すいせい

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デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです

焼き直しをした越州窯青磁は実際に使えるようになったが、実はこの手の色合いは盛り付けが難しいのである。
そのことは買う段階でわかっていたが、なんとかなるかなと思って購入してみた。
なぜ難しいのか。そこには明らかな理由がある。

 

料理の話になると、味についての言及は盛んだが、どう食べるのかという話題はあまり多くはない。
どう食べるのかということは、色彩感覚やある種の環境学、あるいはストーリーテリングの要素までも含んでおり、
充実した食の享受を目的とするとそれらのことは避けては通れないと考えている。

 

一番わかりやすい例は盛り付けだろう。

 

いくら美味しい料理でも、安いっぽいプラスチックの器に、技巧もなく盛り付けては台無しになってしまう。
視覚的な要素が欠落するだけでも、魅力が失われてしまうことからわかるように
豊かな食には、味覚を含めた五感が全て充実していることが求められる。

 

例えば同じおにぎりにしても、春に見晴らしがいい公園で食べるのと、
掃除がされていない狭い部屋で食べるのとだと、どちらが美味しく感じるかは簡単にわかるだろう。
一般的には高級な調度品に囲まれたレストランでの食事が最上級と思われているかもしれないが
気持ち良く感じる環境という範囲で考えると、自然の中にも大い可能性を見つけることもできる。
このことをさらに追求すると環境学の領域に踏み込んでいく。

 

優れたストーリーがどういう意味を持つかは、前衛的な料理で知られるレストラン、Nomaの蟻の一皿を見ればわかりやすい。
食べ物には食べやすさのハードルがあり、そのハードルは人によりけりだが、
基本的にグロテスクなものや馴染みがないものほど食べにくい。
グロテスクであっても生活習慣に含まれていると抵抗感は薄れる。(例えばイナゴやイカの塩辛のように)
そういう意味で馴染みがない昆虫はグロテスクなので、ダブルでハードルが高くなってしまう。
ではなぜ人々はNomaで供される昆虫を喜んで食べるかというと、料理は目の前のものだけではなく
背景にあるストーリーも含めて食べているからだ。

 

背景のストーリが魅力的であればあるほど、充実した食を体験することができるし、昆虫さえも人々に食べさせる力を持つ。
ゲテモノ料理としてでなく、洗練された一皿に仕立て上げたNomaの功績はとても大きい。
(写真は映画『Ants on a Shrimp』より。もっと蟻が使われている料理もあるので興味がある人は検索してみてください)

 

上記のように、どう食べるかということは小局的には盛り付けから始まり、大局的には人が置かれた環境や物語にまで及ぶ。

 

今回の投稿では盛り付けの中のさらに小局的な色彩の話を進めたいと思う。

 

いい盛り付けにはいくつか要素があり

 

・色彩的要素

・配置的要素

・彫刻的要素

 

あたりがざっと抽出されるだろう。

 

それぞれ進めるとなると紙幅の限りもあるので(ウェブなので実際はないが)、
デザイナーとして関わりやすい、色彩について取り上げてみる。

 

さて上記の盛り付けを見た際にどちらが美味しそうに感じるだろうか。

 

盛られているものは同じだが、おそらく多くの人が左の写真(スマホだと上)と答えるのではないか。
その理由は色にある。
色彩的観点からだと、料理と器が同系色でなく、なるべく遠い色合いにある際に美味しそうに見える。
つまり補色に近い状態だ。

 

日本の器に染付が多いのは、煮物が多いこと、特に醤油で煮込まれたものが多いことがおそらく関係していると思われる。
醤油の色合いの反対色は、だいたい染付の藍色あたりになり、
そういった料理に合う器として、淘汰的に日本の中では染付が増えてきた。
これが同じアジア圏でもタイやベトナムになると、
料理に唐辛子を使う頻度が高まり赤系に傾くので、緑釉の器が多くなってくる。

 

煮物に合わせるための青系の器、おひたしなどの青物に合わせるための茶系の器が、
合わせやすい器のひとつの色の基準だろうか。
むろん無彩色の白と黒の器はどんな料理に合わせやすい。

 

逆に合わせにくい代表色として上げられるのが越州青磁の色である。
緑と茶の間なので煮物と青物のどちらを乗せても映えにくく、
鑑賞としてはとても優れているが器としての機能が満たされていない。

 

越州青磁は南宋の青磁の隆盛によって、12世紀くらいから衰退の一途をたどるが
その理由のひとつとして料理が映えにくいという欠点があったからではと考えている。
一方の南宋の青磁ははっきりとした青緑釉なのでアドバンテージがある。

 

色をシミレーションしてみた。

 

左(スマホだと上)がそのまま、右(スマホだと下)が青磁色にしたもの。やはり右の方が美味しそうに見える。

 

