すいせい

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デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです

和火のインスタやってます。
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甲州街道を越えて辿り着く古い町。
雨が降るとうずうずと撮りたくなってしまい、レインウエアをはおって何度か通っている。

 

ここは、小説『赤目四十八瀧心中未遂』に出てきた雨樋が錆び付いた町を彷彿とさせる。

 

使用機材:

SONY NEX-5

Leica Summaron 35mm F3.5

ヘリコイド付きマウントアダプター(Voigtlander)

LM変換リング

 

カメラについての詳細はこちら

 

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子供の頃、苦手だったものに海苔巻きがある。

 

いや、正確に言うと、鉄火とかキュウリとか単体の具は大丈夫だったのだが、
桜でんぶやら卵焼きやら干ぴょうやらが混在する太巻き寿司が苦手だった。

 

お菓子のように甘ったるいことに加えて、でんぶのざらざらした舌触りにも違和感があったし、
蛍光色な断面も食欲をそそらなかった。
甘過ぎるし、派手過ぎないか?アレ、と思っていた。

 

いまになって思えば、寿司という文化自体、自分が育った熊本では進歩的でなかった。
そもそもあまり美味しいと思ったことがなく、なぜ世間で寿司という存在が
こんなにもありがたがられてるのか理解できなかった。
認識を改めたのは上京後にちゃんとした寿司屋に通うようになってからである。

 

よく言われるように、江戸前の握り寿司とは、シャリに新鮮なネタを乗せたものではない。
酢飯に合うように最適化された新鮮なネタとシャリのことだ。
なのでなにも手を掛けていないと思えるネタであっても、ほんのわずかに火を通していたり、
塩を振っていたり、細やかに調整されている。
あるいはもっと大胆に、穴子みたいに蒸して焼き、甘辛いツメをつけることもあるし、
煮蛤のように醤油で煮込む場合もある。
握れないものは握らない、と頑固な親方が突っぱねるのは、
物理的に握れないということでなく、どう調整してもシャリには合わないということなのだ。
九州で食べていた寿司は、ネタの鮮度は良かったかもしれないが
そういった仕事はあまりされておらず、寿司としての完成度はいまひとつだった。

 

私は新鮮な海の幸が獲れる地方の港町に行っても、寿司は美味しくないから食べない。
魚介類はもっぱら刺身で楽しむ、と馴染みの江戸前の寿司屋の大将は言っていた。
確かに現在でも熊本で美味しい握り寿司を食べることはなかなか難しい。

 

話が脱線したが、とにかく子供の頃太巻き寿司が苦手だった。
それがなぜかとつらつらと考えてみると、味よりも様式の方がまさっていたからではないだろうか。

 

寿司は基本的にハレの食べ物だ。
特に太巻き寿司やちらし寿司は、季節のおめでたい行事と結びついているので
祝賀の雰囲気を演出するために、色とりどりな趣向を凝らし、食卓に華を添えてきた。
太巻き寿司の場合は、断面の面白さが人々の創作意欲を刺激するだろう。
上記の写真のようにやや過剰とも言える太巻き寿司もつくられている。
これらは房総半島でつくられる「太巻き祭りずし」というもので、名称からもわかるようにずばりハレのど真ん中だ。
つまり一目でおめでたいとわかることが太巻き寿司の役割=様式であり、おおきなアイデンティティなのだ。

 

やたらと甘い味付けも同様の理由だろう。
かつて砂糖は精製が難しかったため日々の料理に使うことはなかなかできなかったからだ。
その裏返しとして砂糖がたくさん使える食べ物はハレを表すことになる。

 

華やかな西洋の食べ物が日常にあふれ、甘いものも存分に味わえる時代に育った子供にとって
形骸化してしまった様式にはあまり心惹かれなかったのだと思う。

 

加えて苦手だったのにはもうひとつ大きな理由がある。
それは様式の中にひそむ呪術的な日本の姿だ。

 

太巻きごときに、いよいよ話が大袈裟になってきたが気にせず進んでいく。

 

小さい頃、太巻き寿司にかぶりつくたびに、異界へと連れて行かれてしまうような居心地の悪さを感じていた。
それは中心に近づくにつれて、濃厚になり、しだいに呪術性さえおびていたように思う。

 

