すいせい

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デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです

 
都会人間か田舎人間か。仕事人間か生活人間か。

 

人って上記のようにざっくりと分類できるんじゃないかと前々から思っていました。
そんなに大したものじゃないんですが、なんとなく方向性に迷っている際には、少しは役に立つかもと思い投稿してみます。

 

最初の問いは自然が豊かなところに住むのが好きかどうか。

 

人って、ビルばっかりで人工的な環境に住むのが好きというタイプと、
緑が多いところに住みたいというタイプに大別できるのではないでしょうか。
理由はわからないですが、経験的にだいたいどちらかのタイプにわかれるようです。
そのことを都会⇆田舎という対義語で表しています。
もちろん都会⇆田舎には便利⇆不便など他の側面もあると思うのですが、
自然が豊かかという要素の方が支配的だと思っています。
おそらく自然に対する感覚って本能的なものなので、便利⇆不便などの合理的判断よりも上位に来るのでしょう。

 

この問いは、どちらがより健全かというようなことを現すわけでなく、ただの傾向をみるためのものです。
自然が好きな人のほうについつい健全な印象を抱きがちですが、そんなのただの趣味志向でしょう。
たぶん人の歴史って常に自然の脅威との戦いだったので
手放しで自然が多いほうがいいとは言えない部分があるのだと思います。

 

次は仕事人間か生活人間か。
簡単に言えば仕事が好きか、家事が好きか。
いままでは便宜的に男=仕事、女=家事という風に役割分担してきましたが
本質的には個人の特性なので、性別でわけないほうがみんな幸せになれると思います。
男でも料理や掃除をしている方が好きという人もいるだろうし、
そういうのは一切苦手で仕事だけしていたいという女性も一定数いるからです。
狩猟民族で言うと、狩りに行くのが好きなタイプと、家で待ってるのが好きなタイプ。

 

これらの分類わけでざっくりと自分はどっちなんだろうと考えておくと、ある程度方向性が見えてくるんじゃないでしょうか。

 

例えばタイプ的には家事が好きだけど仕事をしないといけない場合は
嫌々仕事をするのではなく、家事をうまく仕事と結びつけるほうがいいかもしれません。
料理とか掃除をプロレベルまで追求し、マネタイズすることもできると思うからです。
片付けコンサルタントの近藤麻理恵さんはその方向で世界的に成功してる人ですね。
あるいはもしその人がタイプ的に田舎人間だとしたら、家賃などのコストがかかる都会でなく田舎に住んで、
仕事の時間をなるべく少なくするという選択肢もあるかもしれません。
自分が食べる分は畑で育てるという選択肢もありですね。

 

逆に仕事だけしていたいという人は、掃除・洗濯・料理などは外注すればいいと思います。
仕事人間の場合は都会に住むほうがメリットがあるでしょう。

 

昔は住む地域や社会的な制度が固定化されていたので、まったく選択の余地がありませんでしたが、
近代化以降ではだいぶ自由に選べるようになってきました。
そういう意味で、新しく手にした自由を考えるための問いという見方もできるかもしれません。

 

自分はというと田舎人間で、後者は中間でしょうか。
現在は東京の世田谷区に住んでいますが、このエリアより都市部では生活できないです。
感覚的な境界線として、山手通りよりも内側になると、緑が少なすぎて息ができない感じになります。
後者の問いはデザイナーとしてはけっこう重要で、どっちかに行き過ぎている人はいいデザインはできないと思っています。
人がどういう風に暮らしているかわかっているからこそ有益なデザインを提示できるし、
ビジネス感覚も持ち合わせているからこそ、客観的な判断ができるからです。
生活から乖離しすぎてもいけないし、生活にどっぷりハマりすぎてもいけない。

 

これからますます民主的でリベラルな方向に世の中が進むことを考えると
どのあたりの人間なのか一度考えておくのは無駄じゃないかもしれないですね。

 

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まえまえから日本人の本質とはなにかと考えていた。

過労死するくらい働いたり、融通がきかず真面目だったり、あるいは本音と建前を使い分けたりと、
いろいろと外の国の人から揶揄されてきたが、最近は表題のように「オタク」と「変態」という2つの要素が
本質なんじゃないかと思っている。