もっともなぜ補色関係であると美味しそうに感じるか、その理由はわからない。
以前、色感がいい人は味覚もいいと書いたことがあるが、そのあたりが関係しているのだろうか。
鮮度が失われるとともに、生命の色鮮やかさは後退していくものなので、
フレッシュさを感じる方に本能的に惹かれるからという考え方もできるが、
その辺はもう少し慎重に考えを進め、答えを探してみたい。

 

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焼き直し

2019.06.30

ときどき行く骨董市で、越州窯青磁とされる器をだいぶ安く手に入れることができた。
安かったのは、器のひとつがカセている状態だったから。
カセているというのは、骨董用語で言うところの釉薬がボロボロと剥離することを意味する。

 

右がカセている器

越州窯青磁とは、後漢から北宋の時代に、中国の越国(現杭州)で焼かれた青磁のことで、
青磁と呼ばれているが、実際は青いというよりは、緑がかった灰褐色の釉が中心で、
明るめから暗めまで割と幅があるらしい。後漢くらいから焼かれるようになり、
のちに南宋の青磁が栄える1100年代まで続いていた。(購入後、調べた)
南宋の龍泉窯などの精緻で澄み切った空のような青磁と比べると、青さも中途半端で
大味でざっくりとしているけれど、それはそれで良さがあるという感じだろうか。
もっとも南宋の青磁に人気を奪われるかたちで衰退していったのは、大味が原因だったからかもしれないが。

 

まあバイヤーが越州青磁と言うだけなので、真偽のほどはよくわからない。

 

もし本物ならば少なくとも900年以上は昔のものになるが、
骨董市では能書きではなく、自分のアンテナに何が引っかかるかという
ハプニング(予定不調和)を楽しむものだと考えているので、その辺は深く追求しないようにしている。
見た瞬間にどれだけ心を動かされるかが大事で、柳宗悦が言うところの「直下(じきげ)に見よ」の考えに近い。

 

にも書いたことがあるが、古いものはそれだけで素晴らしい場合が多い。
時代にフィルタリングされているということもあるが、そもそも格が違うと思っている。
様々な感覚器官をテクノロジーに頼ってしまっている現代人と比べて
古代の人々はより直感的に、十全に感覚を開いて生きていたので、やはり感覚表現のレベルが深いと感じるからだ。

 

持ち帰ってみると状態は予想以上に悪く、そのまま使っていくと釉薬が全部取れてしまいそうだった。

 

自分にとっての骨董はあくまで使って楽しむものなので、鑑賞するだけでは十分ではない。

 

ニスみたいなものを引けばいいだろうかなどと考えてみたが、
再びニスが剥離してしまうと根本的な解決にならないので、近い色合いの釉薬をかけてもう一度焼いてみてはどうかと考えた。
当然自分では窯を持っているわけもなく、知り合いの陶芸家にお願いしたところ、幸いにも焼いていだたけることになった。

 

釉薬を掛けた状態

 

見えないヒビがあったりすると、高温に耐えきれずに割れてしまうかもしれず、ダメ元のチャレンジだった。
どきどきしながら結果を待っていると、無事に焼きあがったとの連絡を受けた。

 

焼き直ししてみると、釉薬もきちんと定着しており、レリーフも前よりくっきりと浮かび上がっている。
まるで現代につくられたようなフレッシュさがあり面白い。
おそらく最初に窯から出てきた瞬間はこんな感じだったんだろう。
古さは残したまま、ピカピカに生まれ変わっている様子が、良い意味での違和感を醸し出している。

 

実験が成功したことで、何を盛ろうかと考える楽しみが生まれたが、
実はこの手の釉薬の色合いはだいぶ扱いが難しいのである。

 

それについては次回

 

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来客などがある際に散らかった部屋を片付けていると
その行為を来客のためにやっているのか、自分のためにやっているのかわからなくなることがある。

 

ゲストにとっては当然綺麗な方が望ましいと思うので片付けているわけだが、
自分をよく見せようとする気持ちもどこかにあると感じるからだ。
もっと言えば、見栄をはる気持ちというのか、普段よりも念入りに掃除をすることで、
自分はこんなにも綺麗好きなんですよ、とアピールしているような気もする。
なので純粋にゲストのためにやっているのかと問われると即答するのは難しい。

 

大学時代に、人を招き入れる際もあえて部屋を片付けないという友人がいた。

 

普段の自分に自信があるので、どんなに散らかっていてもありのままを見せられる。
片付けるのは自分に自信がないヤツがすることだと、いうのが彼の主張だった。
たしかに遊びに行ってみると、床にはほこりが溜まり、
脱ぎっぱなしの衣類はそのままで、ポルノ雑誌も隠されていない。
主張がなければ、ただのだらしないヤツという印象で終わるところだろうが
彼の演説を聞いたあとだと、散らかった様子や、ポルノを隠そうとしない姿勢にも説得力があり、
それなりに魅力を感じられるのが不思議だった。

 

これらのことで思い出すのは、クリエイティブディレクター佐藤雅彦さんの
エッセイ集で読んだひとつの寓話である。
その話には恥ずかしがりやの冷蔵庫とふてぶてしい冷蔵庫が出てくる。

