デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです
年末年始の営業のお知らせ
下記の通り、休みをいただきます。
ご不便をおかけしますが、何卒ご理解いただきますようお願いいたします。
◎年末年始休業期間
2017年12月31日(日)~ 2018年1月8日(月)
すいせい
代表
樋口賢太郎
身体性の書 3
Hommage to Irving Penn
ブランドとダイエット
自粛中に太ってしまったという話がときどき会話のトピックに上がってくる。
重病化してしまった例に比べるととても瑣末な問題だが、まあ実際コロナの弊害になるのだろう。
現代の飽食の時代に食べ過ぎずにいることはなかなか難しく、ダイエットに関してのノウハウ本は、書店に山と積まれている。
こんなにもたくさんのダイエット法が出てくるのは、まだ決定的な解決法がないことの証左である。
ひとつのダイエット法を試すが、痩せられない。あるいは一時的に痩せることができるが、元の体重に戻ってしまう。
失敗が多いので、新しいダイエットが次から次へと考案されていき、いまやダイエットビジネスの市場規模は2兆円とも言われている。
ダイエットの失敗ということに関して言えば、もちろんダイエット法に原因がある場合も多いが、
ほとんどはダイエットをする側に原因があるのではないかと思っている。
そしてそのことはブランドのあり方とも近いと思うので考えるところを述べてみたい。
ブランドが存在していくには当然ながら目標が必要である。
どこを目指すのか定めて、目標になるべく近づくように進めていき、到達したら、また新しい目標を目指す。
目標を定めることによって存在理由も決まるので、目標がなかったり、そのことを見失ったブランドは危険だと思う。
よって経営責任者は働く人のモチベーションが存分に高まるような魅力的なビジョンを示さなければならない。
CEOにとって一番大事な仕事はビジョンを示すことなのだ。
このことはダイエットとも同じで、ダイエットが成功するためには
どれだけ魅力的な目標を掲げられるかがポイントだと考えている。
自分が自分の経営者だとするとどういった目標を掲げればいいのだろうか。
ダイエットで一番多いのが短期的な目標ではないだろうか。
例えば夏までに痩せて水着を着たいとか、授業参観にこのスカートを履いていきたいといった目標は即効性はあるかもしれない。
しかし目標が達せられたら、それまでのモチベーションを維持するが難しくなり、その多くは元に戻ってしまう。
そして短期型の場合は食生活をドラスティックに変更するので、
フラストレーションが溜まってリバウンドすることが多く、魅力的な目標とはとても言えない。
次に多いのは審美的な目標だろう。
痩せているほうが見栄えがいいと判断し、キリがいい数字を目指して、体重を減らしていく。
これはまあまあ長続きすることが多い。
自分が理想とする体重を決めておいて、日々摂生すればリバウンドも起こりにくい。
ただ審美的な目標は、年をとるにつれて効果は弱まっていく傾向にあるし、
過剰なダイエットに走り、精神的にも身体的にも健康面を損なってしまう場合もあるだろう。
拒食症や過食症に陥ってしまっては元も子もない。
つまり審美という目標も、一見目標が定まっているように見えるが、実は抽象的で曖昧だと思われる。
魅力的になりたいならば、もしかしたら髪型やファッションを変えるほうが早いし、合理的かもしれないからだ。
また基本的に運動によるダイエットはオススメしない。
計算をしてみればすぐにわかるが有酸素運動を1時間してみても消費されるカロリーはごくわずかである。
筋肉をつけることで基礎代謝を上げる方法もあるが同じことだと思う。
毎日運動を続ける困難さもあるし、もし続かなくなったらリバウンドと同じ現象が起こってしまう。
総合的な意味での健康面のメリットは大きいし、カロリー消費しないこともないので運動自体を否定はしないが、
まずは摂取カロリーを減らすことから始めるのがダイエットの本筋だと考えている。
ではどのようなビジョンを示すが一番いいのだろうか。
そもそもダイエットすることの一番の失敗は痩せることのみが目的化しているからではないだろうか。
ダイエットなので、痩せるのは当たり前だろうと突っ込まれそうだが、
痩せることだけを目指すと、過剰に痩せたり逆にリバウンドで太ったりして、健康を損なうことが多いと考える。
人間のすべての活動は健康の上になりたっているので、
いくら審美性を得られたとしても、長期的に健康に暮らせないならないならば、ダイエットをする意味はないと思う。
つまりダイエットをする際のもっとも理想的で魅力的な目標は「健康になる」ではなかろうか。
世間ではよく「健康的に痩せる」というが意味は大きく違う。痩せる目的はあくまで健康になるためだからである。
痩せてどうしたいのか?という次の問いを自分は投げかけたいのだ。
健康という指標を掲げると、医学的なアプローチから理想の体重が決まる。
その体重を目指して、日々バランス良い食生活を心がけながら、摂取量を調整していく。
ゆっくりと数年くらいかければリバウンドも起こりにくいと思う。
考え方としてはダイエットというよりは、健康的なライフスタイルへの移行であろうか。
それでも審美的な意味で痩せたいのなら、医学的に健康である範囲内でよりカロリーの少ないライフスタイルを志向する。
