デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです
ペンのデッサン力
古書店でアーヴィング・ペンの写真集を購入しました。
世界で一番好きな写真家は誰か?と聞かれたら アーヴィング・ペンかも、と答えるくらい好きな写真家です。
どこが好きかと言うとペンの目を通すとありふれた物でも魅力的にみえるところ。
そしてその魅力は、ずば抜けたデッサン力に支えられていると思います。
絵を描いているわけでないのになんでデッサン力? って思われるかも知れませんが、別にデッサン力って絵を描く力ではないのです。
デッサン力とは「物を見る力」のことではないでしょうか。
いわゆる絵が上手でない人は絵が描けないわけでなく「物が見れてない」のだと思います。
例えばリンゴを描く場合にじっと観察するとそれまで見えなかった物が見えてきます。
意識して初めて見えない物に気付くということは、普段は漠然と目の前の物を見ているのです。
逆にデッサン力がある人は、常に見るということを意識しているので、 リンゴひとつとっても視覚的な情報の蓄積が多い。
斜め下から見たらどういう形になるか、逆光ではどんな色や影になるか、目を1cmまで近づけて見たら何が見えるか、
ということなどに詳しい人がデッサン力があるのだと思います。
昆虫学者の中にはそらで昆虫を描くことができる人がいます。
常日頃から昆虫をよく観察することで、昆虫に対する物の見方ができている=デッサン力があるのです。
まあこの場合は昆虫限定のデッサン力ですが。
そして大事なのが写実的な描写力だけがデッサン力ではないということ。
もちろん基礎的には重要だし必要ですが、写実性を再現できる表現手段は現代ではたくさんあります。
それよりも価値があるのは、他人と同じ物を見ていても、 違った見方を提示できることだと思います。
つまらないと思われる風景を見ていても、ここをこういう風に見れば面白いですよ、美しいですよ、
と提示できる方が僕は表現者として優れていると思います。
ペンはそういう意味で、「ありふれた対象から新しい価値を見出す力=デッサン力」がとても高い人だと思います。
写真を見るにつけ、人はこんなに美しいんだとか、煙草の吸い殻さえこんなにかっこいいんだとか、新鮮な感動を与えてくれるからです。
惜しむらくは印刷ではなかなかその良さが伝わりづらいところでしょうか。
2000年に大規模な展示があった際にカタログが販売されていましたが 実物とのあまりにもな差にとても買う気にはなれませんでした。
生きているイカとスルメくらいの差がありました。
それ以来、がっかりするのが嫌で写真集は買わなかったのですが この本は高精細印刷のお陰か割と再現性が高いと思われます。
あー、願わくば大規模な展示をもう一回みたい。
究極の「ふつう」とは? 3
誕生から条件まで民藝ついて語ってきました。
現在では前述のように民藝という言葉が一人歩きし、 作務衣を着たひげ面のおじいさんが書く筆文字だったり、
やたらと無骨で座りにくい椅子だったりと、手作り感が前面に出過ぎてる表現を指し示すようになっている気がします。
もしくはお土産物のあるパターンを指すのでしょうか。
いずれにしても民藝とはスタイルではなく、抽象的でコンセプチャルな概念だと思います。
民藝の思想で一番素晴らしいと思うのは大いなる日常から 新しい価値観を導き出そうとしていた点です。
どんな優れた哲学や思想も日常から離れてしまうとその有意性を失います。
民藝の存在は日常に踏みとどまり、 そこで格闘し得られるものの価値を示しているような気がします。
一般論というものが馬鹿に出来ないのも同じ理由ではないでしょうか。
多くの人が生活の中で考え、総体的に浮かび上がってくる意識や意見は現実的で地に足がついているものです。
無意識で感じていることが顕在化して表出したものにはある種の普遍性が含まれていると言っても大仰ではないでしょう。
また一般論は数が多くなればなるほど、時を経れば減るほど強度を増し、その針はより正しさの方向を指すようになります。
もしかしたらそのような意識が数百年も口頭で伝わり神話や寓話になったのかもしれません。
優れた民藝を見ていると、神話を読んでるのと同じように人間のポジティブな姿勢や可能性を感じ、
崇高な気持ちになることがあるのはその為でしょうか。
また日常の中にある美の素晴らしさはその佇まいにあると思います。
優れたデザインというものは生活の中でことさらには主張しません。
目で見えないものが優れたデザインと言っても過言ではないと思います。
その存在すら気付かずに、しかし必要不可欠で日常を水のように満たしてくれるものこそ、最上のデザインではないでしょうか。
