すいせい

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デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです

 

競争社会で生きていると、生まれながらにして比べられ、優劣をつけられる。
いまでは運動会の徒競走も順位をつけないようなので、あからさまな比較みたいなのは、
目に見えないようになっているのかもしれないが、
サバイブするために勝ち抜かなればいけない意識は誰でも心の奥底にあるだろう。
そして勝者になることが望ましいという考えは、社会では好意的に受け止められていると感じる。

 

競争社会であることをリアルに自覚しだすのはおそらく受験くらいからで、
高校などを受験するころになると、仲良かった友達が突然ライバルになったりする。
戦いたくないと言っても、同じ学校を受験することになったら、枠は限られているわけで、
ひとり分が空けば自分が入れるかもしれない。
口ではいくら正々堂々、フェアにと言っても、友達が風邪を引いたり、
ミスをしたりすることを願ってしまう気持ちになってしまうのも、ひとのこころとしては致し方ないだろう。
優しくしなさい、ひとが喜ぶことをしなさいと言われて育ったはずなのに
勝ち抜くことは、いままで教えられたこととは矛盾するんだとだんだんと気付き始める。
そして自己の利のために、親友に対してネガティブな感情をもってしまうのは、
こころの腹黒いところが見えてしまう辛い状況でもある。

 

このことは受験に限らず、いまの競争社会で生きていくとすると、
いろんな局面でさまざまな形で突き付けられ、避けることは難しい。

 

勝者になることは、敗者を生んでしまうことではないか、
もっと言えば、誰かが幸福になることは、誰かが不幸になることではないのか。

 

そういう問いに大人としてどう答えればいいのだろうか。

 

とても難しい問題だし、二元論ではないかもしれないが、
自分としては、勝つのではなく負けないことを考えてみてはどうかと答えると思う。

 

結果として同じことになるとしても、負けないことを目的とすると、まず他人へネガティブな感情を持たなくていい。
勝つには必ず相手が必要だが、負けないことは自己完結するからだ。
他人を蹴落とすのではなく、自分が成長するために鍛錬を積めばいい。

 

そして負けないことを目指すと、協力するという姿勢にもなる。
ライバルという言葉にはどこかしら美しい響きもあるが、
一国のなかの企業が競合同士よりも、ある程度協力し合う関係性のほうが、産業も発展すると思う。
負けないが目的だと受験生同士でも教え合うという姿勢になるだろうし、
そのほうが日本全体の学力が上がるのでいはないかと想像する。

 

敵前逃亡、というとあまり褒められたことではないように言われているが
上記が目標ならば逃げることも選択肢に入ると思う。
一時的に逃げて自分を成長させてもいいはずなのに、勝たなければいけないと思い込んでいると、
争わなければならず、無用なダメージを受けることにもなりうる。

 

資本主義は競争を是とする社会で、ひとびとを競わせることで発展してきた。
もちろんいち消費者して良い側面があることは否定できない。
しかし競争原理は簡単にネガティブな意識に変わりやすく、取り扱いが難しい。
子どものいじめが社会の閉塞感から生まれるのだとすると、そして閉塞感が大人の余裕の無さに起因するものだとすると、
競争を手放すことで負担はだいぶ軽くなるのではないだろうか。

 

共に成長する社会は資本主義に矛盾するようだが、ある程度の協力体制はセーフティネットとなり、
やさしく社会を包み込むのではないかと期待している。

 

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学生に「どうしたらデザインが上手になりますか?」と聞かれた場合は
たいてい「いいデザインをたくさん見ることです」と答えている。

 

自分が学生と同じ年齢くらいだった頃のことを想像してみると、
技術的なアドバイスよりも、優れた作品に触れる機会のほうがはるかに有益だったからだ。

 

テクニックはもちろん大事だし、必要不可欠なものだけど、プロとして実地に経験を積めば自然と身につくので、
それよりはいい作品をたくさん見てほしいと思う。

 

このことはおおむね何にでも敷衍して言えるのではないだろうか。

 

たとえば美味しいパスタを食べたことないひとが、美味しいパスタをつくるのはなかなか難しい。
料理本などをみてつくれたとしても、自分の中に基準が存在しないと、
パスタってものはこんなもんかなと早々に妥協してしまうからだ。
しかし一回でも美味しいパスタを食べた経験があると、高みを知っているがゆえに簡単に諦めることは難しくなる。
そういった基準がある人は、例え料理が不得意だったとしても、
食べたことがない料理人を超えてつくれてしまうことさえあるかもしれない。

 

デザインも同じで、いかにたくさんの良いものを見知っているかが、表現の質の向上に繋がると考えている。
こんなにも美しいデザインがあるのかと世界の高さを知り、こんなにも多様なデザインがあるのかと世界の広さを知ると、
制作物に対しての執着や粘り強さが変わってくる。
見るといっても学生なので、プロの目よりも解像度は荒いと思うけれども、
大事なのはおおいに感動すること、もっと言えば表現に対して畏怖畏敬の念を持つことだと思う。
登りつめた作品だけが持つ崇高さを感じ、表現に対して敬意を払うようになると
自然とつくるものも変わってくるのではないかと考えている。

