すいせい

category
archive
このブログは
デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです

 

宗教とは何かと、知識もない、素人の頭で考えている。

 

いろいろと世間を騒がせている大きな宗教から土着的な民間信仰まで、さまざま宗教が存在しているが、
共通しているのは、合理的に説明がつかない物事について、答えを与えてくれる役割だろう。

 

死んだらどうなるのかとか、なぜ自分だけ病気に苦しむのかとか、
人間関係で不幸になってしまうとか、人は生きている限り、悩みがつきない。
世は不条理なので、その不条理さについて納得いく答えをどうしても求めてしまう。

 

現代は無宗教の時代といわれて久しいが、それはおそらく、
インフラや科学などの発達によって不条理さがある程度軽減されたからではないだろうか。
大規模な災害が起こる頻度も土木工事の発達によって減っただろうし、
難しい病気も、医学の進歩により、治療できるようになった。
いわば宗教を他のものが代替するようになった。

 

だがしかし世界はどこまでいっても不条理なので、災害は起こってしまうし、ひとは病に伏せってしまう。
この世から宗教がなくなることはないだろうと思う。

 

宗教はマイノリティや社会的弱者から発生することが多い。
キリスト教は、ユダヤ人しか救わないユダヤ教に対してのカウンターだったし、
仏教もバラモン教によるカースト制度から、最下層の不可触民を救おうとした。
オウム真理教をはじめとするカルトもその傾向が強いと思う。
あたりまえのことだが救われるひとびとがあってはじめて宗教は成立するのだ。

 

貧乏な家庭に生まれたり、器量が良くなかったり、持病があるひとのほうが、
生きづらさを抱え、向き合わなければならない問題が多い分、より多くの答えを持っていると考えている。
性的なマイノリティは、性について悩み苦しんで生きている分、宗教家に近いと言えるだろうし、
民族のマイノリティ、ADHDやHSPなどの悩みを抱える人々も同様だと思う。
生きづらさ自体は苦しいものなので、もちろん誰も望むことはないだろうが、
そのつらさを乗り越えて、解消することができたら、自分以外のひとびとも救える力となる。

 

でここからちょっと物騒な話になっていくが、人間にとって最もマイナーで、問題を抱えている存在はなにかと考えてみると、
人をあやめなければ生きていけないサイコパスが挙げられるのではないだろうか。
人間が持ちうる最も救い難い心の闇とは、人を殺すことでしか癒されない種類の欲望だと推察される。
本人はその呪われた宿命を背負い、欲望を発散したい気持ちにかられつつも、
なぜ自分だけがそのような病を有してしまったのかと、社会との軋轢に苦しんでいる側面もあるのではと想像できる。

 

だとすると本人がその心の闇を解決できる方法を思いついたら、
人類にとって最大なネガティブを最大なポジティブに転換でき、ひとびとを救う宗教になりうるのではないか。
サイコパスの心理は人間の本能の奥底とも繋がっており、全般的な心の問題を解決する糸口にもなるのではないかという気もする。

 

Apple好きなひとびとをApple信者などと表したりと、ブランドと宗教は似ていると言われている。
ミュージシャンやアイドルなども宗教家に近いかもしれない。
前述したようにそれまで宗教が担っていた役割が分散され、問題解決を他が代替するのが現代の特徴だとすると、
今後さらにその傾向は強まっていくのだろう。

 

不条理ささえも忘れさせてくれる熱狂的なブランドが出てきたら、宗教になりうるのだろうか。
いや、推しのアイドルを神と呼ぶファンにとっては、もうすでにそのような存在なのかもしれない。

 

 

和火やってます。

作家活動やってます。

コメント:0

北海道

2023.07.21

先日、北海道に出張に行ってきました。

初めての北海道だったのですが、自然がとても濃く、また距離も近く感じ、
緑が少ない東京で暮らしている人間にとっては、心が洗われるような体験でした。

 

 

和火やってます。

作家活動やってます。

コメント:0

 

最近塗装することの意味を考えている。塗装とはなにか?

 

例えば木材で机をつくる場合に、とてもいい材質の無垢板を入手できたとしたら、
それを塗装して仕上げようという人はあまり多くないだろう。
表面を保護するために透明なニスやウレタンなどを塗ることはあるだろうが
分厚くペンキを塗ってしまうのはもったいないと感じてしまう。

 

ではベニヤ板や集成材などが材料だったらどうだろう。
材質の良さを積極的に見せる必要がなくなったぶん、塗装して仕上げる割合がグッと上がる気がする。

 

あるいはRC造のコンクリートの打ちっぱなしの壁があったとしたら、
素材感を活かすために塗装しないひとが多いのではないだろうか。
いっぽう合板が相手だとすると、ペンキなどの塗料で仕上げることに抵抗は少ないと思われる。

 