いまになって考えてみると、そのような体験は決して珍しいことではない。
大人になっても、大人になる過程でも経験する一般的な感覚だろう。例えば自分の場合は、参道にずっと続く夏祭りの提灯を見たとき、
古い町を歩いていてどこかの開け放たれた窓から浪曲が聞こえてきたとき、
あるいは鈴木清順のいくつかの映画を観たときなどにも、同じこころもちになることがある。

 

それはいにしえの文化が持つ呪術の力が、こころに働きかけて、過去の世界へといざなっていくからだ。
言い方を変えると自分の中に蓄積された記憶がフラッシュバックする現象だと思う。
一時的にでもこころを捉えて動かなくしてしまうのは呪術の力だ。

 

では太巻き寿司に潜むものとは一体どんなものだろう。

 

思うにそれは、キッチュだったりサイケデリックだったりする日本特有の外連味ではないだろうか。
日本文化にはそういった派手でエグい側面があるからだ。
いろいろな捉え方があるけれども、一番わかりやすい例で言えば、グラフィックデザイナー横尾忠則の初期のスタイルがそれに該当すると思う。
わざと俗っぽいテーマを扱い、原色や蛍光色を多用し表現される演劇のポスターは、
見ていて気持ちが良いというよりは、むしろ居心地の悪さを感じてしまう。
しかしこの居心地の悪さが問題提起となり、一連のポスターを芸術の域まで高めている。
ビジュアルメインの話ではあるが、こういう形でわかりやすく表現されると
日本文化には毒っぽい領域があることが認識できると思うし、太巻き寿司であっても無垢な子供にとってはけっこう刺激が強かったのだ。

 

大人になったいまでは、太巻き寿司はむしろ好きな食べ物の部類に入る。
それは清濁併せ呑むように成長したというよりは、太巻き寿司の方が健全化しているからだと思う。
外連味がなくなり、呪術力が薄まっているのだ。
甘さも控えめで、バランスが取れていてとても美味しい。

 

すっかりいまではおめでたさを享受できるようになったが、子供のころの自分には鬼門だった。

 

画像出典 上から3枚目まで:千葉のお米ホームページ

画像出典 上から4枚目:『ヤクザ映画 戦後日本映画のひとつの流れ』横尾忠則 1967

画像出典 上から5枚目:『由井正雪 劇団状況劇場』横尾忠則 1968{{/小字}}

画像出典 上から6枚目:『責場』(部分)横尾忠則 1968

 

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ウェブサイトのリニュアールのお知らせ

 

いままでのウェブにも愛着があったのですが、なにせつくったのが7年も昔のことで、
だいぶガラパゴス化しつつあったので、このたび思い切ってリニュアールすることにしました。(まあ、思い切ってというほどでもないかな)

 

新しいデザインの方向性としては

 

1 スマホ対応

2 レスポンシブ機能の追加

3 全画面表示

4 バイリンガル化

 

上に行くほど高い優先度です。

 

1は言うまでもなく時代の必然ですね。スマホでのネット閲覧が7割を超え、さらにその傾向は強まるでしょう。
今後はものごとの多くがスマホに取り込まれていってしまうのかもしれません。

 

2について
多種多様な環境で閲覧されることを考えると、レスポンシブ機能も必然でしょう。
大きい画面 ⇆ 小さい画面、横長 ⇆ 縦長という振り幅の中でも、統一したイメージで見せたいので画面に沿うデザインにしました。
横長(PC)⇆ 縦長(スマホ)は、方向性が180度違うじゃないかと理不尽さを感じるけっこうデザイナー泣かせなフォーマットです。w

 

3にしたのは、画面サイズは最大限に活かして訴求したいから。
しかし画面一杯一杯に画像を並べただけだと即物的になってまうので余白も感じれるようにデザインしました。

 

4は、今後も日本という地域で仕事をしていくことには変わりないのですが
最近中華圏からのメディア掲載の依頼などが多いこともあり(google翻訳でのページ閲覧も多い)、
日本語以外にも対応しておこうかと思い英訳を追加しました。
英語を追加したらグローバル的にどれだけ広がりが出るのかということにも興味あります。

 

ブログに関してはこれからも書いていくつもりです。
ただいままで書いてきた分の引越しがまだ済んでおりませんので、過去の閲覧の場合はお手数ですがこちらをご覧ください。
データ移すのは手動ですし、画像サイズが違うこともあり非常に面倒なのですが、
文章を書くことは自分にとってデザインと同じく、ライフークのようなものなので大事にしたいと思います。

