すいせい

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このブログは
デザイナー樋口賢太郎が
綴る日々のことです

 

デザイン職あるいはクリエイティブにまつわる職にとって大事なことはたくさんあると思われるが、
表題の「幼児性」はとても重要な意味を持つのではないかと、最近考えている。

 

幼児性とは何か? 簡単に言うと、自分の心に素直に従うことだと思う。
いや、ただの心ではなく少年のような心という注釈付きだ。

 

人は年齢を重ねるにつれて、鈍感になっていく(と考えている)。
そのことを「おじさん化」というと、性差別と指摘されそうだが、実際に男のほうがそういった傾向は顕著ではないだろうか。

 

義務教育を終えて社会人となり、30を過ぎるころにはだいたいおじさん化が始まる。
もしかしたらそれよりも前から始まっているかもしれないが
おおよそ社会に慣れてきたころから感覚が鈍麻していくと想像している。
(たぶん自分はなんでもわかっているという過信が、鈍感でもいいという甘えを生むのだろう←自戒を込めて)

 

服装や髪型に気を使わなくなり、世の潮流からも少しずつ距離が出てくる。
新しい音楽を探すこともなくなり、美術館や映画館などからも足が遠のき、
思考や好みが固定化して、動きがなくなる。
ときどき世の中とのギャップを感じることはあるが、まあ大丈夫と放っておくと、
もう後戻りできない状態になってしまっていることに、いつの日か気付く。
これが自分が考えるおじさん化のおおまかなイメージだ。

 

ひとは幼稚園や小学校の低学年くらいまで鋭敏な感覚を持っている。
子供は五感が全方位に開いているので、あらゆることに興味があり、
放っておいても、絵を描くし、歌を口ずさみ、音楽に合わせて踊る。
本来的にひとはみずみずしい感受性をもっており、芸術系の活動も好きなはずなのに、
だんだんと得意不得意がわかってきて、あるいは成績などの社会的評価をつけられることで、自ら心の動きを封じ込めてしまう。
もちろん素質を見極めることは大事なことだし、分別がつかないと生きてはいけないと思うけれども、
女性が男性と比べて、大人になってもやわらかい心を有している事実は、やはり一考の価値があるだろう。
得意不得意は把握しつつも、感性までは閉ざさない、その辺のバランスはなかなか難しい。

 

クリエイティブ系に進んだひとは、得意ということもあるので、子供のころとギャップがなく
感性を維持しているひとが多いと思う。

 

幼児性とは、そういった鋭敏な感覚を信じて、子供っぽいかなとか、馬鹿馬鹿しいかなという疑念が湧いてきたとしても、
素直に躊躇なく表現していくことだと考えている。

 

例えば街中をピンクのペンキで塗ったら面白いじゃないかとか、道を歩いているときに地球の重力がなくなってしまったらどうしようとか、
池の水をぜんぶ抜いてみたらどうなるんだろうとか(そういうテレビ番組もありましたね)、
常識人には馬鹿馬鹿しいと一蹴される思い付きかもしれないが、
そういったアイディアの種がクリエイティブのダイナミズムを生むのではないだろうか。

 

子供のころの感性は一生の宝だなあ、忘れないようにしないとなあと最近つくづく思っている。

 

 

 

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出張@那須

2024.05.28

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善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。
しかるを世のひとつねにいはく、悪人なを往生す、いかにいはんや善人をやと。

——親鸞『歎異抄』

 

ひとはなぜ悪に惹かれるのか。
悪の美学ではないが「善」とされるものにはない魅力があるように思える。

 

以前ちょいワルのことについて投稿したことがあったが
最近その考えをアップデートしているので書いてみたい。

 

該当の記事はこちら

 

このときは、マイケル・ジャクソンのアルバムを例に出し、
良いと悪いの間を揺らぐことに意味があるという内容だった。

 

いま現在は「悪」という概念自体が、実は悪ではない場合があるのではないかと考えている。

 