 

ただ最近は逆説的かもしれないが、知りすぎてしまうこと、情報過多になってしまうことのデメリットも感じている。
さまざまな情報が洪水のように押し寄せる昨今、自分の表現が何なのかわからなくなってしまうこともありうるからだ。

 

学生のうちは先に述べたような理由から、積極的に世界を広げたほうがいいと思われるが、
自分くらいの年齢になると、だいたいのマトリックスというか、
デザインの分布図は把握できているので、これ以上の意識的なインプットは必要ないのでないかと考えている。

 

なのでこれからは表題にもあるように、なるべくそういった情報の摂取はせずに、
自分の中にあるものだけで表現し始めようかと思う。
たとえ不便だとしても、手持ちの札を大事にして、それだけでやりくりしていくことで
どのような景色が見えてくるのか興味が湧いている。
時期的なものなのか、年齢的なものなのかわからないが、いま心が自然と動くのはそっちの方向のようだ。

 

まあ現時点で感じていることなので、おおいに変わる可能性がありますが、
年始の所感というか、これが今年の抱負であります。

 

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寅年

2022.01.03


本年もよろしくお願いいたします。

 

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下記の通り、休みをいただきます。
ご不便をおかけしますが、何卒ご理解いただきますようお願いいたします。

 

◎年末年始休業期間

2021年12月28日(火)~ 2022年1月4日(火)

 

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薄味と洗練

2021.11.30

 

もう若いと言えない年齢になってくると、食べ物の嗜好も変わってきて、昔はよくわからなかった味が好きになる。
例えば、はんなりだったり、ほのかなと言ったような、玄妙な味わいが最近はしみじみ美味しいと思う。
ごく薄い塩味の奥に感じる旨みや、あるのかないのかわからないくらいの風味が愛おしい。
以前はもっとはっきりとした味に惹かれたが(雲呑なんて全然美味しいとは思っていなかった)、
いまは穏やかで優しい料理により魅力を感じるようになった。

 

これは舌が肥えたり、味がわかるようになったと言うのではなく、ひとえに体力の低下が原因だと考えている。
10代、20代は何を食べても美味しいし、脂がしたたる料理でも胃もたれしない。
しかし内臓の消化力が落ち始めると、食べられるものと食べられないものが出てくる。

 

まえに一緒に暮らしていた猫は、若い頃はなんでも勢いよくガツガツと食べていたが、
老齢期にさしかかると食が細くなり、開封したてのフレッシュなフードや
特別なトッピングを乗せたときでないと食べなくなることが多かった。
味にうるさくなるということは、年老いていくことと同義ではないのかとそのときに思った。
つまり若くて健康な状態であるならば、たいていのものは美味しく食べられるので、味に悩んだりする必要もない。
繊細でかすかな味わいが美味しく感じるようになるも同じで、そういった傾向はひとつの衰えと考えられる。
世の中のグルメを牽引するのがたいてい女性なのも、比較的に男性よりも体力に優位性がないからではないだろうか。

 

デザインに限らず、文化や表現の領域におけるいわゆる洗練さや洒脱さも同じようなものだと思っている。

 

文化の洗練はひとつの指標のように思われるかもしれないが、
裏返せば、わかる人にしかわからなくていいという袋小路に迷い込みやすく、衰退に繋がりやすい。
洗練さや繊細さ、わずかな風合いの差は、わかる人とわからない人をどうしても線引きしてしまうからだ。
玄人的な領域に入り込むと、新陳代謝がなくなり、動きが止まってしまう。

 

例えば茶道は極めて洗練された文化で、自分のような職業にとってはクリエティブの宝庫だと感じているが、
あまりにも高度化され過ぎてしまい、人口に膾炙することはなくなった。
黎明期は立ち上げの武士以外にもさまざまな角度からのアプローチがあり、勢いよく活性化していたと思われるが、
いまでは老人趣味的、お金持ちの嗜み的な捉えられ方だったり、あるいは形式だけがクローズアップされ一人歩きすることが多い。

 

どんな文化や表現も荒削りの状態からスタートして、だんだんと洗練さの方向に収斂していくので、高度化を避けることはできない。
ただ若さや新陳代謝とのトレードオフであることは、知っておかないといけないのだろう。

 

エルメスにデザイナーとしてマルジェラが就任したり、ルイ・ヴィトンがグラフィティのモノグラムを取り入れたりするのも
同じ理由なのではないかと思う。

 

文化の場合は様々な人が関わっているので高度化を避けるのもなかなか簡単ではないが、
いち表現者としては、飽きないように領域を広げづつ、新しい活動に取り組む。
ひらたく言うと、でできなかったことができるようになるという目標をプロジェクトごとに掲げるのが、
最善策ではないかと個人的には感じている。

 

 

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