 

しかし、画像が大きくなると、デジタルリマスターではないですが、ディティールまではっきり見えるようになりますね。
ま、もちろんそれが目的なんですけども、昔の仕事を見返してみると、けっこうざっくりとやっていたなあとお恥ずかしいです。
それだけ成長したということかもしれないですが。

 

以上リニュアールのご報告でした。

 

今後とも当サイトをよろしくお願いします。

 

すいせい 代表 樋口賢太郎

 

ウェブデザイン & ディレクション:樋口賢太郎

コーディング:石原修(IPSYJP

Web design & direction:HIGUCHI Kentaro
Coding:ISHIHARA Osamu(IPSYJP

 

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少し前から「ちょい悪オヤジ」という言葉が気になっている。

 

ちゃんと目を通したことはないけれど、レオン系の雑誌などによく登場している不良っぽい中年のことである。
ただの「オヤジ」ではなく「ちょい悪」と頭についていると普通の中年よりもモテたり、魅力的に見えるらしい。

 

出始めのころは、冷ややかに見ていたのだけど 最近では「ちょい悪」って確かに魅力があるなと思うようになってきた。
イタリアンジャケットの着こなしやいい革靴に精通しているなどといったスタイリングについてではなく、人の在り方の話である。

 

このあたりの「ちょい悪」感の説明は音楽を例に取るとわかりやすいかもしれない。

 

おそらく悪(ワル)ってことをマーケティングに利用し、
成功をおさめたのはマイケル・ジャクソンの『Bad』という曲とアルバムが初めてではないだろうか。

 

もちろんずっと以前から他のミュージシャンによって、表現されていた世界だけれど
明確にメインストリームで使われたのはこの曲が最初だと思う。

 

マイケルほどの世界的なミュージシャンが曲のテーマにBadを掲げ、そしてそれが受け入れられたことがなかなか興味深い。
マイケルの音楽は、嫌な言い方かもしれないが、表現以前にビジネスと結びついているので、
極端に過激なことはできない仕組みになっている。

 

変なことをやろうとすると役員やマーケターなどから横槍が入るからだ。
つまりリリースするということは、Badというネガティブなテーマでも炎上しないし、
世間に受け入れられるという判断があったのだ。  

I’m bad-you know it You know I’m bad I’m bad-come on you know
And whole world has to answer right now Just to tell you once again,Who’s bad  

なあ俺は悪だろ 俺は悪い奴だろ なあ俺は悪だろ
いますぐに世界のみんなに答えてもらおう もう一度言う、誰が悪なのか

Michel Jacson『Bad』より抜粋・拙訳

もちろんマイケルが表現したかったのは、犯罪に関わるようなBad=悪ではない。
表現したかったのは「いいことだけしていたり、正しいことばかり言う人間は魅力的ではない。
それよりは、法律違反はしないまでも、善の領域を少し逸脱する人間の方に魅力を感じてしまう」ということだと思う。

 

これはなにも別に、悪いことをすればモテるというような厨二病的な意味ではなく、
人の魅力、あるいは普遍的な人の価値ってのは善と悪の間をゆらいでいるということだ。

 

宗教戦争やテロの例を見るまでもなく、善や正義の名のもとに行われる人間の振る舞いは 逆に悲劇を生むことのほうが多い。

 

善を標榜した瞬間にうさんくさくなってしまうことを人は本能的に知っているので、
Badというテーマにバランス的に心惹かれるのだと思う。

 

Badよりさらに過激な、死や死体や地獄というテーマを扱うデスメタルや
暴力性が強調されたハードコア・パンクなども構造としては同じだと思っている。
ダメージのある服を着ていたり、不健康そうなメイクをしているので
一見ネガティブなことを表現しているように思えるのだが実は裏には「善」や「生きること」への強い肯定があるのだ。

 

同じマイケルの曲でも、世界平和を歌った「We are the world」が
いまいち魅力に欠けるのは、基本的に人々の軸足が善エリアに置かれているからだろう。
意識としてふだん善の比重が多いからこそ、悪の方向に向かう必然性や意味が生まれてくるのだと思う。

 

いい人でいることや生きることを肯定するのは当たり前、
でもだからといってそのことをストレートに表現してしまってはうさんくさいし馬鹿っぽい。
モテる人ってのはそのあたりを上手に表現しているんだろうな、きっと。

 

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