すいせい

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デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです

 

ウェブやSNSなどで、ときにコメントが一極集中して投稿される様子を炎上と呼んでいる。
一般的にはネガティブな言葉として使われることが多いだろう

 

もちろん批判が大半の炎上もあるが、賛否が50/50くらいの場合は、実は有意義な問題提起がされている可能性が高い。
どちらかが優位でなく、肯定的意見と否定的意見が同じ程度入り混じる状態は、
本質をついた重要な議論が行われていることの証ではないかと考えるからだ。

 

のちに歴史的な意味を持つ芸術作品が現れるときも同じような現象が起こる。

 

たとえば1863年に画家のエドゥアール・マネが『草上の昼食』で女性のヌードを描いたが、
キリスト教的価値観では女性のヌードはタブー視されていた背景があったため、賛否が巻き起こった。
もちろん西洋絵画でマネ以前にもヌードは描かれていたが、
神話などに登場する神々などの実在しないモデルのみというエクスキューズ付きで、
リアルな対象として描いたのはマネが初めてだった。
女性のヌードというテーマはある程度答えが出ているので、
いまとなっては問題視されないだろうが、当時は炎上に近い案件だったようだ。

 

エポックメイキングな作品は、往々にしてひとびとの概念の外にあり、
ある種タブー視されているモノゴトも含んでいるので、諸手を挙げて賛成とはならず、
どうしても反発する勢力が出てきてしまう。

 

そういった問題提起で大事なのは、
好きでも嫌いでもないけど、まあいいんじゃないかななどという生ぬるい反応ではなく、
「素晴らしい作品だ」「こんなものは芸術ではない」と世間を二分するくらいのコンフリクトを生むこと。
そもそも話題にならないのは重要なイシューではない。

 

ピカソのキュビズムやウォーホルのシルクスクリーンの作品なども、同じように芸術論争を呼んだし、
現代ではダミアン・ハーストやアイ・ウェイウェイ、
日本だと会田誠らは二極化しがちなテーマを積極的に扱ってるように見える。

 

表現の不自由展もだいぶ物議を醸したが、補助金の受給や芸術と政治の関係など、いろいろと考えるいい機会になった。
単純に美しく心地いいものだけが芸術だと考えていたひとにとっても、
法定の場で真逆の結論が出たことによって、それまでの芸術への理解が変わったのではないかと想像する。
そういった意味ではおおきな問題提起だったと思うし、
おそらく100年後くらいには、なんであんなことで騒いでいたのだろうと意識が変わっているのではないだろうか。

 

ほとんどの大事なものごとは炎上から始まるのかもしれない。

 

 

※映画や本をアマゾンなどで探すときにも、上記のように評が割れているものを目安にしています。

 

和火やってます。

作家活動やってます。

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最近塗装することの意味を考えている。塗装とはなにか?

 

例えば木材で机をつくる場合に、とてもいい材質の無垢板を入手できたとしたら、
それを塗装して仕上げようという人はあまり多くないだろう。
表面を保護するために透明なニスやウレタンなどを塗ることはあるだろうが
分厚くペンキを塗ってしまうのはもったいないと感じてしまう。

 

ではベニヤ板や集成材などが材料だったらどうだろう。
材質の良さを積極的に見せる必要がなくなったぶん、塗装して仕上げる割合がグッと上がる気がする。

 

あるいはRC造のコンクリートの打ちっぱなしの壁があったとしたら、
素材感を活かすために塗装しないひとが多いのではないだろうか。
いっぽう合板が相手だとすると、ペンキなどの塗料で仕上げることに抵抗は少ないと思われる。

 

つまり塗装するひとつの目的に、材質が劣っていることを見えなくする意識があると考えられる。
保護する意味もあるだろうが、色や質感に影響が少ない透明な塗料を選ぶこともできるので、
このケースでは隠してしまうことが主目的だろう。

 

もちろん置かれる環境とバランスを取るために、初めから机を白くしたい場合もある。

 

