デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです
作家活動のお知らせ
前々から考えていたことですが、デザインの仕事と並行して作家活動を始めようと思います。
テーマは「自然の表出」です。
金属や木材などさまざまな素材に生じる「自然=経年変化」に美を見出します。
見出したものを作品とするだけで、自分の手は一切加えません。
つくるのではなく、あくまで見つけるというスタンス。
まずはインスタグラムで活動を始めたいと思います。
https://www.instagram.com/kentaro__higuchi/
おそらく骨董好きが高じて、このような活動を始めることになったのでしょう。
東京のどこかで行われる骨董市に毎週のように通うのが、いつの頃からか楽しみになりました。
食に関することが好きで、いい器を求めると自然と骨董市に足が向きます。
なにごとも知識から入るのが好きではないので、骨董市でも自分が良いと思ったものがなんであるのか、
お店の人に尋ね、教えてもらうことから始めました。
ほとんど幼稚園児程度の知識しかなかったのが、だんだんと高麗青磁や白磁、古染付、初期伊万里など判別できるようになり、
漠然としていたマーケットにジャンルや流行などが見えてくるようになります。
ジャンルの違いがわかり始め、その良さが享受できるようになると、ジャンルを最初に発見した人がいたのだと気付きました。
骨董における名の付いたジャンルは、天才的な目利きが見出し、始まっていることが多いのです。
例えば初期伊万里であれば、生掛けの釉薬の鈍いテクスチャーに、誰かが美を見出したことがきっかけです。
初期伊万里がつくられたのはまだ製陶技術が確立されていなかった時代なので、技術的には未熟で、形や藍の色も不安定です。
技術が向上した新しいつくり方に移行したあとは、おそらく初期伊万里は過去の物となっていたと思いますが、
時代が下ったいつかのタイミングで、未成熟だった初期伊万里のほうが美しいという人が現れたのです。
骨董市に通うことで一番面白かったのは、この美を見出すという視点です。
それまでは見向きもされなかった、あるいは認識すらされていなかった分野を発見し、
提案がうまくいくと人々の価値観がガラリと変わるのです。
全く新しい世界に触れて驚くとともに、その本質とは何か考えるようになります。
世の中では一般的に、手を使ってなにかを生み出すことを創造だと捉える向きが強いと思いますが、
創造の本質とは視点や視座を与えることだと考えます。
印象派でも、キュビズムでも、琳派でも、メディアアートでもなんでもいいですが、こういう視点で物事を捉えると美しいですよ、
という作者の提案に鑑賞者の視点が重なった場合に、感動や共感が起こるのです。
そういった意味では目利きが見出す美と画家が描く美にはほとんど違いはなく、
あるとすれば後者のほうがより実際的に具体的に提示しているだけだと言えます。
審美眼という言葉がありますが、コレクターの蒐集物に人々の共感が生まれるとしたら、
それもひとつの表現にじゅうぶんになり得るのです。
ちょっと長くなりましたが、自分も同じように「見つける」というスタンスで活動を開始します。
テーマは冒頭にも書いたように「自然の表出」です。
自然が美しく表出しているさまを、手を動かすのではなく、目を動かしながら探していきたいと思います。
※和火やってます。
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アイディアと回数力
学生と話していると自分ではふだん意識していなかったことを聞かれて、物事を改めて考えることが多い。
それは授業を持ち、学生と対面することの面白さのひとつであるのだが、先日はアイディアについて話が及んだ。
(今年の多摩美の授業は通常営業で対面で行なっている。)
アイディアがないと面白いデザインにはならないので、知恵を絞ったほうがいいという会話の流れで、