 

オタクとは、要するに部分に固執する性質のことだ。
全体を俯瞰するのではなく、ディティールについつい目が向いてしまう。
広い分野を横断的に渡り歩くよりも、ひとつの専門性を掘り下げたくなる。
最初はアニメやフィギアなどを修飾する言葉として使われ始めたが
基本的にはあるジャンルへの視野狭窄の状態を指していて、
その言葉が生まれるずっと前から似たような気質を日本人は有していたのだと思う。
iPodの裏の鏡面磨きやナノサイズの注射針をつくるなど
ディティールを極めることに関しては他の追随を許さない。

 

なぜそのような気質なのか勝手気ままに論じれば
おそらくひとつに稲作文化の影響があるのだろうと思う。
田んぼに稲を一本一本等間隔に植えていく作業は、細かな神経を育むことを可能にし、
意識がディティールに向かう傾向を生む。
加えて国土面積が少ないということも関係していると考えられる。
日本では基本的に「小さいことは良いこと」という考えがベースにあり、
ウォークマンから車までコンパクトにつくられてきた。
それは限られたスペースを活用しないといけないからで
「大きいことは良いこと」という大陸文化が生んだアメ車のコンセプトとはだいぶ違う。
田植えもそういった合理性が関係しているとすると、国土の狭さがオタク気質を育む要因になったのだろう。

 

変態とは、「方向性の特殊さ」だと思う。
グローバルに見れば、日本の鉄道ダイヤの正確さは稀有であるし、
掃除がすみずみまで行き届いている状態は潔癖である。
正確でないとイライラするし、清潔じゃないと気持ちが悪い。
海外から訪れた人は、日本人が手づかみで食事をするわけでもないのに、
なぜ食べる前にお手拭きを使うのかわからないらしいし、
出発が数分遅れただけで詫びる列車内アナウンスは、世界ではニュースとして取り上げられる。
正確さと清潔さはもちろん悪いことではないが、グローバルに見ればかなり偏向しているのは間違いない。

 

なぜそのような気質なのか勝手気ままに論じれば
おそらくひとつに島国という地理的な要因が関係しているのだろう。
情報がシャットダウンされやすいので、文化的にガラパゴス化してしまうからだ。
これが陸続きであれば他国から干渉されるので、特殊な方向に進んでも、ある程度の客観性は保たれやすい。
しかし海に囲まれていると、知らず知らずのうちに、一般性を欠いたエリアに流されてしまう。
さらには日本は鎖国までしていた歴史があり、他国に支配されたこともほぼないので、
純粋培養に近い形で変態性が保持されてきた。
そういった土壌が日本のユニークな文化を生んだし、現代でも変態でいることを社会的に容易にしていると思う。

 

低迷している日本だが、これからグローバルな世界でどのように振る舞っていけばいいのか。

 

ガラパゴス化しやすい点を除けば、上記の気質は価値をつくることにとても向いていると思う。
変態性はオリジナリティを生む豊かな土壌であるし、オタク気質はそのオリジナリティを磨くスキルに繋がることが多いからだ。
しかし現在は価値がガラパゴス化してしまい力を発揮できていないと感じる。
得てして変態やオタクの人々は自分たちが特殊であることに気づきにくい。

 

まずは自分達が変態でオタクであると認めることから物事は始まるのかもしれない。

 

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醤油差し遍歴

2018.02.27

みなさんは普段どんな醤油差しをつかってますか?

 

「理想の醤油差しを探すのは一生の仕事」とは料理研究家小林カツ代の言葉ですが
確かにこれだ!という醤油差しに巡り合うのはなかなかむつかしいものです。

 

なぜなら醤油差しって単純そうなのに、求められる機能が意外とたくさんあるから。
そして要求される水準も高いのだと思います。おそらく日常的によく使うからでしょうね。

 

今回は僕が所有する醤油差しの中からベストを選びつつ、その理由を説明していきたいと思います。

 

上記の写真が僕がいままで使ってきた醤油差し。
まず醤油差しに求められる機能として、液だれしないってことが一番に挙げられるでしょう。

 