バランスを取るために、家具や壁などの色をコントロールすることは
ごく一般的に行われていることであり、こちらを目的として塗装することのほうが多いかもしれない。
しかし塗装すると、色の調和は良くなるかもしれないが、
素材感は薄くなるので、木材が木材である必要性も薄くなり、代替可能になってくる。
3Dプリンターなどを使って、樹脂で同じ形状の机を制作し、塗装してしまえばパッと見はわからないだろうし、
硬さや密度感などを近づければ、持ってみてもわからないかもしれない。

 

塗装すると色のバランスや保護面でのメリットがあるのは確かだが
木材や金属や石などの素材そのものの色には敵わないだろうと考えている。
少なくとも自分は、どんなに優れた塗料があったとしても、
黒い石材を黒く塗装しようとは思わないし、白い漆喰の壁を白く塗ろうとは思わない。
塗装するのは、それぞれの色が素材として用いることができない場合に限られる。

 

メンテナンスから言うと大変なのに、なぜ高級寿司屋のカウンターが檜の白木なのかよく考える。
おそらく日本人の意識の根底に素材を尊ぶ感覚があり、
かけがえがのない価値のありかたと結びついているからではないだろうか。

 

ちょっと高めの寿司屋のカウンターに座り、寿司を握ってもらうのは、
ハレの日の特別なことなので、当然その価値に合うサービスを求める。
ペンキが塗られたカウンターは日本人を喜ばせないし、ましてやなにも塗られていない分厚い一枚板を欲する。
世界的には模様を掘ったり、色を塗ることのほうを尊ぶ国のほうが多いので
(つまりわかりやすく仕事がされているのを喜ぶので)、このことは日本独特の珍しい感覚だと思われる。

 

考えてみれば、握り寿司も、極力手を加えずに素材をどう活かすかという、
とても日本的な視点でつくられる料理の代表格である。

 

寿司屋の白木のカウンターは、なぜ塗装しないといけないのかという問いを投げ掛けている。

 

 

 

 

※日本古来の漆が塗装かどうかは、なかなか難しい問題だと思う。
英語だとLacquer(ラッカー)と訳されるが、それはちょっと日本人の感覚からすると乱暴に思ってしまう。
おそらく塗料でもあるが素材という側面も持っているからではないだろうか。
何層にも重ねて塗ることで厚みが出るので、素材として認識しているのかもしれない。

 

 

和火やってます。

作家活動やってます。

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問いの立て方

2021.05.31

 

意義がある問いを立てる。このことはいい仕事をする上で必要不可欠だ。

 

世の全ての仕事は無意識的にせよ意識的にせよ、自分で問いを立てて、その問いに自分で答えるというプロセスを経る。
もちろんあらかじめ与えられた問いの場合もあるが、いい仕事をしようと思うとそれでは十分ではない。

 

例えばフランス菓子のパッケージデザインを頼まれたとする。

 

もし簡単に済ませようとするならば、フランス的な装飾や色彩などを用いて、
フランスっぽい何かをデザインすればいいだろう。

 

その場合の問いは単純だ。

 

フランス菓子なので、フランス的な要素を用いたらどのようなデザインになるか?

 

その問いと答えでクライアントが満足するとしても、このままでは漠然とし過ぎていて意義がある仕事にはならない。

 

異文化であるパッケージを日本人がデザインできるのか。
もしデザインするとしたら日本人が関わる意味合いや必然性とはなにか。
あるいは日本人ではなく、フランス人に依頼し直すほうがいいのではないか。
フランス的であるとはどういうことなのか。ヨーロッパ的であることとどう違うのか。
フランス人にしかできないフランス菓子のデザインとはなにか。
日本人にしかできないフランス菓子のデザインとはなにか。

 

などと言った噴出する疑問を勘案しながら、依頼に対して最適な問いを立てる。
そしてその問いのクオリティがそのまま答えのクオリティになる。
もちろん問いが難しいと、答えを出すのも難しくなるが
そもそも意義がある問いを設定しないかぎり、答えも意義があるものにはならない。

