、横柄さ、自己顕示欲などもポジティブに転換できるし
逆に言うとそういった要素がないと惹きつけられない気がする。

 

冒頭は「悪人こそ救われる」で有名な親鸞の『悪人正機』の言葉であるが、
ここでいう悪人とはすべての人類のことを指し、ひとはそもそも善悪がわからないという。
煩悩を持ち、まだらのように善悪が入り混じる人間はすべて悪人である、とは強い言葉であるが、
反面、原罪を喝破している意味で優しい言葉でもある。

 

いつの時代もひとが悪に魅了されるのは、
分つ難く煩悩や原罪から切り離すことができない宿命を背負っているからだろう。
その足元には常識を超えた何かが潜んでいるのではないかと想像する。

 

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先日、デッサンについて会話をする機会があり、美大の受験ではデッサン力を偏重しすぎているのではという話になった。
まあよく言われることである。

 

芸大・美大は芸術学の学科などを除き、だいたいにおいて、
入試にデッサンがあるので、美大を志そうとした段階で自動的にデッサンを始めないといけない。

 

ここでいうデッサン力とは石膏や人物などを鉛筆や木炭などでリアルに描写する力を意味している。
本来デッサン力はもうちょっと広い意味を指すと考えているが、話が広がり過ぎるので、焦点を絞ることにする。

 

そのときに主題となっていたのは、なぜ日本の美大はこれほどまでにデッサンを重要視するのかということだ。
海外の美術系大学入試の場合は総合的に判断されることが多く、日本ほどのデッサンのレベルの高さは要求されない。

 

この日本の美大の姿勢はリアルな描写力がなければ美術の表現をする資格がないと言っているようなもので
芸術が本来一番大事にしないといけないはずの自由さをないがしろにしている行為とも思える。
むろん絵の巧拙だけで、芸術性が問われることがあってはならないし、また芸術への間口はなるべく広大なのが理想だろう。
人口比をみて日本から偉大な芸術家が多く輩出されているのなら
デッサン力重視の教育のメリットを感じるが、そういった話を聞くこともない。

 

もしポール・セザンヌがフランスではなく日本に生まれていたら、あの才能が開花しただろうか。
セザンヌは19世紀で最も偉大な画家だと思っているが、リアルに描写することに長けていたわけではないので、
受験の石膏デッサンではいい点数は望めないだろう。
いまのシステムだと美大には入れないばかりか、自分には才能がないと打ちひしがれ、絵筆を折っていたかもしれない。

 

ではデッサン力より大事なものは何か。
それは「センス=美意識」ではないかと考えている。

 

どんなにリアルな描写ができても、最終的なアウトプットが美しくセンス良くなければ、魅力ある表現とは言えないだろう。
逆に美意識があれば、リアルな描写がなくても、美しくセンスが良い表現につながる。

 

よく「センスだけ良くても駄目だよ。基本となるデッサンができていないと」というような意見も言われるが
はたして本当にそうだろうか。

 

例えばアンゼルム・キーファーやボルタンスキーらの活動は、リアルな描写表現はとらないが、
人が知覚できる五感を超えた表現のありかたを示しているように思う。
魂の奥深さというか、人々の意識の奥底を揺さぶるような作品は、ふだん使っていない新たな感覚の扉を開かされる。

 

美術表現においてはセンスがデッサン力を凌駕すると考えるので「デッサン力があっても、センスがないと駄目」ではないだろうか。

 

入試でセンスをどう計ればいいのかは簡単ではないが、
海外のようにポートフォリオなどを提出させて、総合的な個性を見るという選択肢があってもいいと思う。
入試会場で描かされる数枚だとやはりセンスを推し量るのは難しい。

 

そしてここは大事なポイントだと思われるが、センスがいい才能を見出すには、
選ぶ側もいいセンスを持っていないいけないということ。
デッサン力は指標としてはわかりやすいが、いいセンスが何かという問いには明確な答えがないので、
選ぶ側にもセンスが要求されるのだ。

 

あまり大きな声では言えないが教員側のセンスに自信がないので、デッサン力を重視しているという問題も、
いまの入試のシステムには潜んでいるのではないかと思っている。

 

 

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デザイン職あるいはクリエイティブにまつわる職にとって大事なことはたくさんあると思われるが、
表題の「幼児性」はとても重要な意味を持つのではないかと、最近考えている。

 

幼児性とは何か? 簡単に言うと、自分の心に素直に従うことだと思う。
いや、ただの心ではなく少年のような心という注釈付きだ。

 

人は年齢を重ねるにつれて、鈍感になっていく(と考えている)。
そのことを「おじさん化」というと、性差別と指摘されそうだが、実際に男のほうがそういった傾向は顕著ではないだろうか。

 

義務教育を終えて社会人となり、30を過ぎるころにはだいたいおじさん化が始まる。
もしかしたらそれよりも前から始まっているかもしれないが
おおよそ社会に慣れてきたころから感覚が鈍麻していくと想像している。
(たぶん自分はなんでもわかっているという過信が、鈍感でもいいという甘えを生むのだろう←自戒を込めて)

 

服装や髪型に気を使わなくなり、世の潮流からも少しずつ距離が出てくる。
新しい音楽を探すこともなくなり、美術館や映画館などからも足が遠のき、
思考や好みが固定化して、動きがなくなる。
ときどき世の中とのギャップを感じることはあるが、まあ大丈夫と放っておくと、
もう後戻りできない状態になってしまっていることに、いつの日か気付く。
これが自分が考えるおじさん化のおおまかなイメージだ。

 

ひとは幼稚園や小学校の低学年くらいまで鋭敏な感覚を持っている。
子供は五感が全方位に開いているので、あらゆることに興味があり、
放っておいても、絵を描くし、歌を口ずさみ、音楽に合わせて踊る。
本来的にひとはみずみずしい感受性をもっており、芸術系の活動も好きなはずなのに、
だんだんと得意不得意がわかってきて、あるいは成績などの社会的評価をつけられることで、自ら心の動きを封じ込めてしまう。
もちろん素質を見極めることは大事なことだし、分別がつかないと生きてはいけないと思うけれども、
女性が男性と比べて、大人になってもやわらかい心を有している事実は、やはり一考の価値があるだろう。
得意不得意は把握しつつも、感性までは閉ざさない、その辺のバランスはなかなか難しい。

 

クリエイティブ系に進んだひとは、得意ということもあるので、子供のころとギャップがなく
感性を維持しているひとが多いと思う。

 

幼児性とは、そういった鋭敏な感覚を信じて、子供っぽいかなとか、馬鹿馬鹿しいかなという疑念が湧いてきたとしても、
素直に躊躇なく表現していくことだと考えている。

 

例えば街中をピンクのペンキで塗ったら面白いじゃないかとか、道を歩いているときに地球の重力がなくなってしまったらどうしようとか、
池の水をぜんぶ抜いてみたらどうなるんだろうとか(そういうテレビ番組もありましたね)、
常識人には馬鹿馬鹿しいと一蹴される思い付きかもしれないが、
そういったアイディアの種がクリエイティブのダイナミズムを生むのではないだろうか。

 

子供のころの感性は一生の宝だなあ、忘れないようにしないとなあと最近つくづく思っている。

 

 

 

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