デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです
質問力とは?
ちょっとこのことはまだうまく言語化できていないが、がんばって書いてみようと思う。
誰でもふだんわからないときに気軽に「なぜ?」という質問をしているだろう。
数学の問題でもいいし、外国語でわからないときでもいいし、
なにか疑問に感じた際には、誰か知ってそうな人に質問をして、その答えを待つ。
とてもシンプルで日常的な行為だ。
ただ最近は質問をすることは簡単ではないと思っている。もっといえば、的を得た質問をすることはとても難しい。
これはなんというのか、逆説的に答えを知っている場合にしか、有益な質問ができないからではないだろうか。
と書くとややこしくなるが、つまり自分のなかで何がわからないか明確でないと、本当の意味での質問にはならないと考えている。
一番いい質問の仕方は、「答えは○○○でないかと思うんですが、違いますか?」というYes or No的な聞き方だろう。
自分の中でおおよその答えが見えていて、ほぼ確実だが、
いちおう確認しておこうくらいのスタンスの質問がベストだと思う。
逆にいい質問が出てこない場合ってのは、そもそも対象への正しい把握や認識ができていないことが多い。
これは相性の問題になるのでどうしようもなく、大きくは文系理系などにもわけられるかもしれない。
もともと人には視覚優位や聴覚優位などの認知特性があるので、
レオナルド・ダヴィンチのような万能人間以外は、向き不向きがどうしても生まれてしまう。
個人的には音楽への認識がいまだに曖昧でぼんやりしている。
音楽を聴くこと自体は好きなのだが、音階がどのように存在しているのか理解できないし、
楽器の音を聞き分けることも不得意である。
こういった状態だと、何を聞いていいのかわからず、質問の糸口を見つけるのさえ難しい。
また視覚優位性が高い仕事をしているが、立体認識は苦手である。
視覚優位の特性でも平面系と立体系があるらしく、平面系はグラフィックデザインや写真やイラスト、
立体系は建築やプロダクトデザインなどに分けられ、領域がクロスすることはあまりない。
確かにそれを聞くと両方の分野に秀でたデザイナーがいないのも納得できる。
話を元に戻すと、ある分野における向き不向きをはかる一番いい方法は、
わからないことがあった際に、どれだけ絞り込んだ質問をできるかという、質問力にあるのではないかと思っている。
向いているならば、本質的な質問ができるからだ。
そしてそういうひとは最初だけ誰かにアシストしてもらえれば、あとは自分だけで成長していくことができる。
スポーツでもそうだが、一流の選手はプライベートな世界観を持っていて、その世界観に沿ってプレイする。
他人の影響を受けず(つまり質問をせず)、自問自答を繰り返すことで独自の世界観が構築される。
いわんや芸術の分野も同じで、オリジナリティとは自分への質問力のことかもしれない。
※和火やってます。
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足利遠征




先日仕事で栃木県の足利市に行ってきました。
初めてだったのですが、歴史ある住みやすそうな街でした。
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今回は普段考えていることをパラパラと断片的に
◎才能とは速度のことなのか
ピアノを演奏する場合、ショパンコンクールに参加するなどの抜きんでた才能は別にして、
ほどほどのクオリティならば、時間と労力を費やすと、誰でも演奏できるようになる。
数学が苦手でも、時間をかけてていねいに計算すれば、得意な人が瞬時に出す答えにも近づける。
走るのが不得意だったとしても、育てるのが上手なコーチにつき、
手足の振り方や筋力トレーニングに地道に励めば、ある程度は早く走れるようになると思う。
そう考えると才能というものは、時間をかければ誰でもできることに、
何倍も早く到達できる能力と言い換えることができるのかもしれない。
絶対自分には無理だと思ってしまうのは、才能がある人たちが長時間かけたからだろうし、
ある種永遠に近い時間を獲得したものだろう。
全く向いていない、才能がないってのは、
一生分の時間があっても到達できないということを意味しているのかもしれない。
◎平面と立体と
立体的であるとは、動いていること。
平面的であるとは、静止していること。
そもそも動きがともなわないと立体を認識できない。
空間を移動してはじめて立体か平面かわかる。そして移動には時間軸も必要になる。
人間の目は一瞬で立体を識別できているが、それはあらかじめ2点間を移動できていてるから。
グラフィックデザインはもちろん平面。
時間と空間を捨象することで得られる世界。立体>平面ではない。
ある意味、立体物は時間と空間に依存することで成立している。
時間と空間がなくても魅力を失わないのがグラフィックデザイン。
◎シグネチャーは西洋ではサイン、東洋ではハンコ
西洋人は曖昧さを嫌う。
割り切れないニュアンスや非言語的なものを抱えることがあまり好きではない。
いつもyes or noをはっきりさせたい。
そのことは手で書く段においても現れていて、
筆を使い、線の太さやカスレやにじみなども委ねてしまう書道に対して、
カリグラフィは平べったいペンを用いて線の太さや角度を規定する。
意図的に淡くしたり、にじませたりって表現もあまり見かけない。
しかし署名を表す段になると逆で、西洋は手書きという曖昧さを含んだ表現になり、
東洋ではハンコという規程されたものになる不思議。
◎大きな違い、細かい違い
物事を突き詰めていくと、最初はわからなかったニュアンスがわかるようになり面白い。
専門性には、ある分野における微差を追求する傾向があるが、
それまで見えてなかった微差が見えるようになるのはたしかに成長の現れだと思う。
ただマニアックになればなるほどその沼は深くなり、
ほんのわずかな差に必要以上に大きい意味を感じてしまう場合もある。
その差に捉われると素人にもわかるような大事な差に気付けない危険性も出てくる。
そのあたりが専門性を追求する難しさだろうか。
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