 

例えば制限なくまったく自由にデザインしてもいいですよ、という依頼であったとしても、
ただ奔放にデザインするのではなく、
自分自身で高度な問いを設定しなければ、優れたデザイナー(デザイナー以外の仕事人も)とは言えない。

 

どうすれば意義ある問いを設定できるのか。
それは常日頃から問題意識を持つことだろうと思う。
つまり依頼されたときから考え始めるのではなく、いつも自問自答していることで、
良質な問いをストックしておくことができるのだ。

 

矛盾しているようだが、仕事をしていないときこそ、
仕事をしていることが大事なのだ、と最近は考えている。

 

 

和火やってます。

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エコとセコさ

2021.03.31


最近よく考えているのがエコとセコさ。

サスティナビリティの観点からは、なるべく無駄をなくすほうが望ましいし、プラスチックゴミはきちんと分別されて、
適切に処分されるべきだと思う。マイバックの持参も基本的には良いことだろう。

 

ただエコは良くてもセコいのは嫌だなと気持ちの奥底で感じている。

 

 エコ的な観点を突き詰めていくと、慎ましやかになっていく。

 

まだ慎ましいのは良いとして、一回使ったラップは洗って再利用するとか、入浴後のお風呂のお湯で洗濯するとなると、
だんだんとセコいフィールドに入っていく気がする。

 

同じく考えるのは貧乏と貧乏くささの関係性。
貧乏はお金がない状態を指すが、お金がない=貧乏くさくなるかというとそうでもないし、
お金持ちでも貧乏くさい人はたくさん存在している(と思っている)。

 

効率を求めて、いつもコンビニでお惣菜を買い、プラスックの器に盛って食事をします、という人は
たくさんお金を持っていたとしても貧乏くさいなあと思ってしまう。
逆にお金がなくてお粥しかつくれなくても、丁寧につくり、美しく盛り付け、
時間をかけて優雅に食事をすれば、豊かではないだろうか。

 

「贅沢さとは無駄のこと」と言ったのは秋元康氏であるが、さすがその通りで、良い意味での無駄の存在が
日々の生活にささやかな楽しみや彩りを与えてくれ、ひいては贅沢さにつながるのだと考えている。

 

あさ一時間だけ早く起きて、仕事前にゆっくりと新聞を読む。

いつもは適当に焼いている魚を塩釜のオーブン焼きにしてみる。

一杯の珈琲を淹れるために湧き水を汲みに行く。

 

合理的に考え過ぎて、有益な無駄まで排除しようとすることが、セコさや貧乏くささに繋がるとすると
エコロジーに矛盾しない無駄を取り入れていければ、セコさも軽減されていくのではないだろうか。

 

例えば学生時代にお金がなかったときに、洋雑誌のいちページを封筒にし手紙を送っていたことがあった。
アイディアとセンス次第でリサイクル、リユースすることも魅力的になると考え、そのことは割と気に入っていた。

 

実際にセンスが良かったかはわからないが、少なくともセコくはなかったと思う。
 一番上の写真は国宝で、割れた茶碗を金で継ぐという発想はエコでありながらセンスが良い。
むしろ継がれることで完全な形よりも価値が上がる場合もあるのが金継ぎの面白いところ。

 

 環境や資源がいよいよ切羽詰まってきて、新しい局面を迎えつつあるが、
おそらく「贅沢なエコ」あるいは「有益な無駄を含んだエコ」みたいな発想から
次世代の新しい価値観が生まれてくるのではと最近よく想像している。

 

そして伝統的な文化を見るにつけ、日本人はそういうことがけっこう得意なのではとも感じている。

 

画像出典

『特別展 茶の湯』東京国立博物館

 

和火やってます。

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非常勤を務めている多摩美術大学の対面の授業がようやく先月から始まりました。
まだコロナは終息していないので、今後も対面で続けられるのかわからないのですが、
とりあえずいまのところ通常営業となっております。

 