つまり塗装するひとつの目的に、材質が劣っていることを見えなくする意識があると考えられる。
保護する意味もあるだろうが、色や質感に影響が少ない透明な塗料を選ぶこともできるので、
このケースでは隠してしまうことが主目的だろう。

 

もちろん置かれる環境とバランスを取るために、初めから机を白くしたい場合もある。

 

バランスを取るために、家具や壁などの色をコントロールすることは
ごく一般的に行われていることであり、こちらを目的として塗装することのほうが多いかもしれない。
しかし塗装すると、色の調和は良くなるかもしれないが、
素材感は薄くなるので、木材が木材である必要性も薄くなり、代替可能になってくる。
3Dプリンターなどを使って、樹脂で同じ形状の机を制作し、塗装してしまえばパッと見はわからないだろうし、
硬さや密度感などを近づければ、持ってみてもわからないかもしれない。

 

塗装すると色のバランスや保護面でのメリットがあるのは確かだが
木材や金属や石などの素材そのものの色には敵わないだろうと考えている。
少なくとも自分は、どんなに優れた塗料があったとしても、
黒い石材を黒く塗装しようとは思わないし、白い漆喰の壁を白く塗ろうとは思わない。
塗装するのは、それぞれの色が素材として用いることができない場合に限られる。

 

メンテナンスから言うと大変なのに、なぜ高級寿司屋のカウンターが檜の白木なのかよく考える。
おそらく日本人の意識の根底に素材を尊ぶ感覚があり、
かけがえがのない価値のありかたと結びついているからではないだろうか。

 

ちょっと高めの寿司屋のカウンターに座り、寿司を握ってもらうのは、
ハレの日の特別なことなので、当然その価値に合うサービスを求める。
ペンキが塗られたカウンターは日本人を喜ばせないし、ましてやなにも塗られていない分厚い一枚板を欲する。
世界的には模様を掘ったり、色を塗ることのほうを尊ぶ国のほうが多いので
(つまりわかりやすく仕事がされているのを喜ぶので)、このことは日本独特の珍しい感覚だと思われる。

 

考えてみれば、握り寿司も、極力手を加えずに素材をどう活かすかという、
とても日本的な視点でつくられる料理の代表格である。

 

寿司屋の白木のカウンターは、なぜ塗装しないといけないのかという問いを投げ掛けている。

 

 

 

 

※日本古来の漆が塗装かどうかは、なかなか難しい問題だと思う。
英語だとLacquer(ラッカー)と訳されるが、それはちょっと日本人の感覚からすると乱暴に思ってしまう。
おそらく塗料でもあるが素材という側面も持っているからではないだろうか。
何層にも重ねて塗ることで厚みが出るので、素材として認識しているのかもしれない。

 

 

和火やってます。

作家活動やってます。

コメント:0

 

 

 

詩についてはよくわからないけれど、北園のデザイン、写真には中毒性があるように思える。

 

北園とは昭和初期から50年代にかけて活躍したモダニスト北園克衛のことである。
その活動範囲は前衛詩を主軸として写真、デザイン、映像と幅広く、ほとんどを独学で習得し、76歳で没するまで旺盛な創作活動を行った。

 

プロフェッショナルでもない一人のモダニストの作品が時代に埋もれることなく、
現代でも輝き続けているのはとても不思議なことだ。(日本歯科医学専門学校の図書館に職を得て、亡くなるまで勤務していた)

 

いや、北園の前ではもはやプロ、アマチュアでの線引きは意味がないかもしれない。
なにしろその実力はプロの線をまたぐことができたのではなく、プロの中でもトップレベルの域で常に活動していたのだから。

 

 

 

 

北園の作品群を見渡すとそこにしっかりと確立された世界観をみることができる。

 

装丁について言えば、おおよそ「文字+何かひとつの要素」で構成されていて、
余白を生かした緊張感のあるデザインからは、北園とモダニズムの出会いがいかに幸福であったのかよくわかる。
日本的な淡白な美意識とモダニズムの邂逅が、ひとつの世界観をつくっているのは間違いないだろう。

 

「私の『理想の装丁』というものは、必ずしも、私個人の独創的なデザインの上のアイディアを反映しているという意味ではない。それは、ながい間、装丁の仕事をしてきたデザイナアであるならば、当然に行き着くところのぎりぎりのパタアンである。では、それはどういうものなのかと言えば、ただそこには、その書物の著者名と書名があるばかりであるといったようなものである。私が考えている書物の装丁の理想は、そういうものである。––後略」 北園克衛「装丁を感覚する」『朝日出版通信』4号より

 

北園は自己表現を目的としていない。

 

そのことは「行き着くところのぎりぎりのパタアン」が
「その書物の著者名と書名があるばかり」であるという箇所からもよく解る。

 