そもそも善悪という視点自体が、曖昧で掴みどころがないものではないだろうか。
道徳や規範や常識などに縛られることも多く、
時代や世間の空気、あるいは政治性などにも影響を受けてしまいやすい。

 

つまりひとが惹きつけられてしまう悪は、一時的に悪のラベルが貼られているが、
実は本質的で重要な意味を持ち、世間が変わり、価値観が変わると
その真価が発揮されるようになるものではないかと、いまのところは考えている。
世間一般には悪とされていたとしても、本能的にそういったことを嗅ぎ分けているために、
惹かれてしまうのではないだろうか。

 

ヤクザという存在を肯定するわけではないが、そういったジャンルの映画を楽しむのも、
暴力性などが違ったかたちで現れると魅力的であるからだろうと思う。
反社会的であったり、モラルに反する暴力性は映画のなかだけでとどめておきたいが、
現実社会では例えば格闘技というジャンルであれば、その発露がうまくいくかもしれない。
あるいは身体をダイナミックに動かすスポーツも、選択肢に入るかもしれない。

 

詐欺行為がフィクションで成立するのも、あざやかにひとを騙す、騙されることに面白さがあるからで、
たとえばマジック(手品)などはその「騙す」部分だけを、純粋なエンターテイメントに昇華している。

 

マイケルのような音楽や芸能の分野などは、言語化できない魅力の総本山である。
暴力性はもちろん、性的なもの、狡猾さ、横柄さ、自己顕示欲などもポジティブに転換できるし
逆に言うとそういった要素がないと惹きつけられない気がする。

 

冒頭は「悪人こそ救われる」で有名な親鸞の『悪人正機』の言葉であるが、
ここでいう悪人とはすべての人類のことを指し、ひとはそもそも善悪がわからないという。
煩悩を持ち、まだらのように善悪が入り混じる人間はすべて悪人である、とは強い言葉であるが、
反面、原罪を喝破している意味で優しい言葉でもある。

 

いつの時代もひとが悪に魅了されるのは、
分つ難く煩悩や原罪から切り離すことができない宿命を背負っているからだろう。
その足元には常識を超えた何かが潜んでいるのではないかと想像する。

 

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街中にはポスターなどいろんなグラフィックデザインが溢れていますが
この投稿ではプロではないと思われる人達によるデザインを
民藝的グラフィックと命名し、勝手に選出させていただきました。
狙っていない良さ、無自覚さが最大の魅力です。

 

第一回はこちら。

 

上は明大前のフォトコンテストのグラフィック。
「明」の上に文字を重ねようとはなかなか思わないって、
その考えがデザイナーの固定観念に陥っていることを痛感させられました。
やはり発想はこのように自由でないといけないですね。
色のチョイスもいいですし、承認印を真ん中寄りに押されても
びくともしないデザインの堅牢さも見倣わないとと思いました。

 

初午(はつうま)とは、2月の最初の「午の日」をさし、
稲荷神のお祭りが行われる日とのこと。
黄色バックに青の文字、イラストが映えています。
素朴ながらも神秘的な雰囲気なイラストにじわっとした味わいがあります。

 

旧山手通り沿いにある材木場。
シンプルに明朝体だけで組まれた社名がいいですね。
これはなんといっても宇田川木材という言葉の美しさにつきます。
文字並び、音の響きなど、それらが喚起するイメージが豊かなので、
もし自分にデザインを依頼されたとしても極力いじりたくない。
でも明朝体を打っただけだと手を抜いていると思われて、
プレゼンは通らないだろうなあ。

 

宿命的にデザイナーは水平垂直に合わせるのが好き、あるいは45度。
こういった矢印の傾きも無意識に水平に合わせてしまいがちですが
ぎりぎりの傾きに面白さがあることを、再認識しました。
こちらも固定観念から解き放ってくれるデザインです。

 

無骨でアイコニックなイラストに魅せられました。
by 服部一成と言われても信じてしまいそう。
ぜったい理解して描いてないだろ、とつっこみたくなる手の形に魅了されます。
しかし一見無骨に見えながら、スミ100%ではなく、
ダークグレーにしているところに高度なテクニックを感じ、
もしかしたら本当に服部一成?なのか。

