デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです
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Canon Macro 100mm 2.8
表現はどこまで自由なのか?
美大で教えている立場として、夏季休暇中に起こった表現の不自由展の一連の事態について、
なにも触れずに後期の授業を進めることは難しいと考え、初回のひとコマを使い、ワークショップを行ってみた。
自分の教育へのスタンスはいつも「教えすぎない」ということにつきる。
学生には考える力をつけてもらいたいので、教えすぎるとそのチャンスを奪ってしまうと危惧しているからだ。
獲物を捕ってくるのではなく、獲物の捕り方を教えるのが理想の教育だと言われるのはそういうことだろうと思う。
なので今回も結論じみた自分の考えを伝えるのではなく、3つの問いを投げかけるスタイルで授業を進めていった。
また『表現の不自由展』は自分も学生も実際に見ていないので、あくまで今回の展示周辺に巻き起こった論争を題材とした。
1 表現はどこまで自由なのか?
2 芸術に政治を持ち込んでもいいのか?
3 公的資金が投入された展示の場合は公権力に従わないといけないのか?
上記の質問をひとつずつ投げかけたあと、3人のグループに分かれて話し合ってもらい、
結論をまとめ、発表する。グループは毎回リセットするやり方で進めた。
偏った意見から、バランスがとれた意見まで発表され、多様という意味では世間の縮図に近かった。
それぞれがどういう考えを持っているかある程度客観視できたのではないだろうか。
冒頭に書いたように、このワークショップでは考える力をつけることが目的で、
必ずしも正解を出すことに重きを置いていない。
大事なのは短期的に正解を出すことではなく、正解を追い求める姿勢だと考えている。
いちおう自分なりの意見を書いておく。
表現がどこまで許されるのかという問いは、そもそも結論がでないものだと考えている。
つまりどこかで線引きして、インとアウトを決めるものではない。
歴史的に見て、過激だと言われていたものが現在ではスタンダードになっているものは枚挙にいとまがない。
例えばルネッサンス期に活躍したボッティチェリ作の『プリマベーラ』という有名な絵画があるが、
この絵画に登場する女性がヌードであったため批判が出て、後から服を描き加えたのは有名な話だ。
あるいは時代が下って、サディズムの語源にもなったマルキ・ド・サド伯爵はいくつかの小説を書いたが
それらは暴力的なポルノグラフィということで、当時フランスで(日本でも近年)発禁処分を受けている。
しかし現代の視点からみれば人間の本質的な心の動きとして加虐性を切り分けた功績は大きいだろう。
SMプレイをしたことでサド伯爵は何度も収監されているが、同意があるのであれば、
現在ではそのような楽しみは個人の自由の範疇である。
何がのちの人類にとって意味を持つことになるかわからないので、
自分としては表現について可能な限り温かい目で見ていきたいと思っている。
また芸術とは本質的に問題提起を含んでいるので、より芸術的であればあるほど、世間の反論や批判を巻き起こす。
そのことはマルセルデュシャンの『泉』という作品を見ればわかりやすい。
のちに多大な功績を残す芸術ほど、理解されにくいし、批判も多いし、すんなりと受け入れられるものではない。
プロパガンダは展示してはいけないという批判も散見されたので、次の質問を設けた。
そもそも芸術活動に限らず、日常のごくふつうの生活でさえ政治性を帯びるものだ。
キャベツをひとつ買うことも、電車に乗ることも、SNSを使うことも、選挙で投票しないことも、
どこかで政治に繋がるので、完全に切り離すことは不可能だ。そこにあるのは多寡だけ。
ピカソはスペインのゲルニカをドイツ軍に攻撃されたことに対して憤り、
有名な『ゲルニカ』を描いたが、この絵画も見かたによってはプロパガンダととれるだろう。
しかし政治性を帯びていたとしてもその芸術的価値を疑う人はいない。
むしろ政治性と不可分であることがこの作品のひとつの魅力だと思われる。
最後の質問。
税金を使っている限り、表現の自由が限定的になるのはしょうがないという意見も世間に表出していた。
あくまでも表現の自由を担保するには、自費でやらないといけないらしい。
この意見もだいぶおかしいと思う。なぜならそもそも助成金は自らが払った税金が源泉であり、
自分が支持している政党でなくても自動的に徴収されるお金が財源だとすると
なぜそこで政府におもねらないといけないのだろう。
つまり政府は国民のために存在しているのであって、江戸時代のようにお上から施しを受けているわけでない。
条件が満たされれば思想信条に関係なく誰でも受け取る権利があるはずで
助成金を受け取りながら政府を批判することは民主主義として極めて真っ当な姿勢だと思う
今回の一連の事件に関して浮かび上がったのは世間の狭量さと、実際の作品を見ていないのに印象だけで炎上するSNSの怖さだったと思う。
持論と異なる意見は受け入れないし、排他的になる。
しかもそのソースは自分の目で確かめた事実でなく、手垢がつきまくったネット上の情報である。
8月22日に月刊誌「創」が主催したシンポジウムに参加し、そこで天皇の写真を燃やしたことで批判された大浦信行さんの話を聞きくことができた。
スライドで上映される彼の過去の作品は見事な芸術作品だった。
補助金が交付されないなど悪化の一途をたどる一連の問題は、様々な事象が絡み合い複雑化している。
意見を述べるにしても、自分の目で確認した一次情報から出発しないとボタンの掛け違いが生まれてしまう。
ちょうどこの投稿を書いている間に展示が再開されるという朗報が飛び込んできた。
残り少ない期間であるが、展示を見るという原点に立ち返られるいい機会ではないだろうか。
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かっこいいのは、いいことなのか?