 

ちょうど思春期の冷蔵庫は、扉を開けることを、とても恥ずかしがる。
逆に中年期の冷蔵庫のほうは、扉を開けることにまったく躊躇がなく、むしろふてぶてしいぐらい。
思春期の冷蔵庫の様子は、見ているこちらが困ってしまうぐらい恥ずかしがるが、
中年期の様は、躊躇がないのでそうは感じない。しかし何かを失ったようでそれはそれで残念である。

 

だいぶ昔に読んだので記憶が曖昧だがおおよそこんな話だった。

 

なぜこの話を思い出したのかというと、冷蔵庫の中身と部屋の中身が同じでないかと感じているからだ。

 

大学時代の友人の主張は、それはそれで興味深いものであるが、
訪れたゲストがどう感じるかという視点が抜け落ちている。
衣服が散らかっているのは許容できるかもしれないが、
トイレまで掃除されていないとすると、まあたいていの人は嫌がるだろう。
つまりその主張は自己完結しているだけで、ゲストの視点は含まれていないのだ。
例えばハウスダストアレルギーがある人を前にすると、彼の主張はまったく成立しなくなってしまう。
冷蔵庫で言えば後者のほうのタイプだろう。

 

一方の前者の恥ずかしがりやの冷蔵庫もゲストの視点が抜けている。
何を見せたら迷惑なのかという境界線がわからないため、見せること自体を躊躇してしまうからだ。
的確な判断力がなく、見せても迷惑でないものまで隠そうとする行為に困惑はしないが、
成熟した大人の振る舞いではないだろう。

 

自分はと分析すると、よりよく見せようとする虚栄心について悩んでいるのだと思う。
清潔であることは、行き過ぎても問題はないかもしれない。しかしそこに虚栄心が混ざると受け手は疲れると思う。
俗に言う鼻につくという状態だ。

 

訪れる人がどれだけ心地よく感じられるかだけを考え、掃除をする。
とても基本的なことだし、いっけん簡単なように思えるが、
けっこう奥が深く、おそらく茶道の一期一会の精神などにも通じる話ではないだろうか。

 

掃除ひとつとってもなかなか難しいものだと思う。

 

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世界観のお話

2018.11.01

 

最近整体に通っており、普段は知りえない身体についての話を整体士の人から聞いている。
どんな分野でも知りたい欲求が強いこともあるけれど、なにより施術中は暇なので、
思いついた身体の疑問に答えてもらうと面白いし、タメになる。

 

元アスリートであるその整体士は、栄養学からランニング用の靴の構造まで、
専門外のことにも詳しく、長年の疑問が氷解する気持ち良さを、身体が治ることに加えて味わえている。
なんというか、整体とは、ただ単に骨を整えればいいのではなく、
総合的に生活スタイルを見直して初めて、きちんと解決するんだということを、
この医院に通うようになって初めて理解した。
そういう意味でこの整体士の姿勢は、整体だけでなく、
身体を治すことへの全体に意識が向いているように思え、理想的なのだ。

 

先日いろいろと話している中で、スポーツ選手の世界観について話が及び、
ああ、なるほどデザイナーと同じなんだなと思うことがあった。

 

一見ただ身体を動かしているだけのように見えるスポーツだが
背景にはデザイナーや画家や音楽家などと同じ意識があると思う。

 

陸上競技を例にあげるすると、陸上の選手になるには先行のいい走り方を勉強することから始めるだろう。
優れているとされる走り方を習得することで、早く走れるようになるからだ。
要するにどの分野でも同じだと思うが、優れた人をとりあえず真似ることから始めるのだと思う。

 

ただしかし、いくらその走り方をマスターしても限界があり一流にはなれない。
他の人の走り方では、ある程度のところまで行けるかもしれないが
その走り方をつくりだした本人を超えることはできないからだ。
もっと言えば同じように真似をできる人(つまりフォロワー)も世の中には珍しくないだろう。
なのでさらなる高みを目指そうとするとそれぞれの選手の世界観=オリジナリティが必要になってくる。

 

ではなぜ早く走る際に個人の視点が大事になってくるのか。

 

それはおそらく走るということがとても個人的な行為だからだと思う。
筋肉を効率よく動かして、素早く身体を移動させる。
このことは、人間にとって最も基本的な行動でありながら、自己表現のひとつでもあるのだ。
特にトップレベルの選手たちにとって身体を効率よく動かすことは、
ダンスという表現が演者の世界観を抜きに語れないのと同じく、
ある種の哲学やモノの捉え方がなければ成立しないのだろう。

 

ひとつの新しい走り方を世に提示することで、それまで正しいとされていた常識ががらりと変わってしまう。
かつてカール・ルイスが一変させた走り方=表現がのちの優れた走者によって刷新されたように。

 

これはまさに芸術の世界でも同じで、いまさらながらにスポーツもひとつの表現なんだなと気付いた。

 

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