醤油は有機的な高濃度の液体であるゆえ、とにかく扱いづらい。
白木の机なんかは一発で跡ができてしまいますし、繊維に対してもシミになりやすく、
こぼれた場合はきちんとふきとるのもけっこう大変です。
おろしたての真っ白なワンピースなどにはなるべく近づけたくないですね。

 

なので購入する際は、そのことをきちんと店員さんに確かめたり、レビューをしっかり読んでいるので
液だれするものは持っていません。
まあおそらく他の人もほとんど同じような感じではないでしょうか。

 

問題として次に挙げられるのが目詰まりだと思います。

 

この醤油差しはほぼ100%の確率で口の部分に醤油が溜まり、そのまま放置すると出なくなります。
買ってきてすぐその問題が発覚してがっかりしました。
形は好きなんですけどね。

 

ただこの問題は程度の問題とも言えるでしょう。
後に出てくる醤油差しのように頻度と他のメリットを天秤にかけてメリットが上回ることもあるからです。
しかしこの醤油差しの場合はあまりにも高頻度なので、形の良さが上回ることはありません。

 

次に大事なのは安定感があるかどうか。
これくらい高さがあるとどうしても転倒しやすくなります。

 

こちらも同じくらいの高さですが、底部方向に形が広がっているので重心が下に移動し、安定しています。

 

もちろん慎重な人は背が高くても大丈夫なんだと思いますが、僕は不注意な人間なので、
倒れやすい醤油差しは不向きです。

 

残るはこの3つ。

 

このあたりになるとだいぶ絞られてるので、かなり判断が難しく、良いか悪いかは個人によって変わってくるでしょう。

 

真ん中の白磁のものは形も美しく、詰め替えもしやすいのですが、これもけっこう目詰まりしやすいんですよね。
冒頭のほどではないですが、そもそも醤油差しにはこの形状の注ぎ口は向いてないのかもしれません。
無理やり傾けていると、求めている量を超え、一気にドバーっと出てくることもあります。
ただ頻度的にはたまにという感じなので、よく洗うので問題ないという人もいるでしょう。取捨選択の問題。
あと磁器製で残量が見えないのが自分的にはややマイナスでしょうか。そういった理由で食卓にはそんなに登りません。

 

話は変わりますが、醤油って一滴二滴だけの場合と、のの字を描くくらいたくさんかける場合がありますよね。あるいはその中間的なかけ方も。
多用途ってのも醤油差しの存在を難しくしてる要因のひとつだと思われます。

 

ということで残りはこれら。
この2つは日常的によく使っているのですが、気に入っているのは右の方でしょうか。

 

左は絶対に液だれしないを謳い文句に何年か前に発売された商品で、その文句通りぜんぜん液だれしません。
形もあの有名な醤油差しをオマージュとしているのか過不足なく秀逸だと思います。
ただ機能は十分で過不足ないのですが、使っていて楽しいのは右の方なんですよね。
それが、抑揚が豊かなシルエットや手にすっぽり収まるかわいらしいサイズ感によるものなのか
理由はまだ完全にわかってないですが。

 

しかしこれにも容量が少ないという難点があり、現実的にはこの2つを併用しています。
上記はあくまで現在の僕が選ぶもので、ライフスタイルの変化によって今後順位が変動する可能性が十分にあります。
家族が増え、容量がないと使いにくので、やはり白磁のが良い。とかそのうち言い出すかもしれません。
そのあたりがデザインの難しいところ。絶対はなく、最適解があるだけだからです。
一人の人間の基準でさえそうなのだから、あとは推して知るべしです。

 

ベストなものを自分でも開発してみたいとは思うのですが、果たして何年かかることやら。

 

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普段はデザインなどに関連することばかり書いているので
今回はあまり関係ない、やや夢見たいな話を記事にしてみたいと思います。

 

これは昔から考えている世の中がちょっと良くなるんじゃないかというプロジェクト。
とてもハードルが高そうだけれど、実現すれば社会が混ざることで、
人々の相互的な理解度が増し、世の中が上手く廻っていくきっかけになるのではないだろうか。
ちなみに経済効果とかスキルアップとか直接的なメリットは皆無です。

 