(広告は逆に目立つ必要がありますが、広告が純粋にデザインなのかはまた別の話です)
民藝の場合は改めて指摘されないと気付かないレベルまで昇華されていますので、その美しさとても儚(はかな)いものです。
しかしその儚さ故に価値は偉大なのです。 柳宗悦が民藝を考え出してから85年あまりが経とうとしています。
当初は機械生産を否定して、ややもすると近代化批判に陥ろうとしていた思想は
近代化が終わった現代社会をもう一度豊かにする為に見直されてもいいと思います。
なんと言っても素晴らしいのは 美しさを感じる為にとても高いお金を出す必要はなく、
日常を抜け出す為にどこか海外に行く必要もなく、ただ単に自分の周りを見渡すことから始めるだけでいいというところでしょうか。
簡単過ぎるがためにみんなが気付かないというのは国家的損失じゃないかと思うくらい (言い過ぎかな)、
とても可能性がある哲学だと思います。
<一応完結>
究極の「ふつう」とは? 2
民藝の条件 柳宗悦が生み出した民藝の条件とはなんでしょうか?
1)世代を超えて受け継がれるもの。
2)デザイナーが関わっていないもの。
3)大量に生産されるもの。
順不同ですがざっと挙げると上記の様になります。
1)の条件は言うまでもないでしょう。
何百年もの間、人から人へ受け継がれることで最良の形に自然とおさまることができます。
民藝の一番のポイントです。
2)が意味するのは近代化以前はデザイナーは存在していなかったということです。
様々な物が分業化・細分化されるようになって初めて
グラフィクデザイナーやファッションデザイナーや建築家という職業が誕生しました。
またデザイナーがデザインしない方がいいものが出来ることがあります。
なぜならばデザイナーであることで陥ってしまう危険性があるからです。
その危険性とは物事の判断がデザイナーの美意識に依存しすぎるところです。
デザインする上で重要な機能、歴史的背景などではなく、美意識を優先することでかえって美から遠く機能的ではない物が生まれます。
デザイナーは個人の嗜好ではなくもっと客観的な事実を優先すべきだと思います。
その点デザイナーでない場合は美意識を働かせるという意識がそもそも希薄なので
本質をずばりついたものができあがります。
僕自身もデザイナーを続ければ続けるほど美意識からは遠ざかったところで デザインをしたいと思うようになりました。
3)大量生産されるメリット。
一般的に美術品と呼ばれるものは最も価値が高いと思われています。
時の為政者がお金と権力にモノを言わせてつくらせた作品の多くは いまだに美術館や博物館に並んでいます。
現代ではブランド物なども同じような位置にあるのでしょうか。
しかし世の中で言われているような美術品やブランド物に圧倒的な価値があるかは疑問です。
なぜならワンアンドオンリーをつくるには手間もひまもお金もかかるので、
通常の生活者(もちろんマジョリティ)が入手することは困難だからです。
どんなに使い易く、美しいものでも少量では意味がありません。
多くの人が手にすることはできなければ世の中が良くなる方向には向かいません。
そういう意味で現代社会ではユニクロや無印良品はとても価値があると思ってます。
民藝とは一見無縁のようですが 大量で安い良品質のモノを供給することは民藝的な価値観と合致します。
また手工芸に関して言えば大量に手でつくることは別の意味を持つようになります。
素早い動作を何度も繰り返すことで個人の美意識から逃れられると柳は考えていました。
無我の境地というのか、無意識の意識というのか 自我を超越する方法論として大量生産は機能すると考えました。
以上がざっくりとですが柳が提唱した民藝です。
とてもすぐれた非の打ち所がない論理だと思います。
なにしろ普通の日常(言葉変かな?)に美を見いだすという発想がラディカルです。
現代でもそのまま有効そうな素晴らしい哲学ですが 今後の未来に役立てようと考えると少しアップデートを行わないといけないでしょう。
「機械生産も可」と「デザイナーによるデザインも可」。上記2項目を加えると生きた哲学になると思います。
柳は機械による大量生産を嫌っていました。
元々の立ち上がりが機械生産の批判から始まっているだけに容認できないのは心情的によくわかります。
しかし現代社会において機械生産は必要不可欠です。 安価な機械大量生産に可能性を見いだすことが重要だと思います。
それと現代社会ではデザイナーによるデザインも避けられません。
個人の美意識だけでない、客観的な判断力を持ったデザイナーならば優れたデザインを生み出せると思います。
究極の「ふつう」とは? 1
究極のふつう」とは一体何なのか?
