デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです
一瞬は永遠

その画家は言った。
一瞬は永遠だと。
一瞬が永遠になりうるのだと。
たかだか数十年しか生きていない人間の絵が何百年もの間、
人々を魅了し続けるのは不思議じゃないかい?
万物のエネルギーの法則からすれば、
費やした年数と消費される年数は同じになるはずなんだよ。
海に臨むアトリエは絵筆や描きかけの作品などで散らかっていた。
窓の外では狂ったように草木が揺れ、横殴りの雨が降っている。
黙って聞いていると画家はさらに話を続けた。
絵筆を走らせていると、自分の能力以上の表現が出てくることがある。
時代を超越した普遍的な魅力とでも言うべきか。
その瞬間に起こるのは、生きてきた年数を遥かに超えた
永遠とも言える時間の定着なんだ。
つまり一瞬のうちに永遠を定着することができる。
だから寿命以上に絵が残ることはなんら不思議ではないんだよ。
話はぷつりとそこで終わった。
嵐が近づこうとしているのか、風雨はさらに激しくなり、
舞い上げられた砂が窓ガラスにあたるパラパラという音が聞こえてくる。
ビデオの早回しのようなスピードで移動していく暗雲を見ながら、
画家が再び口を開くのを待った。
※この記事は2016年9月に投稿した記事の再掲載です。
過去のデータベースにアクセスできなくなったので一部加筆修正して掲載しています。
※和火やってます。
※作家活動やってます。
京都
染付け礼讃

趣味である骨董市には相変わらず、ぼちぼちと通っております。
今回は買ったもののなかから、いまハマっている染付けの器をご紹介。
器に興味がないひとにはおそらく、いや間違いなく面白くないでしょう。
骨董市に出掛けたら、目下染付けを買い求めることが多いのですが、それは割と最近のことです。
瀬戸物と言えば真っ先に思い浮かぶくらいに、まあ染付けはベタなジャンルですし、
時代がかったイメージもあるので、以前はそんなに食指が動きませんでした。
しかし和食を盛り付けることを目的とするとバランスが絶妙で、いまや真逆の評価となってます。
日常的になり過ぎて、ちっとも有り難みがなさそうですが
そのありふれてしまっている状態こそが染付けの偉大さではないでしょうか。
当然ピンからキリまであり、古くは12世紀あたり、中国の古染付やベトナムの安南焼などまで遡ることができます。
いいものは当然それなりの値段がしますが、高いものが必ずしも料理を盛り付けた際に映えるかというとそれはまた別の話で、
手頃な値段で、盛り付けしやすく、料理が美しく見える、そんな条件を自分なりに探すのが、
——おそらく器好きの他のひともそうでないかと想像するのですが——骨董市を巡る楽しみのひとつであります。


これは中国の明か清あたりの9寸皿。安南焼ではないですが南方系でしょう。
ゆったりとした流水紋(?)とおおらかな福の文字、余白の淡い青がいいバランスです。
金目の煮付けとか映えそう。
古い染付けは伊万里焼などもそうですが、地が真っ白ではなく、うっすらと青味を帯びているのが魅力のひとつなのかなと思います。
これは意図的なものというより釉薬に不純物である鉄分が混ざっていたから。
土そのものであるような黄褐色の器から始まり、
技術の向上によってだんだんと複雑で高度な意匠や釉薬を施すことができるようになりましたが、
常に人々の頭の中には真っ白な器をつくり出したいという願望があったのだと想像します。
土っぽさや野生っぽさから離れるのが文明の証だ、とまで考えていたかはわかりませんが
有機的な要素を排していくことで出現する無機質な白さに、うっとり酔いしれるくらいのことはあったのではないでしょうか。
一方の現代では高度な技術力のお陰で、安定して白色度が高い磁器をつくりだせるようになりました。
ただ反比例して深みや味わいなどが減じていくトレードオフの関係は否めないと感じます。

たとえばこのくらわんか(8寸皿)あたりの青っぽい白さが、料理を盛り付けしやすいですし、いちばん美味しそうに見えると感じています。
上の流水紋皿はそういった意味でやや青さが干渉してくるんですよね。
あと古い物は、絵付に使われる呉須が天然の顔料のため、藍に独特の深みがあるのも魅力のひとつ。
時代が下ると人工的に呉須がつくれるようになり、絵具のように鮮やかな藍色が出せるようになりましたが、
やや彩度が高すぎるかなと思うことがあります。