教えているのはグラフィックデザインで、「Minor food campaign」と題して、
自分が好きなマイナーな食べ物を、学生にそれぞれブランディングしてもらっています。
水沢うどんでも、阿蘇高菜でも、ビリヤニでも、マイナーな食べ物なら何でもいいので、
自分で選んだモチーフをデザインの力によって認知向上、普及して行く内容です。

 

デザイナーの仕事は価値をつくることだと僕は考えており、
世の中では新しい魅力的な価値を生み出せる人のところに仕事が集まっています。
まだ世に知られていないマイナーである食べ物をどのようにプロモーションするのか、
そのことは価値をつくることに他ならず、将来的に仕事でブランディングをするのとなんら変わりはありません。
課題を通して少しでも価値をつくることのきっかけになればと思っています。

 

ただ課題としてはシンプルだと思うのですが、意外と力量が問われるようで、
どうやって進めていけばいいのか途中からわからなくなってしまう学生も出てきます。
一番多いのはデザインのイメージが湧かないケース。

 

デザインする場合はイメージ=到達目標がとても大事で
最終的なビジョンがないと、進めづらいですし、モチベーションも高まりません。

 

そういったイメージが湧かない場合はデザインがどういう環境におかれるか考えてもらいます。
価格や売り場などの周辺的な事実を決めていくと逆説的にデザインが決定されるからです。

 

よくよく考えてみると、自分でデザインする場合も
周辺的な事実から導き出されることが多く、完全にフリーな仕事ってあまりないんですよね。
例えばパッケージデザインの場合は少なくともどういう売り場に置かれ、
いくらくらいの商品かという情報がないと、さきに進みません。

 

つまりデザインは環境によって生み出される側面が強くあるのです。
 

では環境として一番大事な要素はなにかというと、やはり「時代」だと思います。
いまの時流の中で最適化されているかどうかが、デザインのファーストプライオリティではないでしょうか。
この傾向は広告の分野ほど顕著で、時代にフィットしていないと効果を生むデザインにはなりません。
もちろんただ流行りを追うというのではなく、流行りを知った上で、
こういうデザインはどうですか?と提案できることが僕は大事だと考えています。

 

次は価格とターゲット。これは概ねセットのことが多いです。
ターゲットによって価値観、所得なども異なるので、価格はターゲットによって決まってくるし、その逆もある。
概ねターゲットは絞った方が効果的なので、
マーケターに、世界中の学生とサラリーマンと経営者をターゲットにしますと言うとほぼ反対されるでしょうが、
iPhoneなどの先例があるので、その意見が全てではないと思います。

 

あとは売り場。商品と場がマッチングしているかが大事。
お客さんがたくさん来る場所ではなく、商品に興味がありそうなお客さんが来る場所が基本でしょう。
いまはインターネットの影響で、売り場自体が消失する傾向にあり、売り方もだいぶ変わってきていて、
当然そのことはデザインに影響を与えています。

 

環境から決定される商品づくりのことを業界では「マーケットイン」と呼んでいます。
20代女性に綿密にマーケティングをやった結果、こういうニーズが見つかり、こういったテイストのデザインが売れそうです。
という話はよくあるのですが、あまりに綿密にやりすぎると商品としての面白さはなくなっていく傾向にあります。
対象となるマーケットが豊かでなければ、出て来る結果も当然面白くはならないからです。

 

逆に市場は一切見ずに、自分がいいと思う商品を納得いくまで追求しましたという方法は
「プロダクトアウト」呼ばれており、マーケットに依存しないので、まったく新しい商品をつくりだすことができます。

 

どちらの手法も一長一短で、iPhoneはプロダクトアウトだと思われがちですが
すでに存在していた音楽プレイヤーと携帯電話とインターネットを組み合わせて生み出したものなので、
マーケットイン的な側面もあります。

 

手法にとらわれずにいつもクリエイティブでいたいなあと思っています。
あくまでもクリエイティブでいるための手法なので。

 

1枚目の写真は最近の授業風景(だいぶ間引いて座っています)、2枚目は昨年12月頃の校庭の様子

 

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