ふつうなのに究極って矛盾しているじゃないか?なぜ?と思われる方もいらっしゃるかと思います。
今回は民藝について話を進
めていくことでそのことを浮かび上がらせたいと考えています。
<民藝の誕生>
ここのエントリーでも書きましたが民藝というのは 一般的にとても誤解されているんじゃないでしょうか。
残念な事にいまとなっては言葉の響き方も当時とはだいぶ変わってしまってお土産物みたいなイメージが強いと思います。
そもそも民藝という言葉は1925年、柳宗悦を中心とし、陶芸家 河井寬次郎、濱田庄司らによって提唱された造語であります。
よく耳にするし、さも昔からありそうですが、実は割と最近できた言葉なのです。
この言葉がつくられた背景には押し寄せる近代化の大きい波がありました。
当時、政治・経済・産業・インフラなどを始めいろいろなものが刷新されていき
それまで使っていた日用品も大量生産の対象となりました。
もちろん工業化される事で多くの人々の手に渡り便利になったものも沢山あります。
しかし味気ないものに変わってしまったものも少なくありませんでした。
そのような失われゆく日用品を憂い、守ろうとしたのが柳達だったのです。
例えば竹製のざるなどを単純にプラスチックに置き換えても それまでのクオリティを維持することはできません。
なぜならそれまで使っていた日用品は何世代にも渡って人の手を介し改良されてきた とても完成度が高いデザインだったからです。
日常から離れることなく少しずつ改良され、しかも世代を経ることでより洗練され使いやすく変化してきました。
それはまるで数百年かかってわずかに成長する鍾乳洞のつららのようなもので
一介のデザイナーの才能やひらめきではなかなか到達できない世界であります。
当時の人は失うことになってはじめて、それまでありふれていた日用品の素晴らしさに気付かされたのです。
このようなデザインを一般的にはアノニマスデザイン(anonymous design)と呼んでいます。
アノニマスというのは「作者不詳の」という意味で デザイナーがデザインしたものではないが、
デザイナーには超えることが難しい普遍的なデザインのことです。
いまとなっては民藝の真の意味を伝えようと思うと アノニマスデザインという言葉の方がうまく伝わるかもしれません。
柳宗悦が守ろうとしたものはまさにこのアノニマスデザインでした。
連綿と受け継がれてきたバトンを次の世代に渡すべく奔走し、「民衆的工藝」を略して民藝という言葉を考え出しました。
当時の日本にはそのようなデザインを指す言葉はなかったので
宗悦が新しく「民藝」という言葉を作る必要があったのです。
概念すらなかった時代に民藝という言葉を作り出し、そこに価値を見出したのは大いなる発明だと考えています。
日常の中に溶け込み、目の前から消えてしまうとどんな形であったのか思い出すこともできない
「ふつう」の日用品。しかしこの「ふつう」は究極のふつうなのです。
写真:龍門司焼き(鹿児島) 芭蕉ほうき(沖縄)
日本民藝館展
みなさん待ちに待った民藝館展の季節がやって来ましたよ。
と言ってもどれだけの人がこの話題について行けるか不安ですが・・・。
平成21年度 日本民藝館展 新作工芸公募展 2009年12月5日(土)~12月20日(日)
まあ民藝についての論争云々は置いておいて
現代の手仕事で良いもの見たいと思えばこの展示をおいて他にはないでしょう。
民藝館での展示は通常は企画展のみなのですが
この期間だけは日本民藝館大賞を決める公募展に様変わりします。
全国から現在手で製作されている優秀な道具が集まり、
さらにその展示物はすべて購入可能なのです。(値段も民藝なのでリーズナブルですよ)
その展示も残すことあと数日。
行かれたらとても豊かな暖かい気持ちになること請け合いですよ。