最高の表現とは自己以外の「価値がある何か」が表現されているということを、北園は確かに知っているのだ。

 

概して芸術はいかに自己を表現するかに執着しやすい。
しかし感動を促す作品は作家の自己や自我とはかけ離れた場所にある。
自我が照らす明かりの先に真理が見えた時に人は感動するのであって、方向性を指し示すだけでは、
そこに見るものは作家の個人的嗜好でしかないと思う。
赤色が好きな画家が赤を多用する作品を制作したとしても、その嗜好には意味はなく、
赤を通してどのような真理が見えてくるかと言うことに価値があるのではないか。

 

そのことをアカデミックに頭で理解しているのではなく、実践から導きだした答えとして身体で理解していることが
北園が現在でも輝いている理由なんじゃないかと感じた。

 

 

亡くなる直前まで発行し続けた機関誌『VOU』。全160号すべてのデザインを北園が手掛けた。

 

同じタイトルでこれだけ違った表情をつくれることにも脱帽してしまう。
今週末まで世田谷美術館で北園の作品をまとまって見れる展覧会を催しています。貴重な機会なので是非。

 

橋本平八と北園克衛展 異色の芸術家兄弟 世田谷美術館
~12月12日

 

図版出典:『橋本平八と北園克衛展』より

 

※この記事は2010年12月に投稿した記事の再掲載です。展示は現在は行っておりません。
過去のデータベースにアクセスできなくなったので一部加筆修正して掲載しています。

 

和火やってます。

作家活動やってます。

コメント:0

 

当たり前のことかもしれないが、世の中を難しくしている根本的な原因は、
正解や正しさがないってことだなあと最近つくづく感じている。

 

ジェンダーギャップにしろ、SDGsにしろ、人口減少にしろ、ウクライナ戦争にしろ、
フェミニズムにしろ、核兵器にしろ、人種差別にしろ、不倫にしろ、少子高齢化にしろ、
引き籠り問題にしろ、移民政策にしろ、AIの使い方にしろ、全てのことに正解はない。
正解に近い答えはあるかもしれないが、
誰にもこれが正しいですと100%確証を持って宣言することはできない。

 

例えば「人を殺すことはいけないことなのか」というシンプルな問いにしてみても、
一般常識では、いけないことです、ダメですと答えるかもしれないが、
もし難病を抱えていて、病院のベッドのうえで身体を動かすこともできず、
チューブで栄養をおくられて一生を過ごさないといけない状況だったら、また答えも変わってくるだろう。
少なくとも自分だったら誰かに殺してほしいと願うと思う。

 

そういったいっけん白黒つきそうな問いの答えでさえ、グレーの幅のなかにたくさんに存在しているので、
より複雑でわかりにくい問いに関しては、
みんなが納得する答えを出すことはほとんど不可能ではないかと感じてしまう。

 

そして最近は、早急に答えを求め過ぎることで逆に反発や軋轢を生み、
ものごとを複雑化し、可能性を閉ざしてしまっていないだろうか。
SNSの影響か、そのまま放っておいてもいいような物事にも答えを急ぎ過ぎているようにみえる。

 

芸術の分野は昔から割り切れない感情や相反する問題などをよく扱ってきた。
文学や映画の世界では、殺人などのアンモラルなことや不健全さもそのまま描かれる。
それは犯罪や不健全さを肯定しているわけではなく、そういった状況を設定することで、
むしろ真実や大事な価値観を炙り出そうとしているからではと考える。

 

例えば不倫というテーマも文学のなかでよく描かれてきた。

 

そもそもがひとの心の動きは矛盾を孕んでおり、倫理などを超越して好意をもってしまう。
好きになることが許されない状況だとしても
心は自律しているので魅力を感じる存在のほうに、本能的に吸い寄せられていく。

 

ひとを好きになることは極めてナチュラルな心の動きなので止めようがない。
心を動かさないってことは死んでしまうことと同じではないのか、
などと読むひとに問題意識を突き付けるのが文学の役割で、
大事なのはあくまで最終的な判断は受け手側に委ねるところだろう。

 

犯罪に手を染めたり、不倫してしまうひとびとの心のうちを想像し、
状況によっては自分もそうなってしまうかもしれないと考える。
仮定を積み重ねることで、ひとは矛盾し相反する感情を持つ存在だと知ることができる。

 

喫緊にせまる社会問題などはすぐに答えを求められるし、曖昧さは残さないほうがいい場合も多い。
しかしいま決める必要がないことはなるべく後伸ばしにするのは悪いことではないと思うし、
それも成熟した社会の問題解決のひとつなのではないかと考える。

 

もっと本を読み、もっと映画を観るだけでも、だいぶ社会は変わるのかもしれない。

 

和火やってます。

作家活動やってます。

コメント:0

(C) Suisei All Rights Reserved.

topアイコン ホームアイコン インスタアイコン