「いいアイディアとはなにか?」と聞かれた。
アイディアという言葉は特に専門的でもないし、ふつうによく使うので、簡単に説明できるかと思ったが
意外に難しくしばらく時間を要することになった。
学生から何かを聞かれた場合は、きちんと向き合い誤魔化さずに答える。そして自分の言葉を選ぶようにしている。
どこかで聞いたような言葉だとか、ググれば得られる知識はどちらも求めていない。
そのとき答えたのは「魅力の重なり」だった。
いくら面白そうなアイディアでも魅力がひとつだけだと、ひとびとはあまり関心しない。
しかしそれらがいくつにも重なると、輝きを増す。
例えばダイヤモンドという宝石がもてはやされるのは、透明度だけでなく輝度や硬度もあるからだ。
これがもしガラス並みの硬度だったなら、だれも指輪にしようとは思わないだろう。
バラという花に人々が魅了されるのは、華やかな色彩はもちろんのこと、
その造形の美しさやかぐわしい芳香も兼ね備えているからだ。
どれかひとつだけの要素では人々は熱狂しない。
上記の例は自然物だが、いいアイディアもこれに近くて、魅力がいくつか重なってないと、世の中では評価されにくい。
ひとつの側面からでなく、多角的で重層的なつながりを持っていること。そしてその数が多ければ多いほど重宝される。
ではどうすれば、そのようなアイディアをひらめくことができるのか。
必要な情報をインプットする
↓
問いを立てる
↓
何度も考える
自分に言えるとするとこんな感じだろうか。
まずはなるべくたくさんの情報を集めて、必要なものを取捨選択する。
最初の段階では情報は多ければ多いほど望ましいと思う。
この際に大事な情報が後から出てくるなどの不備がないよう注意する。
情報に不備があると、導き出す答えにも当然不備が出てくるからだ。
有益な情報を選び出したら、前回書いたように「問い」の設定を行う。
ここではなるべく意義があり、良質な問いを立てる。
その後は「回数力」だと思っている。
回数力は僕の造語で、いわゆる集中力の対義語、「多動力」的な意味にも近いだろうか。
たとえばアイディアの締め切りが10日後だったとする。
同じ量の時間の使い道として、最後の数日に集中して考えるのと、
10日間に渡ってなるべく多くの回数考えるのだと、瞬間的な時間であっても
後者のほうが良質なアイディアを思いつく可能性が高い。
お題を頭の片隅に置いおいて、日常のあらゆる場面で思い出すように意識する。
食事をしながらとか、テレビを見ながらとか、お風呂に入りながらとか
いつも気にしながら、ひらめく瞬間を待つ。
往々にして捻り出したアイディアは面白くないので、この「待つ」姿勢が大事だと考えている。
いわゆる「降りてくる」状態というか、あくまで自分が考えつかないようなレベルのアイディアが
自然と頭に浮かぶのを待つことが重要だと思う。
それと大事なのはなるべく早いタイミングで考え始めること。
科学的な根拠はぜんぜんないが、考え始めると脳内の構造が変化していくようで、
ひと晩かふた晩くらい経つと、頭が思いつきやすい状態にシフトしているのを実感する。
アイディアの芽が出やすい土壌をつくり、種子の発芽を待つ農業的なスタイルを自分の仕事では実践している。
※和火やってます。
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問いの立て方
意義がある問いを立てる。このことはいい仕事をする上で必要不可欠だ。
世の全ての仕事は無意識的にせよ意識的にせよ、自分で問いを立てて、その問いに自分で答えるというプロセスを経る。
もちろんあらかじめ与えられた問いの場合もあるが、いい仕事をしようと思うとそれでは十分ではない。
例えばフランス菓子のパッケージデザインを頼まれたとする。
もし簡単に済ませようとするならば、フランス的な装飾や色彩などを用いて、
フランスっぽい何かをデザインすればいいだろう。
その場合の問いは単純だ。
フランス菓子なので、フランス的な要素を用いたらどのようなデザインになるか?