けっこうむかしに糸井さんが「かっこわるいのは、いいことなのか?」と言及されている投稿を最近みつけて、
なるほどなあと腑に落ちていた。
これを読むと「かっこいい、わるい論議」は根深い問題だとわかる。
かっこいいと感じる自然な心の動きに蓋をしてしまうのも問題だし、
そのことが他人の喜びまで奪ってしまう社会的損失に繋がっているのも問題だと思う。
前にも書いたことがあるが、感覚は使わないと退化していくものなので、
才能や感覚を伸ばすことが義務教育の目的だとすると真逆のことをしていることになる。
ただ趣旨としてはもちろんその通りと思うのだが、かっこいいことが全面的に良いとも
言い切れない気もしていて、思うところを書いてみたい。
自分の場合、着ている衣服を褒められたとすると、それは喜ぶべきことではない。
なぜならそこには自意識が見え隠れしていると思うから。
相手にかっこつけようとする下心を感じ取らせてしまい、
そのことに触れて欲しいのではという気遣いが発生していると思ってしまう。
もちろん世間では本当に見事な着こなしをしていて、純粋に褒め称える場合もあると思うけれども、
往々にして褒めて欲しいという欲望を察知した第三者が社交辞令として、
「ああ、その靴かっこいいですね」とか「その帽子かわいいですね」と受け応えているのだと考えている。
なので衣服を褒められたら、(あくまでも自分の場合は)失敗だったなと思ってしまう。
ではかっこわるい服装がいいと思っているかと言えば全くそんなことはなく、
なるべくそうならないように気を付けて選んでいる。
まどろっこしくなるが、かっこわるかったりダサいのは望んでいないからだ。
かっこはつけないが、ダサくない微妙なラインが自分には大事だと考えており、
この人はセンスはあるが控えめな服装なんだなと思われるあたりが理想だろうか。
このことは仕事のスタンスとも同様で、前提としてかっこいいデザインを目標にしないようにしている。
例えば信号のデザインとして求められる機能は色による識別性に尽きるだろう。
識別性が明快であればあるほど望ましいので、そのことを邪魔するかっこよさは求められていないし、
そもそも信号機なので邪魔するとしたら危険に繋がる。
なのでデザイナーがかっこつけたいという自意識を持っていたとしたら面倒なことになってしまう。
広告やパッケージなどは別にして、信号機含めた多くのデザインは落ち着いたたたずまいというのか、
日常の中で控えめに役割を果たすことが本分だろうと思う。
しかしもしかっこいいのが良いと言う社会的風潮が優勢だとすると、
信号の製作を依頼する際に、かっこよくしてくださいというオーダーも含まれることになるかもしれない。
現実的に信号機についてはなかなかそうならないだろうが、
かっこよくすることがデザインだという浅い認識がリテラシーとして社会の根底にあると
信号機をシマウマ柄にしてみました、みたいな悲劇が起こりそうで、想像するだけで疲れてしまう。
かと言って、かっこわるいのがいいこととは全然思えない。
前述のように感覚を押し殺したり、そのことを強要するのが人の行いとして正しくないと考えるからだ。
当然のことだが、生まれ持った感覚をポジティブに働かせて、そこから得られる愉楽を最大限に享受する権利が人間にはある。
だとすると人々の意識として、かっこはつけていないが、良い状態が大事になってくると思う。
つまりかっこいいを選べないときに、かっこわるいしか選べない現状を変えればいいのだ。
かっこいいの反対側にかっこわるいを置くのではなく、かっこつけていないがクオリティが高い、
を置くことができたら学校も社会も少しは変わるのではないだろうか。
そのことをひとことで言い表せないかとさきほどから考えているのだが…。
わかりやすくて、キャッチーな名前が見つかれば可能性がある話だと思うのは楽観的過ぎるだろうか。
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