(ちょうどいい体重で自分の審美に納得できないのは、痩せているほうが美しいというメディアの刷り込みだと思ったほうがいい。
それらの多くがダイエットビジネスに誘導するためである。)
以上がいまのところ考える最も理想的なダイエット法で、実際に自分はこのやり方を実践していて、
良好な健康状態を維持しているし、体重も学生のころと比べて5kgくらいしか増えていない
ブランドも収益を上げたあとのことを考えるべきである。
ドラッカーの有名な言葉を引用させてもらえれば、収益は目的ではなくあくまで手段なのだから。
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コロナが奪うもの
まったく未知のウィルスが猛威をふるっている。
現実的な被害も甚大だが、おそらくコロナが一番やっかいなのは先行きが見通せない不透明さにあるだろう。
感染率が高くても、1年後には必ずワクチンができますとなれば、経済の見通しが立てられる。
死亡率が高くても、暖かくなりウィルスが不活性化するとわかっていれば、まだ人々の不安が拭える。
いまの世の中は、どれだけ正確に予測が立てられるかという、いわば確実性を元にまわっているので、
反対の性質を持つコロナは資本主義社会の経済がまわることを阻害する頭が痛い存在だと言えるだろう。
未知のものが社会をどのように変えていくのか想像するのは難しいが、ひとつだけわかってきたことがある。
それはインターネットがますます重要になるということである。
すでにさまざまなモノゴトがスマホを初めとするインターネットに吸い取られているが、コロナはこの傾向を急激に加速させている。
こう書いていると批判しているように思われるかもしれないが
まずはこのような状況にインターネットがあってつくづくよかったと考えている。
急速に拡がるコロナの情報を、時差なく世界中で共有し、可視化できることが、
有効な手立てになっているのは言うまでもない。
家に閉じこもっていても、SNSなどでやりとりできるし、映画や音楽を楽しめることが
どれだけ気持ちを楽にしてくれるか。ない状況を想像するだけでぞっとしてしまう。
中世ならいざ知らず、現代人でさえ疑心暗鬼になり、副次的に人を攻撃する事態が起こっているが、
インターネットがあるからか、魔女裁判までの悲劇にはつながっていない。
テレワークやオンライン授業などが始まり、今後それらがシステム含めて変わっていくのは間違いないだろう。
ただ現在のインターネットの使い方は、コロナ対策としては妥当だと思うが、
今後も通勤や対面の授業が必要ないものとして扱われるのは行き過ぎたことだと思う。
会社に毎日行くことの不合理さは前々から論議に上がっていたので、
このタイミングで在宅勤務になり、その恩恵を受けている人も多いかもしれない。
慣例として行われる必要ないモノゴトはとても多いから(例えばハンコを押すために会社に行くなど)、
そのあたりは刷新されて然るべきだと思う。
しかし全面的に通勤をなくし、会議や授業も全てオンラインで行えばいいという考えには組できない。
なぜなら現在の状況では、本当の意味で無駄なものと、一見無駄そうだが実は大事なものとの線引きができていないと考えているからだ。
仕事の合間にたわいもない話をはさむことで、本来の業務が円滑に進むこともあるし、
新しいビジネスのアイディアに繋がることもありうる。
長時間の電車通勤でさえ、オンオフの切り替えと事務仕事に充てて、
有意義な空間と時間を手にしている人もいるだろう。
例えば、会って話せる距離であれば、オンライン会議などせず、
対面で打ち合わせするほうが、短い時間でもクオリティが高くなると前々から感じていた。
2時間のオンライン会議より、30分の対面である。
それがなぜかは様々な理由があると思うが、
私たちが考えるよりもオンラインでやり取りできる情報量が少ないからだろう。
これも無駄の本質が腑分けできていないからだと考える。
学校教育に関しても何をか言わんやである。
N高などをはじめ、オンラインの新しい教育のあり方を模索することは有意義だが、
やはり対面や学生同士の横の会話が自由にできる学校教育に軍配があがるのは間違いないだろう。
なぜなら大学をはじめとする学校教育が提供できる最大のメリットは大いなる無駄遣いにあると考えるからだ。
それは時間の無駄遣いであり、エネルギーの無駄遣いであり、お金の無駄遣いでもある。
すぐに役に立たないということで、昨今大学の文系の予算が削られつつあるが、これも根源は同じ問題をはらんでいる。
いまは役に立たないが、10年後に、もしかしたら100年後に重要な意味を持つかもしれない学問を護する懐の広さが、
アカデミズムや大学が本来持っていた知性であり価値のはずであった。
現在の予算削減はヴァンダリズムに他ならず、無駄の本質を見極めないと、大事なことを見誤ってしまうのではと危惧している。
そしてその代償は50年後、100年後に払わないといけなくなる。
現在多くのモノゴトがインターネットを介することで、便利になったように感じている。
しかしいまだにインターネットは花の匂いも、手の温もりも、珈琲の苦さも伝えることはできていない。
コロナによって奪われる大事なものはたくさんあるが、自らそれらを捨て去らないように注意したいと思う。
まずは世間では無駄だとされているが、個人的に大事にしていることを守ることからだろうか。
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