 

鎌倉の有名なカフェのコーヒー袋。
カフェのデザインは自分もやったことがありますが
これくらいがちょうど良いのではと、思わされてしまう説得力があります。
デザイナーの手が入ったものは、ときに息苦しさを生んでしまうので
カフェのデザインなどは、手書きくらいがちょうどいいのかもしれません。
ただ逆に手書きが増えすぎると、バランスが悪くなるのが難しいところ。

 

補色の鮮やかさが食欲をそそります。
「麻婆」「肉」「玉」など所々、色が変わっているのが効いてますが
なんといってもこのグラフィックは達筆さによって成立していると思います。
筆文字 ver.が見てみたい。

 

いわゆる民藝とは違うかもしれないですが
果物が入ってそうな容器にゼリーを入れるそのズラしかたが
秀逸だなと思いました。

以上民藝的グラフィック選でした。

 

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昨年の夏くらいに骨董市で買った器。

 

なるべく知識で見ないようにしているが、いい物だなと見惚れて、若い店主に聞くとやはり古染付だと言う。
リムが付いているのは割と珍しく(リムの魅力についてはまた改めて紹介したい)、
値段もこなれていたので、はじめての古染付を手に入れてみた。

 

古染付(こそめつけ)とは江戸時代くらいに景徳鎮で焼かれていた器類のことで、
中国本土では見つかっていないため、日本の茶人の依頼によってつくられたと言われている。
色んな良さがあると思うけれど、洗練されきっていない、大らかでのびのびとした、
むしろ完成を避けるような器づくりに個人的な魅力を感じる。

 

家に帰り、荷を解き、テーブルのうえに置く瞬間がいちばん楽しみであり、また緊張する。

 

なんというか自分にとっての日常の象徴であるテーブルに、買ってきたばかりの非日常である骨董が置かれるとき、
今後それを楽しんでいけるのか露わになるからだ。
骨董市でいいなと思って見ていてもテーブルに置いたら違って感じることもあり、その辺はなかなか難しい。
まあ結局のところ自分の目が甘く、正しく見れていないということだと思うけれど、
机に置くことは資金石というか、ひとつの基準となっている。

 

この古染付に関しては素直にいいなと思った。
もちろん他のものでも同じくらいいいと思うこともあるので、
とりわけ感動はしなかったが、愛でるにはじゅうぶん良かった。

 

しかしここからが古染付の凄さなのだが、以来ずっとテーブルのうえに置いて楽しんでいる。
このようなことはいままでなかった。
見ていたいという気持ちがつづき、仕舞い込むことなく半年以上も経ってしまった。
ふだんは邪魔にならないようテーブルの隅にあって、目の端に入れていたり、
ときどきはじっくりと観察しているが不思議と飽きることがない。
もちろん器としても使いやすい。

 

「飽きることとは理解すること」といったのは元上司の原研哉氏であるが
その言葉を借りるとすると、いまだこの器の魅力を理解できていないのだろう。

 

一見3枚とも同じような大きさと模様だが、時間が経つと、優劣があるのがわかってくる。
時間をかけてわかることがあるんだなあと所有することの大切さを感じる。

 

この1枚がとくに優れている。
絵付のバランスがいいのはもちろんだが、特筆すべきはテクスチャー。
特有のミルキーな釉薬が薄くかかっているので、硬質な磁器であるにも関わらず、
表面にまるで液体のような柔らかさを感じる。
僅かな差が深みを生んでいる。

 

いまだ飽きずに理解できていないということは、
このつくり手なり、依頼主の意図するところが自分の想像を遥かに超えているということだ。
エベレストのように高い山は、ふもとから全容を把握することができない。

 

もしかしたら生涯かけても理解することはできないのかもしれない、となかば諦めに近い気持ちになってしまうのも、
古物を集める楽しさだと思っている。

 

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