これは中国の最近の民藝で、巧みな絵付けの碗ですが、藍の色がもう少し落ち着いていたらもっといいかもしれない。

一方このアラビアのカップはいわゆる染付けではないですが、人工的な呉須のほうが合うのかなと感じます。
ただこれもトレードオフであり、どっちがいいかは好み、主観の範囲だと思います。

変形皿も最近探しているジャンルのひとつです。
ろくろを回す関係で器は必然的に円形が多く、食卓に丸い器が並びがちになるので
角皿やオーバルなど円形以外の形を意識的に取り入れるようにしています。


ちょっと食欲がないときのお昼ご飯などに、インスタントのワンタンスープを食べることがあるのですが、
そんなときはこのベトナムの安南焼に盛っています。
器蒐集は物質主義の側面が強いですし、しょせんは虚しい物欲に過ぎないという意見は否定できません。
しかしながら、良質な器がもたらす精神衛生的な作用を、常日頃感じているので、
世の中が100円ショップで売っている器で十分だとは自分にはとても言い切れない。
鬱病なり、統合失調症なり精神的な病が、現代社会で増えているひとつの要因に、
逆に物質を軽視している背景もあるのではないでしょうか。
合理性を追求した結果、プラモデルのようなサイディング仕上げの家々が街中に増殖していくのを見るにつけそう感じます。
生活を大事にするところからデザインの仕事は始まると考えており、
簡単にインスタントのスープでお昼を済ませる場合でも、器だけはきちんと選べたらと思っています。
※和火やってます。
※作家活動やってます。
ヤンキーと伝統


ヤンキーのファッション、あるいは一時期流行ったガングロのギャル・ギャル男の奇抜さは、
人間の根源的な表現欲が行き場を失い、それでも発露を求める切実な状況を示している。
彼らは伝統が衰退することの物悲しさを声高に代弁しているのだ。
かかるスタイルは一般的に奇抜であるゆえに、個性的と捉えられているが、実際はどうだろう。
個性的というならば当然ながら「個」の表現がベースとなる。
例えばファッションの分野で個性を発揮しようと試みると、スタイルをそのままコピーするのではなく、
まずは自分なりのアレンジを加えることから始まると思われる。
いきなり全部をオリジナルの表現にするのは難しいので、部分的なアレンジを加えるのはどの分野も同じだ。
しかし世の中すべての人がそういうことに興味があるわけでもないし、
興味があってもセンスがなく、アレンジが上手く出来ない人もいるだろう。
興味がない人は別として、アレンジが上手くできない人々は、
雑誌などのスタイルをそのままコピーするような、コスプレに近い表現を選ぶと思われる。
ヤンキー、ガングロのギャル系のファッションも
「個」の表現を目的とするのではなく、そのようなコスプレ的表現を目指しているのではないか。
なぜなら、ファッションに本質的に由来する格好良さや美しさを表現しようとしているより、
型による(奇抜さによる)パフォーマンスに見えてしまうからだ。
あるいは、服を身に纏う喜びより、型を使ってでも表現しないといけない「業」のようなものを感じてしまう。
もちろんヤンキー・ギャル系の中にもアレンジし、オリジナリティを発揮しているひともいるかもしれないが、
マスで捉えた場合は、そのような傾向があると思っている。
ここで問題としたいのはコピーすることではなく、コピーする対象の方だ。
歴史的には、伝統の枠組みの中でコスプレすることは日常だったし、
伝統は良質の型を与えることができたので(それが伝統の役割なので)、それぞれの表現欲を満たすことができた。
センスのありなしに関わらず楽しむことができるセーフティーネットのような役割を果たしていたのだろう。
しかし現在のように伝統が衰退すると——つまりセーフティーネットがなくなると——
そういう人々は奇抜さという方向でしか表現欲を満たすことができなくなるのではないだろうか。
着物は日本の伝統的な服飾だとされているが、
現在のところ仕事に毎日着ていくという人は、専門的な職種を除いてほとんどいない。
実際に着物を着てみると、いかに街中が着物で生活するに適していないかがよくわかる。
日本の日常は言うまでもなく、非和服に適するように仕上がっていて、今後もそれがつくりかえられることはないと思われる。
伝統的であるが日常的ではないのは、その文化は重篤な状態であることを意味している。
このことは、乱獲が種を絶やしてしまうのではなく、
むしろその動物を含んだ生態系ごと失われていることのほうに絶滅の原因があるのと似ている。
口を揃えて着物の美しさを讃えてみても、それをアフォードする環境が失われていては、
今後ゆっくりと滅んでいくしかないのではと、嫌な予感が頭をよぎってしまう。
急速なグローバル化の中で世界的に伝統が失われている状況を考えると
ヤンキー的な表現が日本以外の場所で起こっても不思議ではない。
あでやかな民族衣装に身を包んだ人々は美し過ぎるので、伝統がもろくはかないことをいつも忘れてしまう
写真(上から) ベトナム・モン族 ペルー・ケチュア族 グアテマラ・カクチケル族
写真協力:「アフリカへ行こう」
※この記事は2013年12月に投稿した記事の再掲載です。過去のデータベースにアクセスできなくなったので一部加筆修正して掲載しています。
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※作家活動やってます。
苔むすお札


