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デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです

学生に「どうしたらデザインが上手になりますか?」と聞かれた場合は
たいてい「いいデザインをたくさん見ることです」と答えている。

 

自分が学生と同じ年齢くらいだった頃のことを想像してみると、
技術的なアドバイスよりも、優れた作品に触れる機会のほうがはるかに有益だったからだ。

 

テクニックはもちろん大事だし、必要不可欠なものだけど、プロとして実地に経験を積めば自然と身につくので、
それよりはいい作品をたくさん見てほしいと思う。

 

このことはおおむね何にでも敷衍して言えるのではないだろうか。

 

たとえば美味しいパスタを食べたことないひとが、美味しいパスタをつくるのはなかなか難しい。
料理本などをみてつくれたとしても、自分の中に基準が存在しないと、
パスタってものはこんなもんかなと早々に妥協してしまうからだ。
しかし一回でも美味しいパスタを食べた経験があると、高みを知っているがゆえに簡単に諦めることは難しくなる。
そういった基準がある人は、例え料理が不得意だったとしても、
食べたことがない料理人を超えてつくれてしまうことさえあるかもしれない。

 

デザインも同じで、いかにたくさんの良いものを見知っているかが、表現の質の向上に繋がると考えている。
こんなにも美しいデザインがあるのかと世界の高さを知り、こんなにも多様なデザインがあるのかと世界の広さを知ると、
制作物に対しての執着や粘り強さが変わってくる。
見るといっても学生なので、プロの目よりも解像度は荒いと思うけれども、
大事なのはおおいに感動すること、もっと言えば表現に対して畏怖畏敬の念を持つことだと思う。
登りつめた作品だけが持つ崇高さを感じ、表現に対して敬意を払うようになると
自然とつくるものも変わってくるのではないかと考えている。

 

ただ最近は逆説的かもしれないが、知りすぎてしまうこと、情報過多になってしまうことのデメリットも感じている。
さまざまな情報が洪水のように押し寄せる昨今、自分の表現が何なのかわからなくなってしまうこともありうるからだ。

 

学生のうちは先に述べたような理由から、積極的に世界を広げたほうがいいと思われるが、
自分くらいの年齢になると、だいたいのマトリックスというか、
デザインの分布図は把握できているので、これ以上の意識的なインプットは必要ないのでないかと考えている。

 

なのでこれからは表題にもあるように、なるべくそういった情報の摂取はせずに、
自分の中にあるものだけで表現し始めようかと思う。
たとえ不便だとしても、手持ちの札を大事にして、それだけでやりくりしていくことで
どのような景色が見えてくるのか興味が湧いている。
時期的なものなのか、年齢的なものなのかわからないが、いま心が自然と動くのはそっちの方向のようだ。

 

まあ現時点で感じていることなので、おおいに変わる可能性がありますが、
年始の所感というか、これが今年の抱負であります。

 

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寅年

2022.01.03


本年もよろしくお願いいたします。

 

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下記の通り、休みをいただきます。
ご不便をおかけしますが、何卒ご理解いただきますようお願いいたします。

 

◎年末年始休業期間

2021年12月28日(火)~ 2022年1月4日(火)

 

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薄味と洗練

2021.11.30

 

もう若いと言えない年齢になってくると、食べ物の嗜好も変わってきて、昔はよくわからなかった味が好きになる。
例えば、はんなりだったり、ほのかなと言ったような、玄妙な味わいが最近はしみじみ美味しいと思う。
ごく薄い塩味の奥に感じる旨みや、あるのかないのかわからないくらいの風味が愛おしい。
以前はもっとはっきりとした味に惹かれたが(雲呑なんて全然美味しいとは思っていなかった)、
いまは穏やかで優しい料理により魅力を感じるようになった。

 

これは舌が肥えたり、味がわかるようになったと言うのではなく、ひとえに体力の低下が原因だと考えている。
10代、20代は何を食べても美味しいし、脂がしたたる料理でも胃もたれしない。
しかし内臓の消化力が落ち始めると、食べられるものと食べられないものが出てくる。

 

まえに一緒に暮らしていた猫は、若い頃はなんでも勢いよくガツガツと食べていたが、
老齢期にさしかかると食が細くなり、開封したてのフレッシュなフードや
特別なトッピングを乗せたときでないと食べなくなることが多かった。
味にうるさくなるということは、年老いていくことと同義ではないのかとそのときに思った。
つまり若くて健康な状態であるならば、たいていのものは美味しく食べられるので、味に悩んだりする必要もない。
繊細でかすかな味わいが美味しく感じるようになるも同じで、そういった傾向はひとつの衰えと考えられる。
世の中のグルメを牽引するのがたいてい女性なのも、比較的に男性よりも体力に優位性がないからではないだろうか。

 

デザインに限らず、文化や表現の領域におけるいわゆる洗練さや洒脱さも同じようなものだと思っている。

 

文化の洗練はひとつの指標のように思われるかもしれないが、
裏返せば、わかる人にしかわからなくていいという袋小路に迷い込みやすく、衰退に繋がりやすい。
洗練さや繊細さ、わずかな風合いの差は、わかる人とわからない人をどうしても線引きしてしまうからだ。
玄人的な領域に入り込むと、新陳代謝がなくなり、動きが止まってしまう。

 

例えば茶道は極めて洗練された文化で、自分のような職業にとってはクリエティブの宝庫だと感じているが、
あまりにも高度化され過ぎてしまい、人口に膾炙することはなくなった。
黎明期は立ち上げの武士以外にもさまざまな角度からのアプローチがあり、勢いよく活性化していたと思われるが、
いまでは老人趣味的、お金持ちの嗜み的な捉えられ方だったり、あるいは形式だけがクローズアップされ一人歩きすることが多い。