その内容とは、自分がいま就いている職種からなるべく遠いと考えられる仕事を義務的に経験させられるということ。
半年でもいいし、短ければ3ヶ月くらいでもいいけど、ある程度長い方が効果が出そう。

 

以下概要。

 

人々は毎日決まった仕事に従事している。それが日常である。
料理人ならば厨房で食材と格闘しているだろうし、プログラマーならモニターをにらみコードを書いている。
学校の先生なら生徒相手に教えているし、農家ならば畑に種を蒔いているだろう。
とてもいいことだ。なにも問題はない。
専門性を高めるのは大事なことだし、社会にはそういう人々が増える方がメリットがあるのだけれども、
限られた仕事をするだけが世の中にとって本当にいいことなのだろうか。

 

なぜそう考えるかというと、現代社会で働く人はとかくルーティンに陥りやすく、
世の中の仕組みを知る機会が減っていると思うから。

 

働き始めて間もない頃は、目に入るものはなんでも新しいので、
乾ききったスポンジが吸収するようにさまざまな物事を経験していく。
しかしその吸収も一定のラインを越えると飽和して、止まってしまう。
インプットがなくなった状態でも、本人としては実務経験があるので、
社会のことをよく知った気になっているかもしれないが、
知っているのは会社内だけだったり、専門の範囲に限定されることが多い。
ひとたび外に出ると常識が通じなかったり、初めて知ることも多いのではないだろうか。
(自戒を込めたプロジェクトなんです)

 

社会のことを知らないと、他の人がどういう日々をおくっているのか想像する機会が失われてしまう。
例えば弁護士の、漁師の、保育園の先生の、自動車のセールスマンの、エンジニアの、
国会議員の、パイロットの、映画監督の、ジャーナリストの日常がどういうものなのか僕は知らない。

 

知らないと想像しづらいので、他の人々への理解や優しさを持ちにくくなると思う。
逆にどのようなことが大変なのかと知っていると、ある程度は寛容になれるだろう。

 

まあ簡単に言ってしまえば、理解や優しさがない人の典型が酒場で説教をはじめるオヤジであり、
そういう人々が少ない方がいい社会だと思っているわけだ。
もっと言えば、ギリシャ哲学的な「自分が世の中のことをどれだけ知らないのか自分で分かっている=無知の知」
のようなものを啓蒙するプロジェクトとも言えるかもしれない。

 

具体的には、働く場所は変わっても給料は変わらず、もともとの額が本来の職場から支払われる。
医者だったり、パイロットだったりと専門的過ぎてまったく関われない分野もあるだろうから
そういう場合はアシスタントとしてつけてもらう。
タイミングが悪く、すぐに職場を離れられない場合は猶予期間が考慮される。
あるいは2つの仕事の掛け持ち制でもいいかも知れない。その場合は働いた時間の合計でカウントする。
公務員も民間で働ければ一番良いけれど、不可能ならば公務員の中で交代する。
(民間人も公務員を経験できるといいですね)
難しいのは僕みたいに会社から給料が支給されない自営やフリーランスのケース。
その場合はある程度税金を使わないとできないかもしれないが、とりえず着手しやすそうな会社員からスタートして様子を見る。

 

最初人々は戸惑い、不平不満を述べ、社会は混乱すると思われる。
しかしロングスパンで見てみれば絶対にいい方向に進むと思う。
やや大げさに言えば、プロジェクトを通して得られた「想像する機会」は、社会的な相互理解を助長するだけでなく、
人種差別やテロなども抑止することができるのではないだろうか。

 

同じように、義務的に役割を与えられる裁判員制度が導入されているのも
「想像する機会」が足りていないと人々が潜在的に思っているからなのかもしれない。

 

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甲州街道を越えて辿り着く古い町。
雨が降るとうずうずと撮りたくなってしまい、レインウエアをはおって何度か通っている。

 

ここは、小説『赤目四十八瀧心中未遂』に出てきた雨樋が錆び付いた町を彷彿とさせる。

 

使用機材:

SONY NEX-5

Leica Summaron 35mm F3.5

ヘリコイド付きマウントアダプター(Voigtlander)

LM変換リング

 

カメラについての詳細はこちら

 

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