日本のお札を見ていると、そのイメージの基本となるものが、苔から来ているのではと感じるのは僕だけだろうか。
それは色合いでもあるし、意匠でもあるし、紙の質感でもあるのだけど、
なんというか全体として苔むした岩のようなものを目指してデザインしているように思える。
国家として、ある意味では一番信用を得ないといけない局面で、苔的なものが表出する不思議さを考えてみたい。
日本の中にいる分には苔っぽいと感じることはあまりなくて、海外旅行などで、オレンジ系や派手なお札を目にした時に、
「派手だとありがたみがないなあ」とか「もっと色調を抑えた方がお札っぽいのでは」と意識することから始まる。
見慣れたものが変わることでの違和感は差し引いても、日本人としては、
彩度が高かったり、色の組み合せが派手だと、お札としてはふさわしくないと感じるのだろう。
識別性という観点では、似た色調でない方が望ましいが、日本のお札はくすんだ色調の中からのみ選ばれていると思われる。
彩度が高い色を好まない傾向が日本にはあるかもしれないが、原色をそのまま用いるような伝統的な表現も少なくなく、
漁師が使う大漁旗などは気持ち良いくらいに原色で構成されているし、日光東照宮や伊藤若冲の絵などにもなんのためらいもなく使われてきた。

ド派手な色を好まない大和的意識の傍らで、南方系の原色を使う文化も脈々と受け継がれてきたのだ。
つまりパレットには様々な絵の具が出ているが、渋い色しか使っていないと思われる。
もちろん渋いだけでは苔っぽくはない。赤系や茶系でも緑系ベースの色調を保持していること、
その赤や茶が全体にではなく部分的に分布し、あたかも岩肌に自生する苔の様にみえることなどが主な要因だと思う。
面白いのは緑系ベースのみでまとめられている千円札よりも、一万円札などの緑系×赤系のミックスの方がより苔感が出ている点だ。
緑だけの色調だと、他の植物も想起するが 赤や茶色が混ざることで石を覆っている苔という状態が明確になるからかもしれない。
君が代は 千代に八千代に さざれ石の いわおとなりて 苔のむすまで
この歌の解釈はいろいろとあるだろう。
しかしいずれにせよ誰かの未来永劫の繁栄を願うことは共通していて、その比喩として苔が用いられている。
古来より苔は、日本人にとって「得難いもの」「かけがえがないもの」の象徴とされてきた。
苔を見るとき、人はいろいろなことを想像する。
その生育の遅さを考え、目の前に広がる面積を埋め尽くすには どれだけの時間がかかるのだろうかと。
その不可逆性を思い、どれだけ長く踏み荒らされていないのだろうと。
京都の苔で有名な西芳寺、いわゆる苔寺も、その面積を埋め尽くすのにどれだけの時間と労力を費やすかを
見る人に想像させて完結する部分があるだろう。
苔は特別な植物なのだ。
現在において手にすることができない最も象徴的なものがお金だとしたら、
苔を尊ぶ民族は、国歌や庭だけではあきたらず、紙幣にまで苔を生やしてしまったのだろうか。
◎写真協力
大漁旗の写真:女川みなと祭り|マイノートblogより
※この記事は2013年12月に投稿した記事の再掲載です。過去のデータベースにアクセスできなくなったので一部加筆修正して掲載しています。
※和火やってます。
※作家活動やってます。