 

どんな文化や表現も荒削りの状態からスタートして、だんだんと洗練さの方向に収斂していくので、高度化を避けることはできない。
ただ若さや新陳代謝とのトレードオフであることは、知っておかないといけないのだろう。

 

エルメスにデザイナーとしてマルジェラが就任したり、ルイ・ヴィトンがグラフィティのモノグラムを取り入れたりするのも
同じ理由なのではないかと思う。

 

文化の場合は様々な人が関わっているので高度化を避けるのもなかなか簡単ではないが、
いち表現者としては、飽きないように領域を広げづつ、新しい活動に取り組む。
ひらたく言うと、でできなかったことができるようになるという目標をプロジェクトごとに掲げるのが、
最善策ではないかと個人的には感じている。

 

 

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最近ゴッホに魅了されている。

 

ゴッホといえば、西洋絵画の基本中の基本、知らないほうが難しいくらい有名な画家であるが、
いままで琴線には触れることもなく、完全にスルーして過ごして来た。

 

しかし昨年あたりから、むずむずと気になるようになり、少しづついいなあという気持ちに傾き始め、
最近では、うむ、やはりゴッホは天才だと独り言ちるまでとなった。

 

子供のころから絵が好きで、美術系の大学に進学し、いまはデザイナーを職業としているが、
すべからく絵画を理解しているわけでないし、またする必要もないと思っている。
心が動かない物事は、そのままでいい。世間の評価に迎合して、好きになったふりをすることはないのだ。
まあとにかく、そういうわけで、いまはゴッホがだいぶ好きになってしまい、先日も上野のゴッホ展に出かけてきた。

 

ゴッホの魅力をひと言で表すとすると、ロック魂に溢れる表現となるだろうか。

 

青春という時期を過ぎて大人になると、ひとびとは「純粋」ではいられなくなる。
これは良い悪いの話ではなく、職を得て、働くようになると訪れる自然な現象である。
学生のうちは純粋さを武器に理想論を振りかざすことはできるが、
実際の世の中は様々な欲望がひしめいていて、そのまま受け入れるしかない。
ある種、「諦め」の連続が、大人になるということかもしれないし、
また「そういうものだ」といちいち失望しないことが、振る舞いとして大事なのではと思う。

 

もし青春を定義できるとしたら、それはまだ世の中に出ていない純粋な心の状態が巻き起こす、
葛藤や苦悩の数々ではないだろうか。
つまり社会に出ていないからこそ得られる視点が青春であり、
一度世間を知ってしまうと、後戻りはできない不可逆なものだと思っている。

 

なので例えば「中年の青春」などという言い回しはそもそもが形容矛盾であるし、
あるいはもし中年でまだ青春を抱えているとしたら、他人事ながらさぞや生き苦しいことだろうと心配になってしまう。

 

そしてゴッホこそ、青春を抱えたまま大人になってしまった人物で、たびたび世間と衝突や対立を繰り返し、
最後はカート・コバーンよろしく、ピストルで自殺までしてしまうのだ。

 

これをロック魂と呼ばずしてなんと呼ぼうか。

 

ゴッホは1日に一枚くらいのかなり早いスピードで絵を仕上げたらしく、
ゴツゴツとした強目の筆跡は、まるでギターのカッティングのように勢いよく繰り出される。

 

分厚く盛られた絵の具は、ぎりぎりの物質感で、
ややもすると対象物というよりは絵の具に見えてしまうことがあるが、その無骨さが独特の魅力を生んでいる。
絵画という平面性にあらがうように、塑された表面はもはやテクスチャの領域を超え、まるで彫刻のようだが、
その物質性が持つリアリティには有無を言わせない説得力がある。
またストロークとストロークの間が繊細な階調で描き分けられていることも多く、感覚の鋭敏さも垣間見れる。
まるでツンデレのような、無骨さと繊細さの落差にも惹きつけられてしまう。

 

ふつうは組み合わせないような似たような色を使っているのも興味深い。

 

冒頭の有名な絵は、対象物であるひまわりと背景が同じ黄色系で、難易度が高い画面構成だが不思議にピタリと決まっている。
常人にはこういった黄色 on 黄色の絵づくりはできない。

 

このひまわりの絵も黄色 on 黄色。壁である背景のほうがなぜか明るく、ひまわりが逆光ぽく見える。
一番見せたいのが壁なのかと思ってしまうような珍しい絵づくりだが、
壁の色が輝くように美しく、狂気が薄っすらと漂っていてとてもかっこいい。
スタイルは違うがどことなく草間彌生と同質の狂気を想起させる。

 

青春(純粋)⇆社会(不純)という対立構造は芸術における永遠のテーマのひとつで、
絵画だけでなく文学や映画など様々な作品で散見できる。
そしてその純粋さがただの青臭さで終わらず、本質を突いていた場合は傑作とされる。
アルベルト・カミュの小説『異邦人』やヴィンセント・ギャロの映画『バッファロー’66』などが思い浮かぶ。ニルバーナも然り。

 

ゴッホが自殺したのは37歳のとき。純粋さを保ったまま、青春を生きたのだろうか。

 

願わくば青春が終わったあとの絵も見てみたかった。
ゴッホのことなので、そのまま天才性を発揮し続けたかもれないし、もし以前ほど感動をもたらす絵にならなかったとしても、
それはそれでゴッホに幸せが訪れたのだと思うから。

 

 

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