その問いと答えでクライアントが満足するとしても、このままでは漠然とし過ぎていて意義がある仕事にはならない。
異文化であるパッケージを日本人がデザインできるのか。
もしデザインするとしたら日本人が関わる意味合いや必然性とはなにか。
あるいは日本人ではなく、フランス人に依頼し直すほうがいいのではないか。
フランス的であるとはどういうことなのか。ヨーロッパ的であることとどう違うのか。
フランス人にしかできないフランス菓子のデザインとはなにか。
日本人にしかできないフランス菓子のデザインとはなにか。
などと言った噴出する疑問を勘案しながら、依頼に対して最適な問いを立てる。
そしてその問いのクオリティがそのまま答えのクオリティになる。
もちろん問いが難しいと、答えを出すのも難しくなるが
そもそも意義がある問いを設定しないかぎり、答えも意義があるものにはならない。
例えば制限なくまったく自由にデザインしてもいいですよ、という依頼であったとしても、
ただ奔放にデザインするのではなく、
自分自身で高度な問いを設定しなければ、優れたデザイナー(デザイナー以外の仕事人も)とは言えない。
どうすれば意義ある問いを設定できるのか。
それは常日頃から問題意識を持つことだろうと思う。
つまり依頼されたときから考え始めるのではなく、いつも自問自答していることで、
良質な問いをストックしておくことができるのだ。
矛盾しているようだが、仕事をしていないときこそ、
仕事をしていることが大事なのだ、と最近は考えている。
※和火やってます。
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掲載されています
2誌に作品を掲載していただきました。
Victionaryは香港の出版社で、何度か取り上げていただいております。
勢いが良く、世界的にも注目されている出版社みたいで
ドイツ人の知り合いもファンだと言ってました。
ずっと緊張感が漂う香港ですが、一刻も早く以前のような
自由で民主的な社会に戻ってくれることを願っております。
『スタイルのあるブランディングデザイン』は
日本のデザイン系の出版社では老舗のPIE BOOKSから出版されております。
様々なジャンルの良質なデザイン例が掲載されており、
充実した内容ですので、書店に行かれた際にはぜひ手にとっていただけますと幸いです。
148×197mm/256ページ
発売元 Victionary
定価 本体USD$35
◎『ターゲットの心を掴む スタイルのあるブランディングデザイン』
B5判/352ページ
発売元 パイ インターナショナル
定価 本体5,900円+税
※和火やってます。
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エコとセコさ
最近よく考えているのがエコとセコさ。
サスティナビリティの観点からは、なるべく無駄をなくすほうが望ましいし、プラスチックゴミはきちんと分別されて、
適切に処分されるべきだと思う。マイバックの持参も基本的には良いことだろう。
ただエコは良くてもセコいのは嫌だなと気持ちの奥底で感じている。
エコ的な観点を突き詰めていくと、慎ましやかになっていく。
まだ慎ましいのは良いとして、一回使ったラップは洗って再利用するとか、入浴後のお風呂のお湯で洗濯するとなると、
だんだんとセコいフィールドに入っていく気がする。
同じく考えるのは貧乏と貧乏くささの関係性。
貧乏はお金がない状態を指すが、お金がない=貧乏くさくなるかというとそうでもないし、
お金持ちでも貧乏くさい人はたくさん存在している(と思っている)。
効率を求めて、いつもコンビニでお惣菜を買い、プラスックの器に盛って食事をします、という人は
たくさんお金を持っていたとしても貧乏くさいなあと思ってしまう。
逆にお金がなくてお粥しかつくれなくても、丁寧につくり、美しく盛り付け、
時間をかけて優雅に食事をすれば、豊かではないだろうか。
「贅沢さとは無駄のこと」と言ったのは秋元康氏であるが、さすがその通りで、良い意味での無駄の存在が
日々の生活にささやかな楽しみや彩りを与えてくれ、ひいては贅沢さにつながるのだと考えている。
あさ一時間だけ早く起きて、仕事前にゆっくりと新聞を読む。
いつもは適当に焼いている魚を塩釜のオーブン焼きにしてみる。
一杯の珈琲を淹れるために湧き水を汲みに行く。
合理的に考え過ぎて、有益な無駄まで排除しようとすることが、セコさや貧乏くささに繋がるとすると
エコロジーに矛盾しない無駄を取り入れていければ、セコさも軽減されていくのではないだろうか。
例えば学生時代にお金がなかったときに、洋雑誌のいちページを封筒にし手紙を送っていたことがあった。
アイディアとセンス次第でリサイクル、リユースすることも魅力的になると考え、そのことは割と気に入っていた。
実際にセンスが良かったかはわからないが、少なくともセコくはなかったと思う。
一番上の写真は国宝で、割れた茶碗を金で継ぐという発想はエコでありながらセンスが良い。
むしろ継がれることで完全な形よりも価値が上がる場合もあるのが金継ぎの面白いところ。
環境や資源がいよいよ切羽詰まってきて、新しい局面を迎えつつあるが、
おそらく「贅沢なエコ」あるいは「有益な無駄を含んだエコ」みたいな発想から
次世代の新しい価値観が生まれてくるのではと最近よく想像している。
そして伝統的な文化を見るにつけ、日本人はそういうことがけっこう得意なのではとも感じている。
画像出典
『特別展 茶の湯』東京国立博物館
※和火やってます。
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